唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

質疑からの応答

2013-11-24 13:13:05 | 唯識入門

FBと記事が重なりますが、FBからの転載になります。

 「昨日、住職からご質問をいただきました。「能く彼を取<wbr></wbr>る覚も亦た彼を縁ぜざるべし。是れ能取なるが故に。此を<wbr></wbr>縁ずる覚のごとし。」、ここは何を言い表しているのか、<wbr></wbr>ということでした。昨日の講義録にも書き込んでいますが、もう少し尋ねてまいりたいと思います。

 この一段は、「合して小乗・外道の所<wbr></wbr>・能取は無しと破す」という科文が施されているところに<wbr></wbr>なります。所取・能取は実法として存在するわけではない<wbr></wbr>、また、依他起性も「他に依って起こる」縁起の法、「則<wbr></wbr>ち此有るが故に彼有り。此生ずるが故に彼生ず」ですから<wbr></wbr>、実有ではなく仮有であり、まさしく幻事のようなもので<wbr></wbr>ある、といっています。

 一切の外境は、識所変であるけれども、能変の識が<wbr></wbr>実有として存在するのかというと、そうではない、識所変<wbr></wbr>の似法である。「妄りて心・心所の外に実に境有りと執す<wbr></wbr>る」、内外分断している実体化の説を破る為に、仮に「唯<wbr></wbr>識無境」と説くのである。
 「よく外境を認識する心・心所もまた、外境を認識する<wbr></wbr>ことはできない。なぜならば、「是れ能取なるが故に」、<wbr></wbr>外境は心・心所が外に投げ出されたものであり、実に外境<wbr></wbr>は無だからである。無なるものを縁じ認識することは出来<wbr></wbr>ない。喩ば、「此を縁ずる覚」のようなものである。「此<wbr></wbr>」は覚のことを指しています。 

 『述記』によりますと、「<wbr></wbr>心等を縁ずる心とは、即ち他心智等なり」。すなわち、他<wbr></wbr>人の心を自分の心とすることは出来ないようなものである、と<wbr></wbr>。外境は実法として執するものではなく、縁起によって作<wbr></wbr>り出されたもの。あるがままのものを、あるがまま<wbr></wbr>に認識しているのではなく、自分の心を経由させ、自分の<wbr></wbr>心の状態に応じて色づけされたものを実体化し執着を起こ<wbr></wbr>しているに過ぎない。
 『解深密経』に「彼の影像は唯だ是れ識なるに由るが故<wbr></wbr>に、善男子、我、識の所縁は唯識の所現なりと説くが故な<wbr></wbr>り」と説かれている。 あるがままを本質(疎所縁縁)と<wbr></wbr>し、その本質を所縁として影像(親所縁縁)を作り出して<wbr></wbr>いる。その影像を実体化し執着を起こしているのを妄執と<wbr></wbr>いい、すべては実体化の妄執を払拭する為に「唯だ識のみ<wbr></wbr>有り」と説くのでる、と。その識もまた有ると執すること<wbr></wbr>は外道と同様の過ちをおかすことにもなる。聞法のむずかし<wbr></wbr>さでもあり、聞法のエアーポケットにもなる問題提起であ<wbr></wbr>ろう、と思う。

 「ただ我が心の思いだけがある」ことを徹底したのが親鸞聖人ではなかろうか。