「相用別なる者のみを便ち別に之を立てたり、余の善は然らず、故に責む応からず。」(『論』第六・九右)
前科段において問いが立てられていましたが、その問いに対する答えが本科段になります。
五位百法の中で、善の心所を十一たてるのは、善の性格をもったものとして、体相と業用について固有で別なるもののみを別にたてたのである、と説明されます。
他の善はそうではない、と。体相と業用について固有で別なるものではないので立てないのである、このような理由からこの問題はこれ以上はつきつめないのである、と。
ちょっと解りにくい説明ですね。体相と業用が別であるか、ないかということを以て十一の善の心所に入れるのか、入れないのかということになります。独自で固有の体のもたないもの、分位仮立のものは善の心所であっても、十一の中には入れないのです。
但し、行捨・不害・不放逸の三つは分位仮立法にも拘らず、善の心所に入れられているとう問題があります。
行捨 → 精進・無貪・無瞋・無癡の上に分位仮立した心所である。
不害 → 無瞋の分位仮立した心所
不放逸 → 精進・無貪・無瞋・無癡の上に分位仮立した心所である。
この問題に対しては、古来より異論がありますが、この三つには特に勝れた業用があるので、善の十一の心所の中に入れられていると説明されています。 「論。相用別者至故不應責 述曰。論主答曰。相用別者別立爲善。餘所翻善相用不別。故不立之。汝何須責 問若爾此何別。自餘何無用。」(『述記』第六本下・三十四右。大正43・440c) (「述して曰く。論主答えて曰く。相用別なる者を別に立てて善と為り、余の所翻の善は相用別ならず、故に之を立てず。 つづく
汝何んぞ責むることを須うるや。問、若し爾らば、此に何の別の用ありや。余は何ぞ無用なるや。」)
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