唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

雑感

2013-11-13 23:52:55 | 生きることの意味

 私の思いを超えて、深層の意識が働いている、阿頼耶識。アーラヤ、それは雪山、万年の雪をいただいているヒマーラヤを目の前に見て、ヨーガ行者は、深層の意識に蓄えられている金剛石を見だしたのである。その頂は善悪を包み込み、何事も分別無く受け入れていて盤石である。そんな不動の意識が私の中で確実に働いていることを知っていたのであろうか。

 アーラヤ識、その位は我愛現行執蔵位という。迷ってる位という意味である。しかし唯だ迷っているというわけではない。

 アーラヤ識を自相として転回してくる世界は広大無辺である。私が、今、ここに、現に、存在していることを異熟、過去世から今に至るまでの業種子が開花した今という意味である。業種子を一切種子識といい表している。一切という意味は、何事も捨てず、分別せずに受け入れている平等性を表している。私は差別の中心となって時をわかたず、自他差別の中心的人物をして刃を振り下ろしている、しかし、その底に流れている意識は、何事にも覆われず、平等性を生きている。この平等性を法性法身というのではないであろうか。平等性を通して知られる世界、それが法性・真如・無為自然として語られる世界なのであろう。

 アーラヤ識、その持ってる世界観は、人間観でもあり、人間像でもあるのであろう。アーラヤ識、真如無為自然界と一如である。アーラヤ識を自相として転回されてくるのが、果相であり、因相である。

 迷いは、倶生として表されている。倶生の法・我執と真如は一体である。矛盾しているが同一である。そこに救済の事実があるのであろう。

 迷っていること、矛盾しているが、救われているのである。

 私たちは、それを信ずるのみである。信が自相なのであろう。根本本願は第十八願だといわれている。「至心・信楽・欲生」の三心が説かれている。迷悟に関係なく、私は私を信じて生きている。いうなれば勝解者であり、信解している。それは深層のアーラヤ識の純粋性によるものなのだろう。純粋性は三界を超えている。「勝過三界道 究竟如虚空 広大無辺際」である。すべてを包みこんでいる。それを自相としている。そこには浄土に迎えとるという働きがあるのであろう、因相といい、欲生と表わされている。ならば、至心は果相である。果相とは、善悪業果位という。因は善悪、果は無記という位である。私が生きている現今は無記という平等性をもっているのである。いつ、いかなる時であっても無記である。真如が具体性を持って私の命の深層で働いている。一切の有情に、である。

 アーラヤ識を根本識として転識しているのが私の意識である。私の分別識のその真っただ中にアーラヤ識が働いている、なんということなのであろう。私にはなにも捨てるものはなかったのである。「門徒もの知らず」と祖母はよく語っていた。ようやくその意味が、分別を超えた世界を語っていたのであるということが頷けるように育てられてきた。有り難いことである。

 無為涅槃界がアーラヤ識と異にすることはないと語ってることは、迷・悟は異ではないということであろう。救いはすでにして成就していたのである。無始以来である。「この身今生にして」という、今生に「救済の事実」に頷くことであろう。

 親鸞聖人は生涯「救済の事実」を如来回向とし、働きを、本願力として私に回向されているのではないであろうか。事実は還相であり、頷きが往相なのではないであろうか。往相・還相、私の中にあっては、アーラヤ識として私を支えている。P1010019
 

 『群萌響命』 という書物がでました。