唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (19) 補足説明

2013-11-17 11:47:39 | 心の構造について

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 五位百法を図式します。(参照は、『唯識学研究』下巻p126)

 法を五位に分かち、色法に対し色蘊を、心所を三蘊(受蘊・想蘊・行蘊)に別開し、心王を八識に展開し、五蘊仮和合を示し、無我であることを示しています。尚、色蘊を開いて十二処とし、十二処を開いて十八界を説いています。『倶舎論』には、凡夫の機類(上品・中品・下品)に応じて、無我であることを知らしめる為に説く、と示されています。

 また、法を有為・無為に分けられますが、「為」は為作・造作の意義を示し、因縁に依って生起し、生滅変化するものを有為法、そうでないものを無為法を示しています。

 有為はまた、有漏と無漏に分けられ、有漏は三性(善・悪・無記)に亘るけれども、無漏は善性に限るとされます。無為は無漏であり、善性であるわけです。

 蔵の三義

 阿頼耶識について、 「初能変の識を大小乗教に阿頼耶と名づく」と説かれ、阿頼耶識に具わる三面の様相を三相として示しています。所謂、自相・果相・因相ですが、第八識は阿頼耶を以て自相(自体)とし、蔵(アーラヤ)という意義を持つ。蔵にまた三つの意義があり、それぞれ能蔵・所蔵・執蔵と示しています。三蔵の意義は『論』に「雑染が與に互に縁と為るが故に(能蔵・所蔵)、有情に執せられ自の内我と為るが故に(執蔵)。」と述べられています。

 能蔵は持種の義(持種の辺是れ能蔵なり)といわれ、それに対し所蔵は受熏の義)(受熏の辺是れ所蔵なり)、執蔵は我愛に依って縁じられ、執せられたもの(我愛縁執是れ執蔵の義なり)と説明されます。

 阿頼耶識は、一切の種子を摂蔵していることから能蔵の義があり、此れに対する所蔵は種子になります。

 所蔵は、阿頼耶識は雑染法である七転識の所熏・所依と為り(所蔵は第八識)、此れに対する能蔵は、雑染法である。

 執蔵は、我愛縁執の義と説かれていますが、この識の見分は無始以来恒に第七末那識によって我と執せられてあることから能執蔵といわれ、これに対する所執蔵は第八識になります。

 以上の三義を以て阿頼耶識をいいあらわしていますが、阿頼耶という名は、執蔵の義を以ているということになります。従って、第八識の自相は執蔵ということになります。そしてこの三相に三名を立てるといわれています。

 私たちが何故苦悩しているのか、無意味に苦悩していることではないということを阿頼耶識は物語っています。煩悩について実法か分位仮立法かと考究しているわけですが、この原点が「執」ということにおいて明らかにされているのですね。今回、正厳寺様で講義させていただいた中で、帰敬式の意義を述べました。「三つの髻を切る」という、三つの髻は、名聞・利養・勝他という私たちの根本の貪・瞋・癡の現行を顕わしているわけです。これは「こわされたくない・批判されたくない」という怯えである、といえるのですが、この怯えは縁起法を無視して生起してきたものですから、遍計所執性といえます。無いものに執着しているわけですから遍計です、しかし、苦悩しているということは縁に依って生起してきますから、依他起性なのですね。煩悩を根拠とし、所依として生起してくるのが苦悩であるわけです。そしてこの苦悩の生起してくる因を知ることに於いて遍計所執性を超えることができるのですね。それが智慧の働きに依るわけでしょう。円成実性といわれていますが、真宗では本願力回向として現生不退の位をさずかるわけでしょう。またこの位を現生正定聚住不退転といい、昔から、「この身このままのお助け」と教えられてきたのではないでしょうか。