唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

質疑からの応答 (続) 依他起性と円成実性の関係

2013-11-25 23:03:03 | 唯識入門

 人間は関係性を生きる存在であり、現象も関係性の中から生じてくるといわれます。「ありがとう」もこのような関係性の中から発生される言葉のように思われます。しかし、ここには深い問題が潜んでいるようです。本来関係性は「無」において成り立つものです。無によって成り立つとはどのようなことなのでしょう。

 依他起性とは、他に依って起こるもの、という意味であり、現象的存在すべては縁に依って生じたものである。依他起性は幻事のように、有るようで実には無い存在であり、仮有なるものである。

 「諸識の所縁は唯だ識の所現のみなり。依他起性は幻事の如し等と」

 認識の構造は、「識体転じて二分に似る」。識体が転じて、能縁に似る見分が、所縁に似る相分を縁ずるという構造になります。識体は能変、見分・相分は所変で、三分共に縁より生じた依他起性なのです。

 ここが問題になります。我執・法執がここで働いてくるのです。遍計所執性の問題です。すべてが依他起性に於て生起するものであれば、遍計することはないはずです。しかし私たちは日常茶飯事に苦悩しつづけています。何故なんでしょうか。

 先程、人間は関係性を生きる存在だといいましたが、ここに潜んでいる執が働いているのです。自分を中心にした関係性です。都合の良いものは善であり、都合の悪いものは悪であるという善悪二元論を以て関係性を語っても、それは遍計所執性を超えるものではありません。そして、私たちの心の構造は二元論を以て成り立っているのです。

 人間関係論は依他起性を問いとして論じなければならないのですが、人間を問いつつも、「自」を問うことは有りません。何故ならば、依他起性を問うということは、円成実性を問わなければ依他起性が明らかにならないということなのです。

 阿頼耶識の三相に於て三位を立つ、というところで語られる、現行位は我愛現行執蔵位といわれています。識が我愛によって執されているのが、現実の私の姿であると言い当てているのです。『成唯識論』には「自心の相を起こして実我・実法と為す」といわれ「無始の時より来た、虚妄に熏習せし内因力の故に」(取意)と見抜いてきました。

 人間関係論の主題は、まさにこの「無始の時よりこの来」によって、人間存在の本質を問わなければなりません。「虚妄」という所の現行が、遍計所執性なのです。依他起性の於に遍計所執性なのです。

 一言でいえば、真如の真っ只中にいながら、遮っている自分がいるということなのでしょう。真如一実功徳大宝海という、真如は依他起性と非一非異の関係にあることを物語っています。この関係性が「法」なのでしょう。南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏は法ですから、私を明らかにする働きをもった法なのであり、私が利用することができないものです。法は事実を明らかにし、真実を語るものです。

 依他起性は、因縁所生の事実の世界をあらわし、その全体が空性であるというのが円成実性の世界ですね。

 今朝のFBに書き込んだのですが、ふと気づかされましたことが有ります。すごく当たり前の事なんです。煩悩が雲霧に喩えられているのですが、それは天を覆っているのが雲であり霧であるわけですから、それを喩えて云われているのであろうと、ずっと思っていました。しかし、そうではないのですね。雲霧は有るとする妄執を明らかにされていたんです。目に映る雲霧は確かに存在するわけです。しかし本当に雲霧は実体的に存在するのしょうか。掴むことができるのでしょうか。有るように見えて実体はありません。当然のことですが、これが執の問題なのですね。

 煩悩も、執するから煩悩なのです。煩悩という実体はありません。もともと煩悩は存在しないのです。事実は依他起性なのですが、縁に依って生起している私の現実を固定化してしまいます。自分は自分だ、と。この固定化が遍計所執性であり、我愛現行執蔵位になるわけでしょう。自分を中心にして判断を下していく、自分を正当化していくことが惑を生み、業となり、苦を招来してくるのですね。苦なくして苦を招くのが固定化・実体化の問題になります。

 聞法はここを聞かなければなりません。

 「衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。」

 衆生からは「聞」であり、如来からは「回向」なのでしょう。聞と回向の邂逅に於て信心が開花する。回向が円成実性であり、聞が依他起性、非一非異、この邂逅が大乗仏教では空性として言語化されているのでしょう。

 『成唯識論』に「此の円成実を証見せずして而も能く彼の依他起性を見るものには非ず。」或は「俗を了することは、真を証するに由ってなり。」

 所依の転換ですね。所依の転換に於て、依他起性が見えてくる。見えた来たとき、今迄いかに遍計所執性を所依としていたのかが見えてくる。

 人間関係論もこの視点で語らなければ妄想の域をでないであろう。

 本願念仏という真如法性は何を物語っているのか。「自体満足・共同安危」という、開かれた世界を開示しているのでしょう。それを覆っているのが我執・法執という自己の問題になるわけです。執=実体化。実体化は凡夫の本性なのでしょう。

 「凡夫というは、無明煩悩われらがみにみちみて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおおく、ひまなくして臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、」

 という、深信ですね。自分と云う者が、無始以来始めてはっきりした、ということです。所依の転換において見えてきた世界です。

 ここに於いて、『選択集』総結三選の文を読める視点が与えられたのです。そして、総結三選の文を成り立たしめる法が本願念仏、真如無為が生きて働いてくる姿が本願力回向「至心・信楽・欲生」の三心として表されているのでしょう。