唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第十一回講義概要 「仮説我・法名」を考究する。

2013-11-23 12:35:36 | 唯識序説

 今回は、「能変体三」に入る前に、復習の意味も兼ねて「仮説我・法名」は何故説かれなければならないのかを尋ねてみます。

 

 「是の如き外道・余乗の所執の識に離れたる我・法は皆実有に非ず。故に心・心所は、決定して外の色等の法を用て所縁縁と為るものには非ず。縁の用は必ず実有の体に依るが故に。」(『論』第二・八左)

 

 ここは、識所変のみが所縁であることを明らかにしています。上来述べてきたことの結論になります。以上説いてきたように、外道及び小乗諸部派が説く諸識の所変は外境に有るというのは間違っている、諸識の所縁は唯識の所現のみであって、所執の識が我・法を実有として認識しているのは誤りである、と。
 
従って、心・心所は、心外の色等の法を所縁縁とするものではない。心外の色等を認識対象として縁じて生起するものではなく、識の所変のみが所縁縁となるのであることを説いています。心外の法が有るとする実有は遍計所執性ですから全く無いものであり、無いものを所縁とすることは出来ない。
 
ここは非常に大事なことを教えています。私たちが苦しんだり、悩んだりしていることは、何も意味のないことではないということです。意味があって苦しみ悩んでいるのです。存在は依他起性なんですね。存在が存在そのものとして存在するものではないということ。存在を決定するのは依他起性なのですね。それが存在は存在そのものとして有るとするのは遍計所執性なのです。私たちは、遍計所執性の上に苦悩しているのではないのですね。ですから、遍計所執性を所縁とすることは出来ないのです。あくまでも、依他起性を実有として苦悩している、依他起性を実有としているのが遍計性執性で、我愛現行執蔵位と云われているのです。ですから、苦悩と目覚めは依他起性の表裏なのです。苦悩していることに意味があるというのはこのことなのです。
識に離れて外境があるわけではないのですね。外境が実体として有るとし、執着を起こし苦悩しているのは、実は依他起性の於(うえ)に妄って執着を起こしているのです。依他起性に違背していることに於いて苦悩が現行しているのです。それを我愛現行執蔵位と表わしています。
 
「問。云何ぞ応に知るべきや、実に外境無くして唯だ内識のみ有りて外境に似りて生ずということを」
 
「答。実我・実法は得可からざるが故に」
 
我・法と説くことは、仮に我・法と説く、似我・似法であることを説明しています。
                  
六無為について
 
真如について少し説明します。無為法について六つの真如が示されています。
 
法性・真如に依って六無為の一つ一つについて説明されます。虚空無為・擇滅無為・非擇滅無為<o:p></o:p>不動無為<o:p></o:p>想受滅無為・真如無為の六つです。
 
初めに虚空無為です。
 
「諸の障礙を離れたり、故に虚空と名づく。」(『論』第二・六右)        
 
真如は諸々の障礙を離れているので、この真如を虚空と名づく、と。
 
「即ち此の真如は、諸の障礙を離れたり。故に虚空と名づく。」(『述記』)
 二番目が、
擇滅無為です。
 
「簡擇の力に由って諸の雑染を滅し、究竟して證會す、故に擇滅と名づく。」(『論』)
 
簡擇(ケンチャク) - 智慧で深く思惟すること。智慧の別名。簡擇力によって獲得された滅を擇滅という。
 
「無漏の慧の簡擇の力に由るが故に、諸の雑染を滅し、雑染の言は、通じて有漏法なり。「究竟して證會す」と云うは、即ち此の真如を名づけて擇滅と為ること、即ち慧の力に由る。方に證會するが故に。」(『述記』)
 
證會(ショウエ) - 真理をさとること。 
 諸
の雑染は有漏法の異名。有漏法は、たとえ善法でも「我」が混じりこんでいるので雑染といい。滅せられるべきものなのです。真如は、無漏の慧の簡擇力に由って諸の雑染を滅して真理をさとることが出来るので、擇滅無為と云われます。

 三番目が、非擇滅無為について
 「擇力に由らずして本性清浄なり。或は縁闕(エンケツ)に顕さ所たる故に。」(『論』第二・六右)

 擇力(チャクリキ) - 簡擇力のこと。因は智慧・果は(擇)滅。 
 
縁闕(エンケツ) - ものを生じる縁(原因)が欠けていること。 
 
真如は、無漏智の簡擇力によらないでも本来は自性清浄である、或は有為法は「縁闕けて生ぜず。不生の滅に顕れたる真理なるが故に」と云われているように、有為法は縁起の法です。縁起の法は、仮に施設されたものですから、縁が闕けたら生起することはありません。縁が闕けて現象的存在が生じない時に現れてくる真如が顕されます。それが非擇滅無為という、と。
 
「述して曰く。而も此の本性いい慧の能に由らず而も性清浄なるを以て、非擇滅と名づく。或は有為法の縁闕けて生ぜず。不生の滅に顕されたる真理なるが故に、非擇滅と名づく。無漏の慧を離れて而も自を滅するが故に。」
 
上記の所論のように、非擇滅無為は、無漏知の簡擇力によらないで得られる真如をいうわけですが、此れに、本来清浄の真如と、縁闕所顕の真如が説かれています。
 
 縁闕所顕の真如、大事な命題ですね。何か、深い意味での本願が云われているようです。「さるべき業縁のもよおさばいかなるふるまいをもすべし」という所に真如は働いているのですね。真如一実功徳大宝海、本当の幸福は、業縁真っただ中の此処に(居場所)あることを示唆しているようです。まさに、脚下照顧ですね。
 
第四は、不動無為について
 
 「苦ー楽ー受滅せるを以て、故(カレ)不道と名づく。」(『論』第二・六左) 
 
不動無為は、色界第四静慮で顕れてくる真如。第四静慮では、苦受と楽受とが滅せられて、苦にも楽にも揺れ動かない不動の心(不苦不楽受)が確立される時に顕れる真如であるという。 
 
色界には、初静慮から第四静慮が有るといわれています。初静慮は、離生喜楽、生は、欲界のこと、欲界を離れて初めて静慮に入った喜びがある静慮で、(初禅天ともいう)。第二静慮は、定生喜楽。第三静慮は、離喜妙楽(リキミョウラク)という。第二静慮で受ける喜びを離れて妙なる楽を受けるありようで、離喜楽ともいう。そして、これらの楽をも離れて捨念清浄という静慮に入り、ここが不動無為になります。
 
捨念清浄 - 色界第四静慮のありよう。心が動揺してかたむきがなく平等になり、対象を明晰に記憶して忘れることが無い状態をいう。
 
色界第三静慮までは、喜や楽が有ります。三災頂(サンサイチョウ)という、三つの災害が及ぶ頂があると、『瑜伽論』(巻第二)に説かれています。所謂、火災・水災・風災の三つで、大の三災とも云われています。初静慮は、火災。第二静慮は水災。第三静慮は風災があり、その頂は火災は第二静慮。水災の頂は第三静慮。第四静慮において、すべての喜・楽を離れて捨受のみであることを以て不動、不動無為と云われているわけです。風災の頂は第四静慮になります。災は、世界を破壊する災害であると云われ、火災・水災・風災の三つが説かれています。
 
「若し第三静慮の欲を離れて一切の苦楽受の滅を得す、即ち此の真如を説いて不動と名づく。」(『述記』) 
 
不動無為は、第三静慮の欲を離れる時、一切の苦・楽・受の滅したところに顕れる真如である、と説かれています。自他分別と云う二心が真如を覆っているんでしょうね。縁起だというと、縁起に執われますし、一切の現象的存在は、執を包含し、執を自覚せしめる働きをもったものということができるのではないでしょうか。自を脅かすものは自である、ということですね、他ではないということです。外界的事象が自を脅かしているのではないのです。それよりも、外界的事象は、自らを知る縁となるという意味に於いて、外界との関わりは大切であるわけでしょう。その外界は自らが作り出したものと教えているわけです。
 
「法」と云うと、法に執われるわけですから、多方面から「有」ではない、「仮」であるということを弁証しています。
 
五番目 -->


第三能変 善の心所  第三・諸門分別 (22)

2013-11-23 00:06:16 | 心の構造について

 『述記』に、問いが立てられています。

 「問。若し爾らば此れ何ぞ別用ある、余は何ぞ無用なる」

 外人の問いになりますが、「若し、護法の説明によるならば、この十一の善の心所にはどのような作用があるというのか、また十一の善以外の善の心所にはどうして作用がないというのであるのか」というものです。次科段において護法が答えます。

 十一の善の心所には、明確な性用と翻対する業用があるけれども、これ以外の心所には、明確な性用が無いのですね、例えば、無貪の一分を体(相)として作用があり、そして善事を為すことを業用とすると述べられています。

 煩悩と諸識との関係について、先ず述べておきます。

 「諸識相応門」に於いて、「此の十の煩悩は、何れの識と相応する」という問いだ出され、それに対して、「蔵識には全に無し、末那に四有り、意識には十ながらを具す、五識には唯三のみあり、謂く貪と瞋と癡とぞ、分別無きが故に、称量するが等きに由って慢等を起こすが故に。」と答えられています。

 随煩悩は20、数えられるわけですが整理をしますと実の随煩悩が7・仮の随煩悩が13・悪の随煩悩が全部・有覆無記の性質をも持つ随煩悩が9、そして諸識との関係に於いてどのように働くのかという問題が述べられます。その前に随煩悩とはどのようなものかが述べられています。

 「随煩悩と云う名は、亦煩悩をも摂む。是れ前の煩悩の等流性(同類因から生ずるもの)なるが故に。煩悩の同類たる余の染汚の法をば。但だ随煩悩とのみ名づく。煩悩の摂に非ざるが故に。唯だ二十の随煩悩のみと説けるは。謂わく煩悩に非ず、唯だ染なり、麤(そーあらい)なるが故なり。此の余の染法は。此の分位なり。或いは此の等流なり。皆此に摂めらる。其の類の別なるに随って理の如く応に知るべし。」

 煩悩はすべて随煩悩なのですが、随煩悩は煩悩とはいわないのです。随煩悩は染汚の法を云うのですね。染汚は煩悩によって清浄の心を穢す、悪と有覆無記です。煩悩の因から生み出されたものなのです。そして随煩悩が煩悩と名づけられないのは根本では無いからである。

 問 ー 何が故に、此の中に唯だ二十とのみ説けるや。(『瑜伽論』などに多くの随煩悩が数えられているのですが 『成唯識論』には何故、二十なのかという問いです)

 「唯だ二十の随煩悩のみと説けるは。謂く煩悩に非ず。唯だ染なり、麤(そーあらい)なるが故なり」

  • 煩悩に非ず(随煩悩は煩悩とはいわない。
  • 唯だ染なり(それはただ染汚心だからである。
  • 麤なるが故に(あらあらしい煩悩であるから

 実有の随煩悩ー無慚・無愧・不信・懈怠・掉挙・惛沈・散乱(無慚・無愧・不信・懈怠とは定めて是れ実有なり。教と理とをもって成ずるが故に。掉挙・惛沈・散乱との三種をば、是れ仮と云う。是れ実と云う。)
 
仮有の随煩悩ー忿・恨・覆・悩・嫉・慳・誑・諂・害・憍・放逸・失念・不正知(「小の十と・大の三、失念・放逸・不正知とは定めて是れ仮有なり」)

 悪の随煩悩ー二十、すべてが悪・不善
 
有覆無記の性質も備える随煩悩ー誑・諂・憍・不信・懈怠・放逸・失念・不正知・散乱

 八識との関係でいうと、

  •  前五識ー無慚・無愧・不信・懈怠・掉挙・惛沈・放逸・失念・散乱・不正知。
  • 第六意識ーすべての随煩悩
  • 第七末那識ー不信・懈怠・掉挙・惛沈・放逸・失念・散乱・不正知
  • 第八阿頼耶識ーすべて無し(第八阿頼耶識には煩悩は働かないという事)

 二十の随煩悩は倶生(生まれながらの煩悩))と分別(後天的な煩悩)とに通ず。(分別・倶生)の煩悩の勢力に随って起るからである。