唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第九 起滅分位門 (15) 五位無心 (13) 護法正義

2017-01-03 10:21:34 | 第三能変 第九・起滅...
  

 九の過失について、
 第一、経に違う失
 護法の説は、安慧の説に対して、九の過失を挙げて批判します。「彼が説は教と理とに相違せり。出世の末那をば、経に有りと説けるが故に」(護法は安慧の説は教と理に相違する、出世間(無漏)にも末那識は存在すると経(『解脱経』)に説かれているからである。)これが第一の失で経に違う失といわれています。
 第二の失は量に違う失
 「無染の意識は有染の時の如く定めて倶生なり、不共なる依有るべきが故に」(無染の第六意識は、有染の時のように、必ず倶生である。それは不共なる所依(第七識)があるはずだからである。)
 対象を認識し論証することに相違する過失(量)といわれています。ここは因明の論式(宗・因・喩)をもって説明されています。
 「無染の意識は有染の時の如く、定んで倶生なり、不共なる依有るべきが故に」(『論』第五・四右)
 「述曰。彼れ有学の出世道の現前と及び無学の位との有漏・無漏の第六意識は皆第七の依無しといわば、此れ等の無染の意は定んで倶生なり。不共なる所依有るべし。次第に逆に第八と及び無間縁と種子との等を簡ぶ。宗なり。是れ意識なるが故に、有染の時の意識の如くと。論には因を闕きたり。下の六の証の中に自ら具に量を作れり。故に此には言略せり。」(『述記』第五本・八十三左)

 量とは判断・認識の根拠ですね。自らの主張や命題が正当であるとする根拠です。因明では立量といい、「自ら(護法)が量を作る」と記され、「論には因を闕きたり」と。因が記されていないと明記しています。

 宗 - 「有学の出世道の現前と及び無学の位との有漏・無漏の第六意識」(有法)には、不共依(第七識)が有る(法)。

 因 - 「是れ意識なるが故に」

 喩 - 「有染の時の意識の如く」

 この量によって安慧が主張する聖道及び無漏の時にも末那識が存在しないという説は誤りである、という。第六意識は有漏・無漏と問わず第六意識の存在は根本識に依止しているわけです。阿頼耶識を所依とし、末那識を不共依としているわけですから、第六意識が存在している以上、末那識は存在しているはずであるから、安慧の説である、聖道・無漏には末那識は存在しないというのは過失であると批判しているのです。これが違量の失といわれています。
 安慧の説に対して、九の過失を挙げて護法が批判しています。第三は違瑜伽の失・第四は違顕揚の失・第五は違七八相例の失・第六は四智不斉の失・第七は第八無依の失・第八は二執不均の失・第九は五六非同の失・第十は総結として会通されています。今日は、第十の全体をまとめての会通を読んでみます。

 「是の故に、定んで無染汙(むぜんま)の意有って、上の三の位に於て恒に起こって現前す。彼には無しと言うは、染の意に依って説けり」(『論』第五・六右)
 (意訳) 以上九の過失を以て安慧の説を批判してきた。この故に、必ず無染汚の末那識が存在し、先に述べた三位(滅尽定・聖道・無漏)において、恒に起こって現前する。論等に末那識が無いというのは、染の意が三位に存在しないということに依って説かれているのである。

 護法は安慧の説を論破して、三位には染汚性が無くなるのであって、末那識の体そのものは残るのである、と。そして無染汚の末那識は存在するという。法執の残っている末那識は存在するというこなのですね。

 「安慧の解釈では、末那は人執に限られている。したがって、凡夫にはむろんあるが、聖者には否定される。しかし護法では、末那にも法執があるというのである。人執の末那は否定しても、法執の末那は存在するというのである。二乗の無学にも法執が存在するというのである。人執ということは、法執を前提として成り立つのである。人執は必ず法執によるものである。法執は必ずしも人執ではないが、人執は必ず法執を前提とする。護法は、そのように徹底せしめたのであろう。」(『唯識三十頌』聴記・三 p34 安田理深述)

 二乗(声聞・縁覚)は人執は滅しているけれども、法執が残っている末那識が存在する。しかし法執は有っても、二乗の阿羅漢果は得ているので、悟りの智慧は妨げないという、これを無染汚の末那識という。
 「四の位に阿頼耶識無しと説けども、第八無きに非ざるが如し、此も亦爾る応し」(『論』第五・六右)

 (意訳) 三乗の無学位と不退の菩薩(四の位)に阿頼耶識は無いと説かれているけれども、阿頼耶識の体が存在しなくなるわけではないようなものである。したがって此処に説かれていることも亦同様のことである。つまり三位に末那識が無いと説かれている場合も、末那識の体が無くなるのではない、と説かれているのである。

 『樞要』(巻下本・二十三右)に「護法、末那法執に通ずと立て、諍が中に十有り。」と安慧の説に対しての批判を十に配当して説明しています。「十に総結、会するなり。或いは総じて三に分かつ。一に立理引証(理を立てて証を引く)・二に総結(総じて結す)・三に会違(違いを会す)。初の中に九有り。即ち前の九是れなり。「是の故に定んで有」と云うより下は結なり。言彼無者(彼に無しと言うは)と云うより下は違いを会するなり。」と。

 『述記』には九の過失と、「是の故に、定んで無染汚の意有って」と云うより「此れも亦爾なり」を全体をまとめて会通の解釈をおこなっています。

 「述曰。故に無染の意あり。上の三の意に於いて亦、恒に現前す。二乗の三の位には、法執の無染あり。菩薩の三の位には、或いは浄無漏の無染心起こる。是れ所応に随って之が差別を思う。迴心向大せるも其の理然なり。

 論に三の位に末那無しと説けるは、三乗中何れの乗に随うも染汚の意無しと説くなり。第七識の体無きには非ず。

 四の位の不退の菩薩の等に阿頼耶識無しと説くとも、第八識の体無きには非ず。染の名を捨つるが故にというが如し。

 故に人執には倶に定んで法執有り。下に自ら更に無漏に亦浄の第七識有りということを解せり。一々、皆『仏地論』(巻第三)に説くが如し。及び『樞要』にも説けり。

 諸門分別することは第十(『述記』第十末)に解するが如し。下は唯正義なり」(『述記』第五本・八十八右)と。
 次科段からは、末那識の分位行相について述べられます。 

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