唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第九 起滅分位門 (16) 五位無心 (14) 護法正義 (2)

2017-01-05 22:07:45 | 第三能変 第九・起滅...
  
  今日は九つの過失をすべて説明します。少し長いですが整理をしてお読みください。読んでくださるだけでいいと思います。
  第二能変 起滅分位門・伏断分位より、九の過失を挙げて説明します。
 護法の説を述べる。
三位において末那識の体自体が断じられ無くなるというのが安慧の立場でした。「煩悩障のみと倶なり」と、末那識と倶にあるのは人執のみであり、法執は無いと主張しています。これに対して護法は、そうではない、体は有る、義が無くなるのであると(「三の位には染の義なし、体も亦無と云うにあらず)末那識の染汚性がなくなり、無執の末那を考えるのですね。平等性智に転ずる末那(転識得智)です。末那識が無くなるのではなく、智慧に転ずると主張しています」。
 論証として、護法は、安慧の説に対して、九の過失を挙げて批判します。
「有義は、彼が説は教と理とに相違せり。出世の末那をば、経に有りと説けるが故に」(『論』第五・四右)
(護法は安慧の説は教と理に相違する、出世間(無漏)にも末那識は存在すると経(『解脱経』)に説かれているからである。)
これが第一の失で経に違う失といわれています。(違経の失)
「述して曰く、護法等の釈なり。三の位には染の義無しと云う。(第七の)体も亦無しといはむとには非ず。(『瑜伽論』)六十三に云く、問う、若し彼の末那は一切の時に於て思量して転ずといはば、世尊の説くが如し。出世の末那は云何が建立する、此の大論及び此処の文に経に有りと説くと称するに准ずと云へり。下に此の識有りと証するに准ぜば、即ち是れ『解脱経』なり。六十三の中に二解有り。一には名は仮なり。義の如くにあらず。即ち出世の末那は実に思量せざるが故に。二には顚倒の思量を遠離して能く正しく思量するが故にと云へり。浄にも通ず、此れは教に違すと云う、次に理に違するを云う。」(『述記』第五本・八十三右)
末那識の中には出世の末那と呼ばれる末那識もあると述べています。『解脱経』の中に説かれている通り、浄としての末那、染汚の末那が転じて、出世道の浄らかな末那識が有ると説かれているのです。出世の末那には二つの意味が有るのですね。一つには名は仮につけられたものである、ということ。二つには顚倒の思量を転じて正しく思量するという意味があるのです。染汚と浄とは矛盾概念ですが、全く違うものではないのですね。いわば一つのものの裏表という感じなのでしょうか。安慧等の説は末那識の体そのものがなくなると主張していましたが、護法は用はなくなるが、体は有る。末那識の体は有るが出世道の末那にかわっていくというのですね。ここがひじょうに有り難いですね。染汚といわれる煩悩が無駄ではなかったということなのです。煩悩が菩提の水となる、と教えられています。

                無碍光の利益より
                  威徳広大の信をえて
                  かならず煩悩のこおりとけ
                  すなわち菩提のみずとなる

                罪障功徳の体となる
                  こおりとみずのごとくにて
                  こおりおおきにみずおおし
                  さわりおおきに徳おおし

                名号不思議の海水は
                  逆謗の屍骸もとどまらず
                  衆悪の万川帰しぬれば
                  功徳のうしおに一味なり

                尽十方無碍光の
                  大悲大願の海水に
                  煩悩の衆流帰しぬれば
                  智慧にうしおに一味なり (高僧和讃・曇鸞章)

 第二の失は量に違う失といわれます。(違量の失)
対象を認識し論証することに相違する過失(量)といわれています。ここは因明の論式(宗・因・喩)をもって説明されています。第二・違量の失について因明の法式に則って論証しています。
「無染の意識は有染の時の如く、定んで倶生なり、不共なる依有るべきが故に」(『論』第五・四右)
(無染の第六意識は、有染の時のように、必ず倶生である。それは不共なる所依(第七識)があるはずだからである。)
第六意識は有染であれ、無染であれ、第六意識は第七末那識を依り所として動いていくわけです。第七末那識がなくなると、第六意識の依り所が無くなってしまうわけです。こういうところにも安慧等の説は誤りで有ることがわかります。
「述曰。彼れ有学の出世道の現前と及び無学の位との有漏・無漏の第六意識は皆第七の依無しといわば、此れ等の無染の意は定んで倶生なり。不共なる所依有るべし。次第に逆に第八と及び無間縁と種子との等を簡ぶ。宗なり。是れ意識なるが故に、有染の時の意識の如くと。論には因を闕きたり。下の六の証の中に自ら具に量を作れり。故に此には言略せり。」(『述記』第五本・八十三左)
量とは判断・認識の根拠ですね。自らの主張や命題が正当であるとする根拠です。因明では立量といい、「自ら(護法)が量を作る」と記され、「論には因を闕きたり」と。因が記されていないと明記しています。
 宗 - 「有学の出世道の現前と及び無学の位との有漏・無漏の第六意識」(有法)には、不共依(第七識)が有る(法)。
 因 - 「是れ意識なるが故に」
 喩 - 「有染の時の意識の如く」
 この量によって安慧が主張する聖道及び無漏の時にも末那識が存在しないという説は誤りである、という。第六意識は有漏・無漏と問わず第六意識の存在は根本識に依止しているわけです。阿頼耶識を所依とし、末那識を不共依としているわけですから、第六意識が存在している以上、末那識は存在しているはずであるから、安慧の説である、聖道・無漏には末那識は存在しないというのは過失であると批判しているのです。これが違量の失といわれています。
 第三の失(違瑜伽の失・『瑜伽論』に違背する過失)
「論に、蔵識は決定して、恒に一の識と倶転すと説けり。所謂末那ぞ、意識の起こる時には則ち二と倶転す。所謂意識と及び末那とぞ。若し五識の中に随って一の識を起こす時には則ち三と倶転す。乃至或時に頓に五識ながらを起こす時には則ち七と倶転すと云う。」(『論』第五・四右)
(論(『瑜伽論』巻第五十一・大正30・580c)に、
「云何が阿頼耶識と転識等と倶転して転ずる相を建立するや。謂く、阿頼耶識は或いは一時に於いて唯だ一種の転識と倶に転ず、所謂末那識なり。何となれば此の識の我見、慢等と恒に共に相応し思量する行相は、若しくは有心位にまれ、若しくは無心位にまれ恒に阿頼耶識と一時に倶に転ずると、阿頼耶識の見分を縁じて以てその相分境界と為し、我を執し慢を起こし思量する行相とに由ればなり。或いは一時に於いて二識と倶に転ず、謂く末那識及び意識なり。或いは一時に於いて三識(末那識・意識と前五識の中の、いずれか一識の合計四識)と倶に転ず、謂く五識身の随の一、転ずる時なり。或いは一時に於いて四識と倶に転ず、謂く五識身の随の二、転する時なり。或時は乃至七識と倶に転ず、謂く五識身和合して転ずる時なり。」
「蔵識は必ず恒に一つの識と倶転する」と説かれている。いわゆる末那識である。また、意識の起こる時には、すなわち蔵識は二の識と倶転する。いわゆる末那識と意識とである。またもし前五識の中で、いずれかひとつの識を起こす時には、蔵識はすなわち三の識と倶転する。乃至、或時に頓に五識同時に起こす時には、蔵識はすなわち七と倶転すると、説かれている。)
 要旨は、第八阿頼耶識は、必ず第七末那識と倶に活動するということです。単独には活動しない、第六識や前五識もまた単独には活動することはなく、必ず第八阿頼耶識と第七末那識の二識を依り所として活動することが述べられています。「阿頼耶識と末那識は恒に倶に転ず」という意味は、恒とありますように、末那識が無くなると、阿頼耶識と倶転するとは説かれないはずである。このことにおいても安慧等の主張は『瑜伽論』の所論に相違している過失があるということなのです。
「述して曰く、下に(『述記』第七本)まさに知るべし、(『瑜伽論』第五十一及び解深密経(巻第一)なり。七十六に当る。」(『述記』第五本・八十三左)
「違瑜伽の失」の二、『瑜伽論』の文によって説明され、安慧等の説を論破する。
「若し滅定に住するときには、第七無くば、爾の時の蔵識は識と倶なること無かる応し、便ち恒に定んで一の識と倶転するに非ずなんぬ。」(『論』第五・四左)
 若し滅尽定に入っているときには、第七末那識が存在しないというのであれば、その時の第八阿頼耶識は他の識と倶に存在するということが無くなってしまう。そうすれば、すなわち「阿頼耶識は恒に必ず一つの識と倶転す」と説かれている『瑜伽論』の記述と相違することになる。従って、安慧等の説は誤りである。)
 『瑜伽論』の記述は昨日述べましたが、「阿頼耶識は或いは一時に於いて唯だ一種の転識と倶に転ず、所謂末那識なり。」 末那識は、いついかなる時にでも、阿頼耶識と倶転していると述べられているように、安慧等の説である、滅尽定においては末那識は存在しないという主張は誤りであるというのである。
 「述して曰く、此れは前に滅定の中に二乗には法執無く、大乗の位の中には浄の第七無しと説きつる者を難ず。論に恒に一識と倶なりという言を説けり。既に是れ恒にも非ず亦是れ決定にも非ず。此の位に無きが故に。前の師の説きて云わく、此れは多分に拠って云う。若し爾らずんば、定んで恒に倶なるものには非ざるが故に。」(『述記』第五本・八十四右)
 『瑜伽論』巻第五十一の記述より 「聖道に住せる時にも浄位の末那識が存在する」 ことから、安慧の主張は誤りであると論破する。
 「聖道に住せる時に、若し第七無くんば、爾の時の蔵識は、一の識のみ倶なる応し、如何ぞ、若し意識を起せる爾の時の蔵識は、定んで二と倶転すと言う可き。」(『論』第五・四左)
(聖道に入っている時に、もし第七末那識が存在しなかったならば、その時の第八阿頼耶識は一つの識(無漏の第六識)とのみ倶に存在することになる。ではどうして、『瑜伽論』に「若し意識を起せる爾の時の蔵識は、定んで二と倶転すと」、説かれているのであろうか。) 
「述して曰く、此れは聖道に随って法執と及び浄との第七無しという者を難ず。第六の意起こる時には唯一識とのみ倶ならば、如何ぞ二識倶に転ずと言う可き。前の師の若し多時に拠って語すと云はば、」(『述記』第五本・八十四右)
 聖道とは、無漏智を起こす位で、出世道のことで、末那識と恒に倶に相応する四煩悩は染法であって、悪でもなく善でもない無記性であるが、聖道を障碍するものであり、無漏智を覆うことから有覆という。聖道を起こす位に在って、法執のある末那識と浄位の末那識とが存在しないならば、どうして、『瑜伽論』に「若し意識を起せる爾の時の蔵識は、定んで二と倶転すと」、説かれているのであろうか、『瑜伽論』の記述は、第六意識の他に阿頼耶識と倶転するもう一つの識が存在することを示しており、その一つが末那識であるという。つまり意識が起こる時には阿頼耶識と末那識との合計三識が倶転することになる、と。従って、安慧等が主張するように、聖道には法執のある末那識と浄位の末那識は存在しないとするのは誤りであるというのである。
 このように教えに触れることに於て自己に目覚めていく。自己に目覚めると云うことは教えに触れることを通して可能なわけです。教法ですね。法によって生み出された人の言葉を通して自己自身を成就するのです。安田先生は次のように述べられていました。
「だからして、我々が我々自身に目を開くためには、まず法から生まれた人、つまり、仏ですね。仏法が仏から始まるのは、そういう意味なんです。法から生まれた仏の言葉しか我々には縁がない。そして、仏の言葉を通して法に触れる。直接触れるのなら、何も指導者はいらんわけですよ。直接法に触れることはできんのや。法に目覚めた人の言葉を通して、法に触れてみたらその法は自分にあった。自分の法だったんやわね。法から出た人の言葉で、法に目を覚ました。覚ましてみたら、法は自己の法だった。」 (『解深密経』講義より)
 第四の失・ 違顕揚の失を述べる。(『顕揚論』の記述に相違する過失を挙げて、安慧等の説を論破する。)
「顕揚論に説かく、末那は恒に四の煩悩と相応す、或いは彼に翻ぜると相応す、恃挙(じこ - おごること)するを以て行と為し、或いは平等の行なりと云う。故に知んぬ、此の意は染と不染とに通ず。」(『論』第五・四左)
(『顕揚論』巻第一に「末那識は、恒に四つの煩悩と相応す」、或いは「四煩悩に翻(ほん - ひるがえすこと、反対の性格)ずるものと相応す」、或いは「恃挙することを以て、その働きとする」、或いは「平等の働きである」と説かれている。
「意者。謂從阿頼耶識種子所生還縁彼識。我癡我愛我我所執我慢相應。或翻彼相應。於一切時恃擧爲行。或平等行與彼倶轉。了別為性。」(大正31-480c)(末那識というは、意に謂く、阿頼耶識の種子より生ぜられて還って彼の識を縁ず。我癡と我愛と我我所執と我慢と相應す。或いは彼に翻じて相応す。一切時に於て恃擧するを以て行と為し、或いは平等に行ず、彼と倶転して了別するを性と為すと云えり。」故に知られるのである。この第七末那識は染と不染とに通ずることを。(不染の末那識が存在することを以て、安慧等の説は誤りであるとする。))
「四煩悩に翻ぜる」 - 「平等の行(平等性智)」があるから、四煩悩に翻ぜると相応すと述べられ、「煩悩と相応する時」は恃挙の行があるからである、と説明されます。平等の行とは、具体的には、遍行の心所の五と別境の心所の五と善の心所の十一の合計二十一の心所が、無漏の第七末那識と相応するといわれています。
 以上の記述より染(有漏)の末那と不染(無漏)の末那が存在することが知られ、無漏の末那識は存在しないとする安慧等の主張は『顕揚論』の記述にも相違することになる。
 「述して曰く、彼の第一の説なり(『顕揚論』の説)。復た如何が通ずるや。彼(四煩悩)に翻ぜると相応とは、平等の行なるが故に。煩悩と相応するときは、恃擧の行なるが故に。
 然るに引く所(『瑜伽論』巻第五十一の文)の識の起こる多少の中に、無学の五識を起こすときは唯だ六識のみ倶なり。七と倶に非ずと云う難の文有るべし。意は蔵識というの言有るが為の故に説かざるに似たり。無学には蔵識と云うこと無きが故に。」(『述記』第五本・八十四左)
「然るに」(『述記』の了見)『瑜伽論』巻第五十一の記述の意味するところは、あくまでも末那識が有漏の場合の所論であって、それは多時によって説いているものである。聖道と言ったような少時で説いたものではない、と。従って少時においては末那識は存在しないというのが安慧等の反論である。それに答えて『顕揚論』の記述を挙げ、安慧等の反論は成立しないと破斥する。
 「疏に、然所引識というより無蔵識故に至るは、『瑜伽論』に、蔵識は或いは二と転ずる等と言うを以て、所以に此の論に無学を難ぜず。彼の無学には蔵識無きを以てのゆ故に。有る義は文略して説かずと云う。詳らかにして曰く、略と為すに非ざるなり。大論に識の多少を引て、之を以て難と為すが為なり。本論に既に蔵識を挙げて法と為せり。所以に無学を難ずることを得ず。故に疏を正と為す。若し彼の文を取りて理と為さずんば、無学を難ぜんに即ち傷無きなり」(『演秘』第四末・二十六右)
 末那識は恒に四煩悩と相応する、しかしまた、恒に四煩悩を翻じて平等の行も働いているという不即不離の関係にあると教えているわけですね。四煩悩と相応するということは、恒に「恃挙することを以て行と為す」と云われていますように、慢心をもって人を見下し、自分の方が偉いと思い上がっている感情ですが、その感情と共にですね、その感情と一体となって平等の智慧が働いているということを教えています。「出世の末那」は有るんだと。
 第五の失は、違七八相例の失(第七識と第八識の例が相違する過失)、まず文を引いて過失を顕す。
「若し論に、阿羅漢の位に染の意無しと説くに由るが故に、便ち第七無しと云はば、論に、阿羅漢の位に蔵識を捨すと説くに由るが故に、便ち第八も無かる応し。」(『論』第五・五右)
(若し『論』(『瑜伽論』)に「阿羅漢の位に染の意(末那識)が無い」と説かれていることから、すなわち阿羅漢の位には第七末那識は存在しないというのであれば、同じく『論』に「阿羅漢の位に蔵識(阿頼耶識)を捨す」と説かれているのだから、すなわち第八阿頼耶識も阿羅漢の位に存在しないはずであることになる。)
 『瑜伽論』巻第六十三に「阿羅漢の位には(末那識は)有ることが無い」と説かれていることを以て、阿羅漢の位には末那識が無いと主張するのであれば、『論』に「阿羅漢の位(無学の身)には阿頼耶識を捨す」とも説かれている。そうであれば、安慧等は、阿羅漢の位には第八阿頼耶識も存在しないと主張しなければならないはずである。しかし、安慧等の主張は、第八阿頼耶識は存在し、第八阿頼耶識は存在しないとは主張していない。
 尚、『瑜伽論』巻第六十三の記述には当該の文章は無く、巻第五十一に「転依の無間にまさに已に阿頼耶識を断ぜりと言うべく、此れ断ぜるに由るが故に、まさに已に一切の雑染を断ぜりと言うべし。まさに知るべし、転依は相違に由るが故に能く永く阿頼耶識を対治すと。」記述され、転依の時に阿頼耶識は対治される、即ち有学から無学へと転依した時に、無学の身には「阿頼耶識は捨す」と述べられているのです。
 「述して曰く、若し大論六十三に阿羅漢の位には有ること無しと説くに由るが故に、便ち第七無しといはば、則ち無学の身には第八無かるべし。聖に説なるを以ての故に、何ぞ第八を愛して便ち有りと許し、第七をば憎んで無しと言うや。染の意無しということ倶に許すを以ての故に。」(『述記』第五本・八十四左)
 上の『論』の言をうけ、第八阿頼耶識に例をとって安慧等の説を論破します。
 「彼既に爾らず、此れ云何ぞ然らん。」(『論』第五・五右)
 彼(第八阿頼耶識)は、すでに、そうではない、此れ(第七末那識)はどうして、そういえるのであろうか。)
 『瑜伽論』の記述は「断ぜり」・「対治す」と述べられていますが、用はないということを言っているのですね。体は有ると。同じく末那識についても、末那識の用はないが、体はあると。このように阿頼耶識についても、末那識についても体は存在するのですね。そうであるならば、末那識だけが何故、(阿羅漢の位には末那識は存在しないという)例からはずれるのであろうか。そのようなことはないであろう、と。よって安慧等の説は誤りであると破斥します。
  第六は、四智不斎の失(四智に矛盾が生じる過失)
「又諸の論に言く、第七識を転じて平等智を得と云う。彼も余の智の如く、定めて所依の相応の浄識有るべし。此の識無くんば、彼の智も無かるべし。所依を離れて能依有るものには非ざるが故に。」(『論』第五・五右)
(また、諸の論に説かれている、「第七識を転じて平等性智を得る」と。平等性智も他の智のように必ず所依となる相応の浄識が有るはずである。従って、この識が存在しないのであれば、彼の智も存在しないであろう。何故ならば、所依を離れて能依はないからである。)
 「諸の論」とは『大乗荘厳経論」巻第三・『摂大乗論無性釈』巻第九等を指す。「」荘厳論』と『摂論』第九とに第七を転じて平等智を得すと云へり。平等智も定んで所依識有るを以て、故に第七の浄有るべし。」(『述記』第五本・八十五右)
 『大乗荘厳経論」巻第三に「轉第七識得平等智」(大正31・607a)と、『摂大乗論無性釈』巻第九に「轉染汚末那故得平等性智」(大正31・438a18)と述べられています。『論』に末那識と平等性智の関係を末那識を所依とし、平等性智を能依とし、末那識を離れて平等性智ない、と述べられているのです。
「量に云く、平等性智も定んで別の所依の識有るべし。転じて得すと説とくが故に、余の三の智の如くと。第七もし無くんば即ち平等智も亦応に有に非ざるべし。所依の心に離れて能依の智有るものに非ざるが故に。」(『述記』第五本・八十五右)
「余の三の智」は仏の四智を指しています。即ち、大円境智・平等性智・妙観察智・成所作智の四つです。安慧等の主張ではこの四智に矛盾が生じる過失が有るというものです。

 (注)四智について(転識得智)
 •有漏の前五識を転じて無漏の成所作智を得る。作すべきことを成就する智慧
 •有漏の第六識を転じて妙観察智を得る。妙にものごとを観察する智慧。自相と共相とを把握する智慧で、総持(無量の教えを忘れずに心にとどめる)と定門(心を一つの対象に集中せしめた状態)と功徳(六波羅蜜多・十力・四無畏などの功徳)とを身につけ、説法の会座において無辺の働きを示し、すぐれた教えを垂れて人々のあらゆる疑問を断じることが出来る智慧のこと。
 •有漏の第七末那識を転じて無漏の平等性智を得る。深層的な自我執着心である末那識が転じて、自と他は平等であると観る智慧。あらゆる存在は一味平等であると悟り、大慈悲心を起こして人々の願いに応じて他受用身と他受用身の国土とを示現する智慧。
 •有漏の阿頼耶識を転じて無漏の大円境智を得る。阿頼耶識の中からあらゆる汚れが取り除かれ、塵一つない磨かれた鏡のように透き通った心をいう。法界を照らし、自受用身と自受用身の国土を示現し、他の三智を生じる働きがある智慧。
四智の説明でもわかりますように、第七末那識が転じて平等性智が得られるわけです。安慧等が主張するように、第七の浄識は存在しないとするならば、平等性智も存在しないことになるのです。しかし、平等性智は実際に働き、また、その存在は認められていることであり、能依である平等性智が存在する以上、その所依となる第七の浄識が存在していることは明白であって、安慧等の主張は誤りである。安慧等の主張であるならば、四智の内、平等性智のみが所依の識を持たないと云うことになり、四智内での矛盾が生じるというというものです。
 「彼は六転識に依るとは説くべからず。仏には恒に行ずること鏡智の如しと許せる故に。」(『論』第五・五右)
 (彼(平等性智)は六転識に依るとは説くことはできない。何故なら、仏が恒に行ずることは、大円鏡智のようであると承認されていることだからである。)
仏の平等性智は恒行であり、あたかも大円鏡智のようであると承認されていることから、六転識に依るとは説くことはできない。六転識は恒行ではなく、間断し転易することがあるからである。恒行であるということは、間断・転易がある六転識であってはならないのです。恒行であるということから、第七末那識が、平等性智の依り所となるということを明らかにしています。
尚、この科段は「転救を難ず」(「転救を破す」)という一段になります。
• 転救(てんぐ) - 論敵の非難に対して別の角度から自説が正しいことを述べること。
 安慧等の反論(を想定して)、再度論破する一段です。安慧等の反論は『論』に記述はなく、『述記』に記述されています。
 「述して曰く、また彼若し経に平等智と言へるは、第八と倶には非ず。第八と倶なる者を鏡智と名ける故に。即ち第六にのみ依る。此れが中には唯だ第六識のみを取るなり。」
 (経典に平等性智といえるのは、第八識と倶に働くものではない。第八識と倶に働くのを大円鏡智と名づけるのである、と。
 (第一釈) 第六識のみに依る。この中には、ただ第六識のみを取って、平等性智の依り所となる。
 (第二釈) 「又六識の中に随って一識による能依の智なり」(第六識か前六識のいずれか一つの識による能依の智である。第六識か前六識のいずれかの一つの識が平等性智の依り所となるということ。) 
 従って、護法の論法は成立しないと反論します。それに対して護法は 「然らず」、そうではない、と。『仏地経』巻第三(『仏地経論』巻第三・大正26-302a19)に、
 「平等性智者。謂觀自他一切平等大慈大悲恒共相應。常無間斷。建立佛地無住涅槃隨諸有情所樂。示現受用身土種種影像。妙觀察智不共所依。如是名爲平等性智。」 (平等性智というは、謂く、(1)自他の一切平等を観ず。 (2)大慈大悲、恒に共に相応し常に間断無し。 (3)仏地無住涅槃を建立す。 (4)諸の有情の所楽に随って受用身土の種々影像を示現す。 (5)妙観察智と不共所依なり。)と。
 「『仏地経』の中に此の智品は仏位に恒に行ずと説けることをば、即ち汝共に許せり、仏には恒に転異無く、行ずること鏡智の如しと許すが故に。六識の智に非ず。六識の智は転異すること有って恒ならざるが故に。又間断するを不行と名づく。此れは間断するに非ざるを以て恒行と名づく。下の(『述記』第十末)の平等智の処に説くが如し。」(『述記』第五本・八十五左)
 『仏地経』に説かれていることは安慧も認めていることである。仏は恒に転異することがなく、その行は大円鏡智のようである。それは前六識のいずれかの智慧ではない。前六識の智慧は転異することがあり間断がある。間断があることを不行といい、間断のないことを恒行と名づけ、平等性智は間断がないので、恒行である。六識或いは前六識のいずれかの識を以て平等性智の依り所となるという安慧等の説は誤りであるということを明らかにしています。
 第七は、第八無依の失(第八は依無きの失)
 第七の過失は、第七末那識が無学位(阿羅漢)において存在しないとするのであれば、第八阿頼耶識は存在の根拠(所依)をもたないという過失があると述べています。
 「又無学の位に若し第七識無くんば、彼の第八識は、倶有依無かるべし、然も必ず此の依有るべし、余の如く、識の性なるが故に。(『論』第五・五左)
 (また、無学の位に、もし第七識が存在しないというのであるならば、彼の第八識は、倶有依がないことになってしまう。しかし、第八識には、必ずこの倶有依はあるはずである。何故ならば、他(第八識以外の七識)のように、識の性だからである。)
 「識の性なるが故に」とは、識が識である限り倶有依、存在する為の依り所があるはずである、ということ。
 「述して曰く、無学に此の識無くば、第八はまさに依無かるべし。若し八は依無しと許さば比量に違する過あり。汝が無学の位の第八は必ず現行の倶有依有るべし。是れ識の性なるが故に。余の七識の如し。彼の師も第七は第八を以て依と為すと許すが故に。」(『述記』第五本・八十六右)
 第七識と第八識とは不可分の関係であるということ。染識であれ、浄識であれ、第七識は第八識を所依とし、第八識は第七識を所依としている。もし、阿羅漢位において我執は永断しているとはいえ、第八識が働く為には、第七識がなければならない。第七識がないならば、第八識は働けないということです。第七識が染識の場合には、我執の心が第八識を支え、浄識に転じた場合、第八識も転じて大円鏡智という清浄心になる。安慧等の主張であるならば、この第七と第八の関係が壊れてしまい、第八識には所依となるべき識がないことになり、第八識は働くことが出来ないという過失がある、と護法は答えます。
 第八は、二執不均の失(人・法二執が均しくならない過失)
 「又未だ補特伽羅無我(ふとがらむが)を証せざる者(ひと)は彼の我執恒に行ずるが如し。亦未だ法無我を証せざる者にも、法我執恒に行ずべし。此の識若し無くんば彼は何の識にか依らん。」(『論』第五・五左)
 (また、未だ 補特伽羅無我を証しない者は、末那識の我執が恒に起こるように、未だ法無我を証しない者にも、法我執が恒に起こるのである。この末那識がもし存在しなかったならば、彼(法執)はいずれの識によって起こすのであろうか。)
 (注) 二無我 - 「諸の菩薩は実の如く有為・無為の一切諸法の二無我の性を了知す。一には補特伽羅無我性、二には法無我性なり。諸法の中に於ける補特伽羅無我性とは、謂く有法に即して是れ真実に補特伽羅あるに非ず、亦た有法を離れて別に真実の補特伽羅あるに非ざるなり。諸法の中に於ける法無我性とは、一切の言説の事の中に於て、一切の言説の自性の諸法都べて所有無きなり。是の如き菩薩は実の如く「一切の諸法には皆な我有ること無し」と了知す。(『瑜伽論』巻第四十六)
 (補特伽羅(生命的存在=我)は固定的・実体的な存在ではないという理と、法(存在の構成要素)は固定的・実体的な存在ではないという理であり、言葉を関係づけて、法とは、言葉で語られ実体として存在すると考えられたものであり、法無我は、そのような法は固定的・実体的な存在ではないという。)

                ―      ・      ―

 「述して曰く、又難ずらく、凡夫等の未だ人空を証せざるを以て(第七)人執恒に行ずるが如し。二乗の人等も未だ法空を証せざるを以て(第七)法執も亦まさに現前すること有るべし。例と為ること均しきが故に。若し此の識無くば法執の恒に行ずるは(第七識を除いて)何の識にか依る。二乗には定んで有るが故に。」(『述記』第五本・八十六右)
 補特伽羅無我を証していない者は、恒に人執(我執)を起こしている。法無我を証しないで阿羅漢となった二乗の無学位では、人執を断じているが法執は存在しているのである。このため、第七末那識の我執が恒に起こっているのと同じように、二乗の無学位や菩薩には未だ法空を証しないことを以て、法執が恒に起こるものである。このため、第七識が存在しなかったならば、どの識に依って法執が起こるのか、二乗や菩薩には必ず法執は存在する、と述べられています。
 「恒に法執を起こすと云うは、量(西明量)に云く。法執未だ法空を証ぜざる位には、応に恒に行ずべし。二執随一に摂するが故に生執の如し」(『樞要』巻下本・二十二右)
 これに対し、次科段で述べられるように、法執は、第七末那識を依り所とするのではなく、第八阿頼耶識を依り所とするという反論を予想して、この主張を破斥しています。
 「第八には依るに非ず。彼は慧無きが故に。」(『論』第五・五左)と。
 「第八に依るに非ず。彼は慧無きが故に」(『論』第五・五左)

 (法執は第八阿頼耶識に依るのではない。何故なら第八阿頼耶識には慧が無いからである。)
 安慧は八識すべてに執着の働きが有ると主張し、阿頼耶識にも法執は有るという説を立てている。しかし執着は第八阿頼耶識に依るとは説かれていない。慧の心所がない阿頼耶識には執着は無いことから法執は無いと護法は論破しています。
 「彼が慧無きが故に」という「慧」は別境の心所の中の慧を示しています。
 有漏の阿頼耶識には別境は働かない・偏行だけが働きます。阿頼耶識は純粋ですから何事にも分別しないのですね。阿頼耶識が転依(大円鏡智に)しての無漏位には別境の全てが働くのです。これは願生という欲生心から無分別智まで一筋の道なのですね。第七末那識は転依(平等性智に)しての無漏位にはすべての別境は働きますが、有漏位では慧の心所だけが働くのです。何故かと言いますと末那識は我執ですから自他を簡びわけるのですね。自分の損得だけを思いつづけていますから、自分にとって損をしないように簡択(選ぶ)するわけです。その心所が慧です。」
 「述して曰く、彼(安慧)は、八識に皆執有りと説くが故に。執は第八識に依るとは説く可からず。第八識と倶には慧として執すること無きが故に、八と倶なるに非ざるなり。」(『述記』第五本・八十六右)
 安慧は八識すべてに執着の働きが有ると説いているのですね。ですから当然に第八阿頼耶識に法執は存在するという説を立てているわけです。第七末那識が存在しなくても法執は存在すると、安慧は主張して、護法の論破を再論破しているのです。それに対して護法は阿頼耶識には慧が存在しない、即ち第八阿頼耶識には執着は存在することはなく、従って法執は存在しないと。法執は第八識に依って起こるとは説くべきではない、第八識に依って起こるのではないのだから。
「此れに由って、応に二乗の聖道と滅定と無学とには、此の識恒に行ずと信ずべし。彼いい未だ法無我を証得せざるが故に。」(『論』第五・五左)
 此れに由って、二乗の聖道と滅定と無学の位には法執が有る、即ちこの第七末那識が恒に起こると信ずべきである。彼(二乗の聖道と滅定と無学位)は、未だ法無我を証得していないからである。)
 二乗の聖道と滅定の位には法執が残るわけです。未だ法空を証得していないからですね。従って二乗の聖道と滅定と無学位であっても、法執の依り所となる第七末那識が働き、恒に活動しているのであるといい、二乗の聖道と滅定と無学位には第七末那識は無いとする安慧の主張は誤りであると破斥しています。「二執均しからざるの失」(二執不均失)といわれています。
 第九の失は、「五と六と同に非ざる失」(五・六非同失)
 又諸の論の中に五を以て同法として、第七有って第六が依と為ると証せり。」(『論』第五・五左)
(また諸の論の中では、五識(前五識)を以て同法として、第七末那識が第六意識の所依となることを証明している。)
 諸の論とは、『瑜伽論』巻第五十一(大正30・580b)と『摂大乗論』(無性摂論、巻第一(大正31・384b)を指す。
 「又由有阿頼耶識故得有末那。由此末那爲依止故意識得轉。譬如依止眼等五根五識身轉。非無五根。意識亦爾非無意根。」(『瑜伽論』巻第五十一)
 (又阿頼耶識有るに由るが故に末那(識)有ることを得。此の末那(識)を依止と為る由るが故に意識転ずることを得。譬へば眼等の五根に依止して五識身転じて五根無きに非ず、意識も亦爾なり意根無きに非ざるが如し。)
 又五同法亦不得有成過失者。此破唯立從六二縁六識轉義。眼等五識與彼意識有同法性。」(『無性摂論』巻第一)
 五識は同じ識であるように、第七末那識が有って第六意識の所依となると述べています。第六意識の所依が第七識であって、第七識を所依として第六意識は働いていると云うことです。前五識の所依は第六識であるように、第七識があって始めて第六識が働くのであり、前五識と第六識は同法であって、安慧の主張では前五識と第六識の間には矛盾が生じ、相違が出てくる過失があると論破します。
 『唯識論講義』(花田凌雲著)に 「五識を以て同法(同喩)として、第六識の倶有所依である第七識のあることを証している。即ち第七識が第六識のために所依となるのは、恰も五根が五識のために所依となるが如きであると。ところが安慧論師の云うように、若し三位に第七識が無いとすれば、その位の第六識には所依がないこととなり、五識を以て同喩となうことは出来ないこととなる。従って若し安慧論師の説に拠れば、彼の二論所立の論理に過失を生ずることとなる。このように第七の識体を否定することになれば、諸の過失あることを免れない。故に護法論師の主張するように、三位には染汚の末那はないけれども、無染汚の第七識な恒にあって現行することを知るべきである。」 と述べられています。
 「聖道の起こる時と及び無学の位とには、若し第七は第六が依と為ること無くば、所立の宗と因とに便ち倶に失有りぬ。」(『論』第五・五左)
 (聖道の起こる時の有学位と無学の位とにおいて、若し第七末那識が第六意識の所依となることがないのであれば、所立の宗と因とに、倶に過失が有ることになる。)
 所立 - 立てられたもの。証明されるべきもの。
『述記』第五本・八十六左の記述より
「若し聖道起こって有学と及び無学とに在るとき、第七、六が依と為ること無くば、彼の二論の所立の宗と因とに応に倶に過有るべし。」(聖道の起こる時の有学位と無学の位とにおいて、若し第七末那識が第六意識の所依となることがないのであれば、先に挙げた二論の立てる主張の宗と因とに過失が起こることになる。)
 別して過失を顕す。 総じて宗に違する過失を述べる。 「謂く、若し総じて第六意識には必ず倶生の不共の増上の別依有り。即ち自宗一分の宗に違する過有り。
 (宗) 第六意識には必ず倶生の不共の増上の別依有り、
 (因) 六識を摂むる故に、
 (喩) 五識の如し。
 「自ら聖道と及び無学との意は所依無しと計するが故に。若し聖道と及び無学の意識を除き、余の意識は必ず此の依有りぬと言はば、即ち比量相違の過有り。此の一分の意識の依無きを以て余の依有ら令むる者の與には、比量と為すが故に。
 比量相違の過失とは、
 (宗) 聖道と及び無学の意識を除き、余の意識は必ず此の依有り、
 (因) 三位を除いて六識を摂むる故に、
 (喩) 五識の如し。
 因の過失 「六識を摂するが故に」
 「若し六識に摂むる故を以て因と為して前の総宗を成ぜば、此の因に即ち自不定の過有り。五識の如く六識に摂するが故に、意識が依有りとせんや。汝が聖道と無学との意識の如きや、六識に摂むるが故に。意識が依無しとせんや。若し六識に摂むるが故の因を以て後の宗を成ぜば、便ち自の法自相相違と決定相違との過失有り。
 謂く、彼の一分の意は定んで依無かるべし。六識に摂むるが故に。汝が聖道と無学の意識の如し。故に第七無くば摂論と大論との比量の宗・因に皆此の失有り。因明を善くする者、応に乃ち之を知るべし」(『述記』)
 「言く、「所立の宗と因とに便ち倶に失有り」と。疏に云く、自法自相相違決定有りとは、彼の因を改めて云く、聖道等を除いて意識倶有依無るべし。是れ意識なるが故に。三の位の意識の如し。因は前を改む。前因を亦応に三の位を除いて摂するが故にと云うべし。不定に過無し。樞要に云く。又因に自の法自相相違有り。無学の定にあらざる意を以て、同法と為すが故に。此の量意の云く、無学の人には恒に第七無きを定にあらずと言うは、滅定に在って第六識無からんを除いて滅に入らざる時の第六意識を取って同法と為すが故に。然るに理を以て論ぜば、此れが中の宗に二あり。一には総じて第六意識を立つ。二に三の位を簡去して余の第六を取る。因に亦二有り。一に総じて因の六識に摂するが故にと云う。二に別の因亦三の位を簡んで三の位を非す。余の六識に摂すと云う。其の所応に随って、二の因を以て各々二宗を成ず。過思知るべし。」(『了義燈』第五本・五右、大正43・746a)
 阿羅漢位に第七末那識が永断すると説かれていることは、
「染の末那を断すと云う中に、唯だ説きて畢竟いい染を断するを捨と名づくと云う。畢竟じて伏するを捨と名づくとは説かざるが故に。」(『樞要』巻下本・二十二右)
「三位に末那無し」ということは、染汚の末那識について述べられているのです。四位(三乗の無学位と不退の菩薩)に阿頼耶識は無いといっても、第八識そのものがないわけではない、というのと同じであると論じています。三位に末那無しと説かれていても、末那識の体そのものが無くなるというものではない、と。安慧の主張のように、若し三位に第七末那識が無いとすれば、その位の第六識には所依がないことになり、、五識を以て同法とすることは出来ないことになるのですね。安慧の主張であれば、『瑜伽論』や『無性摂論』に説かれる所立の論理に過失が有るといはざるを得ないのです。しかし第七識の識体を否定することになれば、諸の過失が生じるのです。五根が五識の所依となるように、第七識が第六識のために所依となると知るべきである、といいます。
「或は五識も亦依無きとき有るべし。五いい恒に依有らば、六も亦爾るべし。」(『論』第五・六右)
 (あるいは、前五識もまた所依が無いときが有ることになる。また前五識に恒に所依が有るならば、第六意識にも恒に所依が有ることになるであろう。)
 前五識の所依について説明される。前節で述べられた二の論書の記述が正しく、また安慧等の主張(聖道や無学位においては、末那識が存在しない)が正しいというのであれば、前五識にもまた所依がないことになる。
「汝が五識も亦依無き時有りと許すべし。六識に摂するが故に。」と。若し三位に第七識が無いとすれば、その三位の第六識には所依がないことなり、第六意識と同様に前六識の所依も無いことになる。第六識も前六識の範疇だからである。
「汝が意識の如し。此れは自宗相違の過失有りとも他宗に就くというを以てなり。然るに返難を成ぜり。
 五識は恒に依有らば、意識も亦爾るべし。前難を結成するなり」(『述記』第五本・八十七左)
「他宗に就く」ということは、論証論拠が違う、或いは認めていない他宗には主張の正当性を論証する根拠とはならない。
 安慧等の説では前五識には所依があると認めている。第六意識もまた同様である。護法も安慧も、第六意識は、いかなる時にあっても、第六意識が存在する為には、阿頼耶識と末那識を所依とする必要としていることは、共に認めているところである。特に末那識を第六意識の不共依とし、第六意識が存在する為には、不共依である末那識が存在しているはずである。五識も第六意識も前六識の範疇に有り、五識に恒に所依が有ると承認するのであれば、第六意識にも亦恒に所依が有ると承認されなければならないはずである。そして第六意識の所依となるのは第七末那識であることになり、聖道等に第七末那識が存在しないとする安慧等の主張は誤りであり、また自説との矛盾をきたすことになる。というのである。
 第二の違量の失に於いて、「無染の意識は、有染の時の如く、定んで倶生なり不共なる依(第七識)有るべきが故に」と説かれていました。これは護法論師も安慧論師も共に認めていることなのです。相手を理解させる為に用いられる論理に宗・因・喩の三支作用を以て、自説の論理の正当性を論証しているのです。護法が安慧の主張を誤りであるとする主張命題は、次のようになります。
(宗) 「有学の出世道の現前する時と、無学の位の有漏・無漏の意識には、不共なる依有り。
(因) 「何故なら意識には違いがないからである。」
(喩) 「有染の時の意識の如し」
 従って、聖道にある時などに、恒に第六意識の所依となるのは、恒に活動しつづける第七末那識であり、安慧等が主張する「三位に末那無し」と、末那識の体も無くなるという安慧説の矛盾を突き論破しています。
 尚、安慧等の説を論破する為に、現量・比量という因明学(論理学)をもって論書では説明されています。
 総じて第九全体の過失を結び、会通の解釈を行う一段。
「是の故に定めて無染汚の意有って、上の三の位に於て恒に起こりて現前す。彼こに無しと言うは、染の意に依りて説けり。四の位に阿頼耶識無しと説けども第八無きには非ざるが如し。此れも亦爾るべし。」(『論』第五・六右) 
(この故に、必ず無染汚の末那識が存在し、先に述べた三の位に於て恒に起って現前するのである。論書等に末那識が無いといっているのは、染の意(染の末那識)に依って説いているのである。四の位に、阿頼耶識は無いと説かれているけれども、第八識の体が無いというわけではないようなものである。この場合も同様である。)
『論』第五三右に「阿羅漢と滅定と出世道とには(末那識は)有ること無し。」と説かれ、又『雑集論』等に於て、三位に於て末那識が存在しないと説かれていることを以て、安慧等は三位には末那識そのものが存在しないと主張しているのです。しかし護法は先に述べてきたように、安慧等の主張の九つの過失を挙げ論破し破斥しているのです。そして全体を結釈し、染汚の末那識は永断するが、末那識の体は残り、浄の末那識(無染汚の末那識)は存在し、活動する(現在前する)と述べています。
 そして注意点として『述記』には、無染汚の末那識について二乗と菩薩の位における差異を記しています。
 「述して曰く、故に無染の意有り。上の三の位に於て亦現前す。二乗の三の位には法執の無染有り。菩薩の三の位には或は浄無漏の無染心起こる。是れ所応に随って之が差別を思う。廻心向大せるも其の理皆然り。」と。
 二乗(声聞・独覚)の三の位では、我執は滅しているが法執は残るといわれるのですが、二乗の阿羅漢の智慧は得ているので法執が有っても悟りの智慧は妨げないことから、無染汚の末那識といえると述べています。しかし大乗菩薩道の立場からは、悟りの智慧は仏のみが有し、仏に在って浄無漏の無染汚の末那識があるといえるのです。従って我執は滅していてもなお法執が残る大乗の立場からは完全な無染汚の末那識とはいえないということになります。
 「論に三の位に末那無しと説けるは、何の乗に随うにも染汚の意無しと説くなり。第七識の体無きに非ず。」              つづきは明日この蘭に記します。
 『論』や諸の論書(『瑜伽論』・『顕揚論』等)に、三位において末那無しと説かれているのは、染汚の末那識が無いと説かれているのであって、末那識の体そのものが無いと云うことではない、と。即ち、浄の末那識(出世の末那)は存在すると云うことを述べています。
 染汚の末那と浄(無染汚)の末那と二つあるということではないのですね。どうしても二つならべて比較するという思考方法が身についているものですから、染の末那を断じて浄の末那を獲得するというように思われるのですが、染汚の末那の自覚が自ずから無染の末那を証明しているのです。いうなれば、迷いは迷いの道理によって迷っているわけです。悟りは悟りの道理によって悟っているわけですから、迷いの道理を自覚することが、迷いを翻した真理の働きによって迷いを知らされているのですね。しかし、知らされても"迷い・苦しいという思い〟は捨て切れません。何故かという問題です。自分の思いを捨てきれない、どこまでも自己愛を満足させたいという思いです。これが邪魔をします。それで苦しいのですね。それほど我に対する執着は強いのですが、自己を思いやる執着の強さを私は知る由もないのですね。それが末那識の正体でしょうね。ですから、どうしても私の思いからは末那識を断絶して安楽を求めたいのではないでしょうか。煩悩を断じて阿羅漢果を得て末那識を捨す、というのが理想となるのでしょう。私の思いからは安慧の主張は当然のことのように思われます。理想論ですね。しかしそうではないと、護法は教えてくれます。仏教は理想論ではないのだと。現実の問題を引き受けることの出来る眼を開いてくれる自覚道である、と。染と浄は一つのものだと。浄に依って染が明らかになる。「煩悩に眼を障えて見たてまつらずといえども、大悲倦きことなく、常に我を照らしたまう、といえり」と明らかにされますように、明るさを閉ざしているのは自分の内面に問題があって、明るさがないのではない、と教えられているのですね。
 「四(三乗と八地以上の菩薩)の位の不退の菩薩の等に阿頼耶無しと説けるとも、第八識の体無きには非ざるが如し。染の名を捨つるが故にと云うが故に。人執と倶には定んで法執有り。下に自ら更に無漏に亦浄の第七識有りと云うことを解せり。一々皆『仏地論』(巻第三)に説くが如し。及び『樞要』にも説けり。諸門分別することは(『述記』第十末)第十に解するが如し。下は唯だ正義なり。」
 「成唯識論述記』巻第五本終」 (『述記』第五本・八十八右)
 又、『樞要』(巻下本・二十三右)に「護法、末那法執に通ずと立て、諍が中に十有り。」と安慧の説に対しての批判を十に配当して説明しています。「十に総結、会するなり。或いは総じて三に分かつ。一に立理引証(理を立てて証を引く)・二に総結(総じて結す)・三に会違(違いを会す)。初の中に九有り。即ち前の九是れなり。「是の故に定んで有」と云うより下は結なり。言彼無者(彼に無しと言うは)と云うより下は違いを会するなり。」と。
 

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