唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 別境 ・ 念について、その(7) ・ 釈尊伝(95)

2010-09-03 23:26:40 | 心の構造について

   釈尊伝 (95)  伝道宣言 その(3)井戸端会議
 不満が少しあっても許せないということになれば、それは一種の束縛であります。不満が耐えきれなくなっても、そうしたものを、自分で処理していけるという考えがたたないということになれば、大きな束縛です。したがって他人に利用されるということが多くなります。人の言ったことにすぐ引っぱられてしまう。少しの不満にも耐えられないということは、それだけに智恵が浅いということであります。
いわゆる昔の井戸端会議。貧乏長屋のおかみさんたちが井戸端でいろんな話をする。喧嘩もする、口が軽い、これはいつも人に利用せられるわけです。ちよっとなにかいわれるとすぐ広がってゆくということです。そういう世の中が、今日では大部分平均化しまして、いわゆる情報化世界といっていますのは、いわゆる井戸端会議の世界ということになったといってよいのでしょう。信頼できるのは機械だということになります。そんなことで、コンピューターというものに頼ることになってしまう。
                              ー  絆より脱する

ですから、昔の人間より、今の人間は自由になったといえるかどうかという問題です。昔がいいというのではないのです。けっして昔が良くて今が悪くなったというのではなくて、本当の自由というのは、縛られていることから離れることです。つまり、絆より脱したすべての絆より脱したという、仏陀はすべての絆より脱したという。比丘たちもすべての絆より脱したと、すべてというときには、神々の絆、これは人間以上の絆です。今日でいいますと、自然といってよろしいでしょう。自然は人間でどうすることもできないものです。地震がくれば家がつぶれて下敷きになって死ぬ人もある。どうすることもできないということです。“神々の絆”というのは、そういう意味で解釈しても悪くはないと思います。そういう絆より脱したということです。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

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  第三能変 別境 ・ 念について(7) 異義を論破

 「彼が説くこと理に非ず。勿(まな)、後の時に於いて癡と信との等(ごと)き有るをもって前(さき)にも亦有りなんが故に」(『論』)

 ここに、念が遍行であるという薩婆多有部の異執が批判されます。 (意訳) 彼(有部)が説くことは理にかなわない、誤りである。何故ならば、後の時に、癡と信などが存在することをもって、前にも、また癡と信などが存在するということは、勿(絶対にありえない)。

 「今は彼の計を破す。後の時に於いて、染の癡等と善の信等あるが故に、今も恒に彼の類有って亦後の因と為ること勿れの故に。若し後に生ずる癡等は亦前の癡等を因と為ると言わば、即ち念は心に遍じて有るには非ざるべし。癡等の如くなるが故に。若し爾らば、自証分を後の憶念の因と為して前にも亦有りと知るが如し。念も亦爾るべしといわば、然らず。心は前に体の上に更に用(見分)を立てることを許す。今已に前に念の体有るを以って後の念等を生ずと許さず。・・・」(『述記』) ・・・には、ここに問いが出されています。

 『述記』の大意は、有部の主張であれば、染の癡等といわれる煩悩の心所や、信等といわれる善の心所も今、恒に存在する場合、その前に必ず癡等や信等の心所が存在することになる。何故なら、後に生ずる癡等は前の癡等を因と為す、というのが、彼らの言い分である。この言い分から推測すると、念が遍行であるというのであれば、癡等や信等もまた遍行と言わざるを得ないことになる。また、念というものは、後の時の憶念の因となるという考えである。安田先生はこの有部の主張を「六識の心が起こるというと、それが念と相応することによって、念の用きによって、六識が後の時、それを思い起してくることの因となるという。・・・六識に念が起こっていると、それが後に憶念が起こる因になるというのである。これはつまり、今の念はやがて後の憶念の因となる」と説明をされています。(『選集』巻三、p293)しかし、現存在にとって現在、癡等や信等が存在するからといって、前の時に存在していたとは限らないし、またその反対に前の時に癡等や信等が存在していても、その後に癡等や信等が存在するとは限らない。念もまた同じであって、前に念の体有るといっても、後に念を生ずることは許さないのである。前後の必然性はないのであるから、有部の主張は誤りである、といっています。

  


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