唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第九 起滅分位門 (20) 八識一異について (まとめ)

2017-01-16 20:52:58 | 第三能変 第九・起滅...
  

 極睡眠というのは、私たちが日頃、夢を見たりするような睡眠を指すのではなく、夢も見ない、起こらない極重の睡眠を指し亦た悶絶も極重の悶絶を指すのです。
 「疲極(ヒゴク、つかれきっていること「身疲労し疲極す」と。)等の縁あって睡をして有ることを得しむ。有心のときを名づけて睡眠となす。これを無心ならしむるが故に極重の睡と名づく。」(『述記』第七・八十六左)
 と云われますように、疲労ということが縁となっているのです。「身疲労し」といわれていますね。心が疲労し、とはいわれていません。心が疲労しているときは、睡眠も、うとうとだったり、夢心地だったりするわけです。「心が」という場合は不定の心所の一つで、眠(めん)といわれています。「眠とは、謂く心をして昧略ならしむを以て性と為す。」と。この時は、煩悩が種子として潜在している状態で、眠っている心ですね。ですから、無心の睡眠には不定の心所である眠の心所はないのです。身の分位であると。ただ眠に似たものであるので、仮に立てたといわれています。『述記』に問いを立てて答えています。
 「此の睡眠の時には、彼の体なしと雖も而も彼に由って、彼に似る、故に仮に彼の名を説く」(『論』第七・十五左)
 「問う、此に既に心所の眠なし。何を名づけて眠となし、而も論の中と大論の無心地等に説いて眠となすや、
 「(答え)これに二解あり。一に由、二に似なり。この眠の時には彼の心所の眠の体は無しと雖も、而も彼の加行の眠の引くに由る。あるいは沈重にして不自在なることは、彼の眠の心所ある時に似る。二義を以っての故に、無心なる身の分位を仮説して眠と名づく。実に眠にあらざるなり。」(『述記』第七本・八十八右)
 次に悶絶ですが、これも睡眠と同じように、身の分位になります。
 「大論の第一に、悶絶はこれ意の不共業なりと説けり。即ち悶の時に、ただ意識のみあるによる。悶は心所法にあらず。末摩(マツマ・marmanの音写で死穴、死節ともいう。)に触するを以って悶が生ずること有るが故に。悶は即ち触処の悶なり。」
 「末摩というは梵言なり。此には死穴と云い、或いは死節と云う。順正理論の第三十に云わく、末摩は別物無し。身に異の支節ありて触する時は便ち死を致すといえり。」(『演秘』第六本・十九右)
 断末の叫びですね。悶絶とはそのような身の上に起こることなのです。風熱等の縁なくして、悶絶を起こすならば、これは心所であるけれども、風熱等の縁によって、身の分位を引くのである、と云われています。
 「二無心定と無想天と及び睡と悶との二と、この五の時と除き、第六の意は恒に起こる。縁が恒に具せるが故に。」(『述記』第七本・八十九右)
 (意訳)無想定と滅尽定と生無想天と睡眠と悶絶の五位を除いては第六意識は恒に起こるのである、何故ならば、第六意識が起こる縁が恒に起こっているからである。
 「是の故に八識は一切の有情に於て心と末那と二は恒に倶転す。若し第六起るときには則ち三いい倶転す。余は縁の合するに随て一より五に至るまでを起すときには則ち四いい倶転し乃至八いい倶なり。是を略して識の倶転する義を説くと謂う。」(『論』第七・十六左)
 (意訳) このようなわけで、八識はすべての有情にに於いて倶に動いている。阿頼耶識と末那識は恒に倶転する。マナーという我執の心は、ときどき動くのではなく、恒に動いている。阿頼耶識を依り所として動いていく。若し第六意識が起こる時には、阿頼耶識と末那識とが一緒に動く。余(前五識)は縁に依り一つが動くときも有り、全部が動くときもある。それは縁によって違う。そして阿頼耶識と末那識の二つはいつも有る。則ち阿頼耶識と末那識と第六意識と前五識のいずれかが、起きている時には動いているわけですから、四つは必ず動いていることになります。それが倶に動いていく。これを略して識の倶転する意義を説くのである。
 ここが、八識倶転 ・ 八識一異 について述べられる一段になります。
 初能変・第二能変・第三能変を結ぶにあたって八識倶転・八識一異が述べられます。「こころは一つか」という問いに答えているわけです。八識はどのように動くのか、一つの識なのか、八識は別体なのかという問いが先ずあるわけです。この問題については概略を示して、初能変・第二能変を学びおえてから再考したいと思います。『成唯識論』の立場は八識別体・八識は、別々の識体を持つということです。八識倶転を受けて八識一異が述べられます。
 「八識の自性は、定めて一とは言うべからず。行相と所依と縁と相応と異なるが故に。又一の滅する時に余滅するものにしもあらざるが故に。能 ・ 所薫等の相各異なるが故に。亦定めて異なるにも非ず。経に八識は水波等の如く差別無しと説くけるが故に。定めて異ならば因果の性に非ざるべきが故に。幻事等の如く定性無きが故に。前所説の如き識差別の相は、理世俗に依る。真勝義には非ず。真勝義の中には心言絶するが故に。伽陀に説くが如し。
 心と意と識との八種は  俗の故には相別なること有り
 真の故には相別なること無し  相と所相と無きが故にと。」(『論』第七・十八右)

(解説) 
 第一説 ・ ここは三義を以て「定めて一とは言うべからず」を釈します。その第一行相とは見分である。識の自性(存在のありよう)はいつでも一つだとは言えない。それは、「行相と所依と縁と相応と異なるが故」だからである。行相は心の働き、所依は依り所となるもの、根。縁は対象、所縁。相応は心所で、多少の別ある、と。。「眼識は色を見るを行相と為す」。眼識は色を見る働きを持ち、眼根を依り所とする。耳識は聞く働きを持ち、耳根を依り所として動くわけです。このように「第八は色等を変ずるをもって行相となす等の如し」と、八識はいつも一つだとは言えないということです。
 第二は「又もし一の識が滅するとき、余の七等は必ずしも滅するものではない」ということ。八の心は働き・依所も違うのであるから一体だとは言えない。その理由が「能・所薫等の相各異なるが故に」と、働きがみんな違う。これが第三の義です。前七識が能薫・第八識が所薫で、また前七識は因、第八識は果であると、『楞伽経』第七に説かれている。また、三性・異熟生・真異熟等、種々の相が異なるからである。 能薫 - 薫とは薫習のこと。現行・転識(顕在的な心)が潜在的な根本心・阿頼耶識にその種子(影響)を薫じること。薫じる七転識を能薫・薫じられる阿頼耶識を所薫という。 第二説 ・ 「亦定めて異なるにも非ず」を釈しています。ここも三義を以てとかれます。 第一の義は、必ずしも異なるものではないということ。『楞伽経』の第九巻の頌に 「八識は大海の水と波と  差別の相あること無きが如し」 と説かれている。また大海と鏡面とによって、多くの波をおこすようなものであり、そこには大海と鏡面と差別はない。それは一つの水と波のようなものである。 第二の義は、定めて異というならば、因果が成立しない。更互に因果となるからであり、法爾の因果は必ずしも別なるものではない。 第三の義は、一切法は幻事・陽炎・夢影のようなもので、必ずしも別の性があるわけではない。この三義で、八識は一つのものではないし、また別なるものではないといっているのですね。これが私の心の構造なのです。AかBではないのですね、またAかBかのどちらでもないということでもない、と。概念的には絶対矛盾しているわけですが、そこに同時に存在しているのが私の生命体なのです。八識は一なるものでもないし、別なるものではない、と教えられています。 「此の一異に非ずは、四勝義に依りて四の世俗に対して皆得たり」(『述記』)と。『瑜伽論』巻六十四に四重二諦について説かれています。要約しますと、世俗諦と勝義諦とを世間・道理・証得・勝義の四つに分けてそれぞれの四つがどのように相応するかを説いているのです。世俗の真理を世間世俗諦・道理世俗諦・証得世俗諦・勝義世俗諦とにわけ、それぞれ、道理世俗諦が世間勝義諦・証得世俗諦が道理勝義諦・勝義世俗諦が証得勝義諦に相応し、勝義諦の勝義は勝義勝義として、非安立一真法界(言葉で語られない真実の世界)を立て、真実とは何かを説き明かしています。 まとめとして、  「前所説の如き識差別の相は、理世俗に依る。真勝義には非ず。真勝義の中には心言絶するが故に」と。八識五十一の心所の総まとめです。八識五十一の心所の違いの相は道理世俗に依る。道理に依ってものを見る、という立場です。迷いは何故起こるのかということを分析的に明らかにしているわけです。勝義勝義という空の立場に立って、すべては無自性なるが故に空であるとはいわないのです。何故かといいますと、造論の意のなかで、「二空の於に迷・謬すること有る者の為に、生と解とを生ぜしめむが故なり」と述べられていました。勝義勝義を理解した上で、勝義勝義に迷い、謬っているのは何故かを明らかにして、生と解を生じせしめるのである、ということを忘れてはならないところです。 『述記』(第七本・九十八左)の記述を示しますと、  「もし爾らば、前来、所説の三能変の相は、これ何ぞ。これは四の俗諦のうち第二の道理世俗に依って、八等ありと説く。事に随って差別す。四重の真諦のうち第四の真勝義諦に非らず。勝義諦のうちに八識の理を窮めるに、分別の心と言と、みな絶するが故に。非一非異なり。四句分別等を離れたり。前の心所を心に望めて一異なること、第二の俗諦を以て第二・第三・第四の真諦に相対するなり。今は第二の俗諦を以て第四の真諦に対して論を為す。」 大乗仏教の真理を弁えた上で、迷いの構造を明らかにしているのが唯識なのですね。煩悩即菩提・生死即涅槃と一言でいってしまえば誤解が生まれます。生死は涅槃なのだから、迷う必要は無いわけです。しかし現実には迷い苦しんでいるのが私の姿です。それは何故かと疑問を呈しているわけですね。真勝義の立場に立ってしまいますと「心・言絶する」と。非一非異として八識を重層的に説明をし、「唯識無境」を明らかにしているのですね。 明日は最後の詩句について述べてみたいと思います。
  参考文献 『瑜伽論』巻六十四より・第一真義理門を説く。
 「真義に略して六種ありと。謂く世間成真実乃至(道理真実・煩悩障行智所行真実)所知障浄智所行真実、安立真実、非安立真実なり。前の四真実は應に知るべし前の菩薩地の中にすでに広く分別せるが如しと。
 云何が安立真実なる、謂く四聖諦なり、苦は苦に由るが故に、乃至道は道に由るが故なり。
 所以は何ん、略を以て三種の世俗を安立す。一には世間世俗、二には道理世俗、三には證得世俗なり。
 世間世俗とは、所謂宅舎・瓶盆(ビョウボン)・軍・林・数(シュ)等を安立し、又復た我・有情等を安立し、道理世俗とは、所謂蘊界処等を安立し、證得世俗とは、所謂預流果等の彼の所依処たる四諦を安立するなり。又復安立に略して四種あり、謂く前に説けるが如き三種の世俗及び勝義世俗を安立す、即ち勝義諦なり。此の諦義は安立すべからざる内の所証なるに由るが故に、但だ随順して此の智を発生(ホッショウ)せんが為めに、の故に仮立す。云何が非安立真実なる。謂く諸法の真如なり。」と。
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 「心と意と識との八種は、 俗の故には、 別なること有り。 真の故には相別なること無し。 相と所相と無きが故にと」
 (意訳) 心・意・識という八種の識は世俗諦(道理世俗諦)でいうならば、八識は別体である。しかし勝義の立場(二空)からは相は別であることはない。それは相と所相との差別が無いからである。
 真実は 「相と所相となきが故」 なのです。勝義の於に立ってしまえば、すべては無自性空になり、解脱していない者にとってはニヒリズムに陥ってしまいますね。『解深密経』に「我凡と愚とに於ては開演せず」という意味は、このことなのです。人間の心の中に大晦日を迎えるというのは、一年を振り返り、自分の姿を見つめ直すという機会を与えることなのでしょうし、節目を立てて、新たな視線に立って人生を見つめ直すスタートを切る、という意味があるのでしょう。そこに自分のこころの状態を知るという大切な意味が含まれているのではないでしょうか。迷っていることを知る、迷わせているのは何、を知ることが非常に大切なことなのです。意識起滅の分位の締めくくりに、安田理深先生のお言葉を記します。
 「迷っているという上に悟りの智慧がある。生命つまり、何か生きたもの、生きる用き、生きた生命というものは、固定されたような生命ではない。物質的生命でない。原始の生命。本能。これは無限の創造力をもつ。裸となった創造力理知とか文明とかを捨てて、そういうものに帰らんとする叫びがある。」(『選集』第四巻p43)

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