唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第九 起滅分位門 (14) 五位無心 (12) 護法正義

2017-01-02 10:03:30 | 第三能変 第九・起滅...
  
  おはようございます。本日もよろしくお願いいたします。
 初能変・第二能変・第三能変における能変別・段別を表記しますと、下段のようになります。初能変における第一段・本識三相は自相・因相・果相に分けられます。         
      第三能変    第二能変     初能変                                                                                                                            
 •一段  六識得名   末那出体・名義  本識三相
 •二段  自性・行相    所依       行相・所縁
 •三段  三性分別     所縁       心所相応
 •四段  心所相応    末那性相     五受分別
 •五段  三受相応    心所相応     三性分別
 •六段  心所広説    五受分別     心所例同
 •七段  六識所依    三性分別     因果法喩
 •八段 六識・倶・不倶  界繋分別     伏断位次
 •九段  六識起滅    伏断分位 
 『論』における、能変別の構成は上のようになっています。
  
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
「阿羅漢とは、総じて三乗無学果の位を顕す」と。この位には染の意の種と現行と倶に永に断滅する。初能変の第八・伏断位次門に「阿羅漢の位に捨す」と。この位は我愛執蔵現行位ですね。阿頼耶識の名を断捨する位次を明らかにする段がここになります。応供ともいわれます。仏の十号の名の一つですね(釈尊伝・仏の十号についての項を参照してください)。ただですね。初能変においては、阿羅漢位の中に第八地以上の不退の菩薩をも摂めたが、末那識の断滅位においては、不退の菩薩は除く、それは第八識は我愛執蔵によって阿頼耶識の名を得るので、これを永捨するのは第八地以上の菩薩なのですね。末那識を染汚と名づけるのは、我執の染汚と法執の染汚が問題となるわけです。「第六識が単に生空無漏観にある時には、この識なお法執を起こして染汚を永捨せず、第六識が法空無漏観に入るに及んで始めてこの識の法執は除かれる。」(『唯識学研究』p291~p295)といわれています。したがって八地以上の不退の菩薩には染汚の末那が残るので永捨できないところから、阿羅漢の中に不退の菩薩は入らないのです。
 今日は滅尽定について、第二能変の最後に「末那は・・・三の位に無しと言えるが故に」というところから、安慧と護法の対論を通して、末那識の独立性を護法教学において明らかにしているところを読ませていただきます。
 先ず初めに、安慧の主張が述べられます。
 「此の中に有義(安慧等)は、末那は唯煩悩障とのみ倶なること有り。聖教に皆、三の位無しと言えるが故に」
 末那識は、ただ煩悩障とのみ倶にある、と主張しています。その証として『対法論』巻第ニ(大乗阿毘達磨雑集論)をあげて論証します。三の位、即ち滅尽定・聖道・無漏には末那識の体が無い、と説かれている文を引用しています。このことから安慧の立場は三位に末那識の体自体が滅して無くなる、ということになります。安慧の解釈では、末那は人執(我執)に限られているわけです。法執はないという立場です。「唯煩悩障とのみ倶なること有り」ということです。これに対し護法は人執とともに法執があるといいます。また体が無いのではない、義が無いのであると主張します。また安慧は『顕揚聖教論』・『摂大乗論』を引用して論証しています。 
 
   ― 滅尽定における安慧と護法の対論・護法の正義を述べる ―
 三位において末那識の体自体が断じられ無くなるというのが安慧の立場でした。「煩悩障のみと倶なり」と、末那識と倶にあるのは人執のみであり、法執は無いと主張しています。これに対して護法は、そうではない、体は有る、義が無くなるのであると(「三の位には染の義なし、体も亦無と云うにあらず)末那識の染汚性がなくなり、無執の末那を考えるのですね。平等性智に転ずる末那(転識得智)です。末那識が無くなるのではなく、智慧に転ずると主張しています。
 そして、護法は、安慧の説に対して、九の過失を挙げて批判します。「彼が説は教と理とに相違せり。」と。九の過失については又にします。

 
 

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