唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

阿頼耶識の存在論証 五教十理証について (51)

2017-04-06 23:06:30 | 阿頼耶識の存在論証
  
先日、専立寺さんの永代経の法話で、墨林先生が、国という字の使い分けについて、日蓮上人の『立正安国論』に国の字が四字使われていることをを引き合いに出されて、国土の問題を話してくださいました。この問題にたいして、にしはら君が「ブッダクシェートラ。クシェートラを国土と古代訳経僧が翻訳しましたが、モニエルでみますと、畑、、fieldと記載されていたことも印象的でした」ととても興味あるコメントを寄越してくれました。
 そして梶原先生と、墨林先生の貴重なコメントを頂きました。
 K 土は受用を表します。国は領域を表します。土の意味合いならfield が似合います。邦は内として護られる世界でしょう。宗祖は浄邦縁熟してと言われます。しかし、国、土、邦、さらに刹が厳密に分けられるものではないでしょう。それらが国家概念を作っていることを考え直さなければならないと思います。
 S 日蓮上人が「立正安国論」で国という文字を、囲みに「王」、「玉」、「域」、「民」の文字を使い分けしているのも国家概念なんでしょうね。
 このことに関してですが、
 経典では国は「國」が使われていました。國は旧字体ですが、親鸞聖人は新字体の国の字を使われています。
 日蓮上人はその主著において、國という字の使用頻度が約80%にのぼっています。そして囻が多いです。そして略本には囲みに「王」の字の使用例があります。そして新字体の国が使われていますが、国家の枠組みを考えておられたのかも知れません。娑婆即寂光土を説く『法華経』の宗体から、草木国土悉皆成仏の田地の具現化を囲みに「王」、「玉」、「域」、「民」の文字を使い分けの中で国家の在るべき姿を考えておられたのでしょうか。
 最近の研究では、この「くに」の字の使用に対して、國はLand、囻はNation、国はState・Countryという意味ではないかと云われています。
 古くは、三宝を国の柱として政事をされた聖徳太子がおいでになります。宗祖は太子を「和国の教主」として崇めておいでになりますが、なにかここに国土荘厳のヒントを得られていたのかも知れません。
 ここで、唯識の四分義ですね。「識体転じて」という、能変と所変、能は「~に指向する」働きを持って、所は「指向されるもの」として、指向されることにおいて意味を持つわけですね。そして具体的に認識が生起する時に、認識するべき能縁、この場合の縁は増上縁ですが、何を増上縁としているのかというと、身と土ですね。そして身と土を作っているのが種子になるのでしょう。種子の具体化、現行が界・趣・生を引き起こしてくるのですね。起こされたものは異熟として真なるものです。界は種子という意味ですね、「無始時来界」と。しかしこの界は土を現わします。三界或は勝過三界です。有漏か無漏か、土は種子によって受用されるものでしょうね。
 種子と身体と器界を所縁として能動的に働いてくるのが行相了別ですから、自我意識である末那識は、この行相に対して執着を起すわけですね。すべてを染汚すると教えられています。自我分別意識でしか私には判断基準の能力しかないわけです。もう一つの単位で云いますと、量ですね。「はかる」自我意識で判断する、それ以外に判断する能力は持ち合わせていないのです。
 こういうことを考えていきますと、仏教が国土荘厳、清浄土を願として歩むのは、光として照らし出される此岸の中に「すでにして悲願まします」。一念一刹那の中に闇が闇としての自覚を知り得るのではないでしょうかね。それが第二能変の発見になるのでしょう。所依が変わるのですね。それが三依釈によって明らかにされたわけでしょう。
 五念門と二十九種荘厳と十八円浄の論文をあげておきます。
 

 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿