唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 別境 ・ 念について、その(5 ・ 釈尊伝(93)

2010-09-01 23:55:52 | 心の構造について

 釈尊伝 (93) 第二篇 第四章 ・ もろびとのため

         (1)伝道宣言 伝道の宣言

 五人の比丘を教化せられてから、仏陀はつぎつぎと人びとを教化せられた。やがてその数が六十一人に達したときに、仏陀はこの比丘たちを一人一人それぞれの道に、人を教化するように、離れさせたと伝えられます。そのことが仏教における“僧伽”という意味をあらわすことになります。そのときに発せられた“伝道宣言”が伝えられていますが、これは近代の原始仏教研究者によって指摘されたものであります。

 「比丘らよ、わたしは神々のものも人間のものも、すべての絆より脱した。比丘らよ、おんみらもまた、神々のものも人間のものも、すべての絆より脱した。 

 比丘らよ、遍歴せよ、もろびとの利益のために、もろびとの安楽のために世間に対するあわれみのために、神々と人間の利益、安楽のために。

 一つの道を二人して行くことなかれ。比丘らよ、はじめもよく、なかもよく、おわりもよく、内容もあり、文句もそなわった教法を説きしめせ。完全円満できよらかな修行を知らしめよ」

 この表現はどちらかといえば、南伝、いわゆるパーリ語の文献に依るものだあります。ただ、この宣言の意味は非常に大事なものでありまして、いわゆるこの中で注意せられているのは、“一つの道を二人してゆくことなかれ”ということです。仏陀が説かれる法については“はじめもよく、なかもよく、おわりもよく、内容もあり、文句もそなわった教法を説きしめせ。完全円満できよらかな修行を知らしめよ”と。これは仏陀が説かれた教法を、このように賞讃していられるのであります。完全円満できよらかな修行をということも、仏陀自身のことをいわれる。もしそうならば、比丘たちもまた仏陀と同じ境地に達したといわねばならない。比丘もまた仏陀になったといわねばならない。つまり、“比丘らよ、おんみらもまた、神々のものも人間のものも、すべて絆より脱した”ということです。神々には神々の絆がある。神には人間以上のいろいろな自由があると考えられるけれども、しかし、自由があるということは、また不自由があるということであり、一種の絆です。自由ということは一種の絆になります。われわれを縛る絆にもなります。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より

 私たちは、常日頃、人間として、人と人とのつながり、絆を大切にしましょう、といっています。しかし仏陀の境地は「すべての絆より脱した」といわれているのですね。そして、その絆は、「われわれを縛る絆にもなります」と問題提起されます。そうしますと、私たちが本当に大切にしなければならない“絆”とはどのようなことなのでしょうか。

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   第三能変 別境 ・ 念について、その(5)

 「曾、未だ受けざる体と類との境の中に於いては、全に念を起さず」(『論』)

 (意訳) 過去から現在に至るまで、いまだに受けていない体(直接説的に認識したこと)もなく、類(名を聞く)もないものなどには、全てにおいて念は起こらない、という。

 「曾し未だ受けざりし、もしは体、もしは類たる、涅槃等の如きには、全に念を起さず、ということを釈す。即ち三世に通じてこれを縁じ念を起す。多くは過去において念を起し、また未来をも念ず。前に受けしところの諸境と合せるが故に、もし曾つて涅槃等の名を説くを聞いて、しかも念を起さば、また曾つてかの境の類を受け、しかも念を起すと名づく。もし総じて聞かず、心が散漫に縁ずれば、すなわち念はおこることなし」(『述記』)

 未だかって涅槃等の名を聞いていなければ、経験も体験もないのであるから、体境はなく、名を聞いていないのであるから、類境もない。そのような場合には念は全く起こらない、ということを解釈する。仏が明らかにされた法を聞くことの大切さを述べているのですが、聞薫習といわれます。聞いたことが身につくわけです。種子として身に宿るわけですね。聞いたということが、類境として存在するわけです。それがやがて念を起す縁となるわけです。存在するということは、心に明記される、という表現になるわけです。今述べていることは、善に対する方向性ですが、三性に通じているわけですから、悪の方向性も当然ながらあるわけです。悪事の体境や、悪という名で心に受ける、類境もあります。また、三世ですね。未来に対して念を起すこともあると、その場合は過去と合わせて縁じるといわれています。

  


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