釈尊伝 (94) 伝道宣言 その(2) 自由ということ
今日の時代におきましても、自由ということが一つの絆になっている一面があります。つまり、自分は自由なのだというときには、不自由なものに対する反抗を意味することであって、そしてその反抗にうち勝って、思い通りになしとげたいということを自由というのです。そして自由をえたかというと、自由をえたのだというが、かりにえたといってみましても、えた自由とはどういう自由であるかとなると、具体的にはなにもない。そういう意味で自由ということも、われわれを縛る縄になるという意味があります。
われわれの子ども時代とちがって、いまの子どもはあまり怒られないです。悪いことをしても、なぐられたりしないです。なぐったりすれば、たちまち児童虐待だと叫ばれる。ですからなぐらないで口で注意する。口でいって聞き分けるかというと、そうじゃないのです。われわれの頃はいつも、“もう二度としません”といって許してもらったものですが、気をつけてみますと、今日の子どもはあまりあやまるということがないようです。失策してもあやまるクセがない。いいか悪いかは別として、悪いことをしても悪いことをしたと思わないというのではない。あやまるということすらない。それだけにわれわれの子ども時代よりも、今の子どもが自由になったといえるかということです。逆にそれは一つの束縛になっておりはしないかということです。つまり、少しのことでも不満が高まるということになる。不満というものが少しあっても許せないということになる。 (つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より
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第三能変 別境 ・ 念について、その(6)
昨日は、未曾習の境を境とする意識も有るということを述べました。未曾習の境を境としていても、記憶していなければ、念は起こらない、念が遍行であるという有部の教説は異執であると批判されているわけです。
「設い曾し受けし所なりとも、明記すること能わざるには、念亦生ぜず。故に念は必ず遍行に摂めらるるものには非ず」(『論』)
「この類は非一なり。涅槃等を、および七八識の境を聞くといえども、明記せざるが故にまた念を生ぜず。」 (『述記』)
涅槃・真如・浄土等の名を聞いてはいても、心に明記しないもの、あるいは明記できないものについては、その場合には念は生じないという。その為に、念は遍行に摂められるものではなく、別境である。
つぎは有部の教説を論破します。その前に「欲」の心所について『唯識学研究 下』(深浦正文著 p158)に次のように述べられていました。
「因とは、異熟因の勢力によって異熟心の任運に起こるごときを指し、境とは、例えば鐘声の不意に響き来たって耳識任運に起こるごときを指す。これらは何れも、作意して観ぜんと欲する境に対するのでないから、その場合には欲がおこらぬという。心心所をして境を取らしむるは作意であって欲ではない、欲は欲観の境ならざるものに対しては起こらぬというから、これを遍行に収めないのである。
欲は三性に対して起こるわけであるのに、今善欲のみについて業用を語るのは何故であるかというに、これ畢境仏法に入るの所依を示して、学徒を引導せんとするにほかならぬのである。すなわち、善欲によって精進を発起し、精進によって一切の善事を助成せしめるのであるから。よって、悪欲については語らぬのである。」と。
『論』にしても『釈』にしても、仏法を語っているわけです。仏法に迷謬している者に対して正解を生ぜしめることが、おおきな目的であるわけですから、善法欲を説き、それが勝解を起し、念・定・慧という一連の別境の心所になるわけです。第六意識はいつでも、どちらにでも揺れ動く働きをしています。自分の心の状態を観じていましたら、よくわかるわけですが、聞法をしていても、心ここにあらずということは、ままあります。今日は、ちょっと調べたいことがありまして、教化センターにまいりました。しかしある程度調べて時間が経過しますと「これぐらいでいいか」と、自己の思いに引きずられてしまいます。このようなコロコロと移り変わる心の状態に善法欲を説くことにおいて、凡夫が凡夫のままに現生に往生が定まる道が開かれているのであると思うわけです。
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