唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第九 起滅分位門 (19)滅尽定について(4)

2017-01-13 22:34:45 | 第三能変 第九・起滅...
  

 滅尽定 第一段 第五 釈名
 「偏に受と想とを厭するに由って、亦彼の滅する定と名づく」(『論』第七・十三右)
 (偏に受と想とを厭うことによって、七転識を滅する定と名づける。)
 七転識の心・心所を滅するを滅定と名づける。
 その理由は恒行の染汚の心等が滅するからである。また、滅受想定とも名づけられる。滅受想定と云われるのは、遍行の中の受と想とを滅した定で、心所の中で特に心を悩ます感受作用である受と、言葉による概念的思考を引き起こして心を騒がす想とを嫌ってそれら二つを滅するから、滅受想定といわれる。
 二乗と七地以前の菩薩には、色界の四禅と無色界の四地(空無辺処・識無辺処・無所有処・非想非非想処)とを修して、受と想とを厭うことがあれば滅受想定と名づける、と云われています。
 「恒行の染汚の心等を滅する」といわれていますが、これは末那識を表しているのです。ですから、末那を滅するといっても、第七識を滅するのではないということです。末那識の滅尽定において学びましたが、人執は滅しても法執は残る、さらに法執を滅したとしても末那を滅したことではないのです。末那は平等智に転ずる識ですね。八地以上の自在の菩薩と如来とには有漏の第六識はないので、阿頼耶とはいわず、阿陀名といい、人執を起こすから阿頼耶というわけです。また法執を縁ずることで異熟識といわれていました。
 次には第二段から第六段の概略です。 
 • 第二段 ・ 義の第六 「三品の修を弁ずる」
 • 第三段 ・ 義の第七 「初に修する依地を云う」、二乗と及び七地以前で未自在と名づく。(後に少し述べたいと思いますが、世親菩薩の課題は未自在の菩薩が自在の菩薩と違わないと云えるのは、どうして可能かです。最大の課題だと思います。)
 • 第三段 ・ 義の第八 「無漏に於いて分別す」
 • 第四段 ・ 義の第九 「三学に於いて分別す」
 • 第五段 ・ 義の第十 「初起と後起との界地を云う」(初起の位は必ず人中にあり。後には上二界にも現前することを得)
 • 第六段 ・ 義の第十一 「一に見惑を明かす。二に修惑を明かす。」
 以上で滅尽定についての概略を記しました。
 総論としては、
 「謂く有る無学、或いは有学の聖の、無所有までの貪を、已に伏し、或いは離る。上の貪は不定なり。止息想の作意を先と為すに由って、不恒行と恒行の汚心との心・心所を滅せしめて滅尽という名を立つ、身を安和ならしむる故に亦た定と名づく、偏に受と想とを厭いしに由って、亦た彼を滅する定と名づく」(『論』第七・十三右)
 の文につきるのではないかと思います。「有無学」というのは二乗の倶解脱で、「二乗の倶解脱に非ざる者を簡ぶ、入るを得ざるが故に」と、また独覚の中にも滅定を得ざる有り、部行独覚を簡んで有る無学と云われています。「有学の聖」とは、初二果を除くと。有学の中には異生あるを以って聖と簡び、第三の不還果中の身証不還の者がこの定を得るという。
 再録して、もう一度読み直しますと、
 『瑜伽論』巻第五十三の記述を詳説しましたが、それに基づき概略を述べます。別名、滅受想定(受と想を滅した定)といわれます。不恒行と恒行の染汚との心・心所を滅し、無色界の第三処である無所有処の貪欲をすでに離れた有学の聖者あるいは阿羅漢が、有頂天である非想非非想処において寂静の心境になろうという思い(止息想)によって心の働きを滅して入る定、七転識が滅するだけで第八阿頼耶識は滅していないといわれる。
 『論』では無想定の定義と同じく六段十一義を以て解説している。
 「滅尽定とは、謂く有る無学・或いは有学の聖の。無所有までの貪を已に伏し或いは離れて上の貪不定なるは、止息想の作意を先と為るに由って、不恒行と恒行の染汚との心・心所を滅せしむるに滅尽と云う名を立つ。身を安和にならしむ故に亦定と名づく。偏に受と想とを厭にし亦彼(受・想)を滅する定と名づく。」(『論』第七・十三右)
 (意訳) 初めに第一段五義が示されます。 (1) 得する人(倶解脱)を云う。- 三乗の無学(倶解脱の阿羅漢) (2) 得する所依と伏段の差別を云う。 - この定は、非想定によって起こるもの。非想定より前の無所有処までの貪欲は、或いは伏し、或いは離れなければ、この定は得られないことを顕す。上の貪とは有頂天の貪欲のことであり、この貪欲は、定の障りになるものと、そうでないものとがあって不定という。 (3) 前の出離想と別を云う。 - この定に入るきっかけは止息想であることを述べる。(後に詳説す) (4) 識を滅する多少を云う。 - 不恒行と恒行の染汚との心・心所を滅することにより、身を安和にならしめる。 (5) 名を釈す。 - 受と想を厭うので彼を滅する定という。 
 六識と第七識が滅するのは滅尽定においてである。無想定に於いては六識はなくなるけれども、第七・第八識はなくならない。「不恒行と恒行の染汚との心・心所を滅す」といわれています。そして「身を安和にならしめる」作用がある、といわれますね。滅定は完全に六識は滅せられている定ですが、身を持っていることが大事です。それは六識は滅せられても生きているということです。
 無想定は、想を離れるが染汚意は残る。しかし、滅尽定は、受と想を離れる。染汚意はなくなる。染汚の末那が滅せられる。「阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し」とは第二能変の結びの言葉ですね。
 滅尽定を求める人は三乗の無学すなわち倶解脱の阿羅漢そして滅定・出世道は有学(なお学び修すべきことがある人、四向の聖者と三果の聖者)である。ここに有学の聖というのは、有学のうちに異生も存在するので聖という言葉をもって簡ぶのである。これが一番目にいわれています。
 二番目は、得する所以と伏断の差別が述べられます。この定は非想定によって起こるもの、「これは初修の二乗のものが離するによる。菩薩は貪を伏離せず」と。非想定より前の無所有処までの貪は伏し、或いは離れなければ、この定は得られないという。「六行をもって亦伏す」と六行智をもって伏すといわれています。
 三番目に、出離想と別なることを顕し、所滅の識をいいます。「止息想とは、謂く二乗の者は六識の有漏の労慮(ろうりょ - 疲労)を厭患(おんげん - 苦や苦の因となるものを観察することによって、それらを嫌悪し、それらから離れようと欲すること)し、或いは無漏心の麤動(そどう - 心が定まらずに動揺していること)なるを観ず。もし菩薩ならば、また無心の寂静の涅槃に似るの功徳を発生(ほっしょう - 起こすこと)せんと欲するが故に起こす。」
 四番目に、滅識の多少。『述記』には、「「令不恒行と及び恒行の染」とは、謂く、もし二乗ならば、即ち人空の染(我執)を除く。菩薩はまた法空の染(法執)をも除く。各自乗に望めて説いて染となすが故に。対法の第二と五蘊論には、恒行の一分のみをいえり。もし第七はただ有漏にして、ただ人執のみなりと説く者(安慧)は、即ち第七は全に行ぜず、第八に望めて是れ一分なり。故に即ちこの文を以て証として、ただ有漏のみなりという。もし法執もありと説く者(護法)ならば、二乗は人空の一分のみを除く。菩薩は雙て除く。全に第七なきにあらず。定という名は前に同なり。第五に釈名なり。」と。
 阿羅漢・滅定・出世道の三つの状態に末那そのものがない、末那は人執に限られているというのが安慧の立場です。護法の言い分はもっと徹底して吟味しています。法執の末那は存在する。人執の末那は否定しても、法執の末那は存在する、即ち二乗の無学にも法執の末那は存在するのであると。(第二能変・第九、伏断分位門・三位に末那無きことを明かす。体であるのか・義であるのか二師の諍あり。安慧と護法の対論を通して明らかにしているのです。(『論』第五・選註p97、新導本p198に詳説されています。)
 「此の染汚の意は無始より相続す。何の位にか永く断じ、暫らく断ずるや。阿羅漢と滅定と出世道とには有ること無し」
 永断は阿羅漢を指し、暫断は滅定・出世道を指す。「此の中、有義は末那は唯、煩悩障とのみ倶なること有り。聖教に三位に無しと言えるが故に。・・・有義は彼の説は教と理とに相違せり。出世の末那をば経に有りと説ける故に。・・・」
 我と思量することが染汚ですね。執着せしめるものは煩悩です。人執の末那は滅しても法執の末那は存在する。第七識が滅するのではない。無想定は六識を滅して無想果を得るが、滅尽定は六識と、染汚の末那を滅して無心であるといわれているのです。

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