釈尊伝 仏の十号・応供について
「応供は供養に応ずるということでして、われわれは人からなにかもらいますね、するとすまんとかありがとうとか申します。ところが仏陀だけは、ありがとうともすまんということもいらん。もらうだけの権利があるというわけではないが、人の供養に応ずる徳があるというわけです。つまり、くれた人がくれたことによって得るところの利益がある。仏はその利益を与えられる。仏はくれた以上の利益を与えられるということです。ですからお経をあげてお布施をもらいましても、われわれは大威張りでおれるのです。なぜかといえば、くれた以上の利益を相手に与えておる。これが応供です。本当をいうたら全財産をくれてもいい。けれどもわずかに紙に包んだものしかもらわない。けれどもくれた方は、全財産を包んでもおよばんほどの功徳をいただいているという意味があるのです。ただしわれわれでなくて仏陀ですよ。われわれはどうも向こうがみた通りに、みただけの利益しかないのでしょう。でもそれだけの利益があればこそくれるのであって、卑下することはいらんのです。向こうはそれだけの値うちがあるとふんでいるのですから、こちらはふまれることはないんです。・・・応供というのは、たとえば、あるとき仏陀になにもささげる物がなくて、砂一つかみをささげたと。それでもそのささげた功徳によって、その貧しいものが死後天に生まれることができたという物語があります。死後天に生まれるなんてあるだろうかと考えますけれども、それはそういうことではないのであって、一つかみの砂に対して、仏陀の与えられる功徳というものは、その人から貧しさを追い払って天の楽園に遊ぶような大きな幸福を与えたと。こういうような大きな幸福を与えたと。こういうような意味になります。それは昔は死後天に生まれるというふうにいわなければわからなかったのです。なぜかといえば、今砂一つかみをあげたからといって、急に天に生まれることはないのですから。以前と貧乏ですごすのですけれども、しかし本人は貧乏を貧乏をいささかもなげかない。非常に幸福感というものを感じて生きることができるようになったと、こういうようなことですね。ある意味で貧乏な人間は、死んで天国に生まれた人となって生きたと、こういえるのでしょうね。(つづく) 『仏陀 釈尊伝』 蓬茨祖運述より
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第三能変 別境 ・ 護法正義について(3)
昨日のつづきになります。『述記』の記述から検証します。
愚昧の類の極めて愚癡なる者は、散心を止めようと(斂と麤動の心を抑えようと)する為に、所縁に専注して、念を繋ぐのである。ただ所縁にたいして散心を止めようと専注しているだけであって、諸法の道理を簡び分けることはないのである。ただ眉間等を縁じて、心を住させる眉間定のようなものである。この時の中にはすべて定のみあって、慧はないのである。世間の人びとは皆共に周知のことである。従って、この場合は定も慧も同一の所観の境を対象とするが、定のみが生起し、慧が存在しない場合があり得るといわれています。しかし、ここに一つの問題が生じてきます。「若し爾らば、此の境を何ぞ所観と名づくるや。所観の言は慧の境なるが故に」、という問題です。この答えが次の科段で説明されます。
昧(まい) - くらますこと。むさぼり。心の働きが劣っていることをいう。
斂(れん) - おさめる。おさまる、という意。
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