唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(34) 想の心所 (2) 思の心所 (1)

2015-10-02 23:12:32 | 初能変 第三 心所相応門
 

 想の心所は、「境の於(うえ)に像を取る」ことを本質としている心所であると言われているわけです。つまり、対象が何であるかと知る知覚作用ですが、唯識の命題は、「唯だ識のみあって境は無し」です。それならば境を知る知覚作用はおかしいのではないかという疑問が起こります。
 居酒屋さんにいって、カウンターの前においしそうな食べ物が並んでいますと、喉がうなりますが、一つ一つの食べ物を知る作用は言語を通してですね、言語を通して対象を捉えている。
 本来は自分の心が境に似て作り出したものなのです。ですから実体的に外界にあるわけではなく、仮に存在している。外界に在るとなると、それは遍計所執になりますね。迷いや苦しみをもたらす原因になりますね。言葉を通して会話も成り立ち、社会生活が成り立っているのですから、想という、対象が何であるかを知る知覚作用は大切なことではあります。それと同時に私たちは、固定化し、実体化してものを見る習性があります。本当は外縁なんですね。言語を通して、言語の本来もっている指向性に気づいていく。気づかせる作用というものを言語はもっている。
 言語化された対象を認識する中で、自己本来の心の豊かさに気づいていく、それが、唯識無境といわれる、すべては本識である阿頼耶識の変現であるという意味なのでしょう。
 「種々の名言を施設するを以て業となす」。想は種々の名言を起こす働きをもっている。名言は意識されたものですから、意識と相応する想のみが言葉を発することができるのです。「施設」が「建立發起」といわれますように、言葉を建立し、言葉を発することが施設の意味で、安立とも言われているのです。
 
 第五の相応は、思の心所です。
 先ず、第三能変、意識と相応する思の心所を伺います。
 「思は心に正因等の相を取って、善等を造作せ令む。心が起こる位に此の随一無きことは無し。故に必ず思有り」(『論』)
 思は、心に正因(解脱に向かわしめる善業の因)等の相を取り、善等を造作させる。心が起こる時に、此の善等の中の一つは無いことは無いのであって、必ず存在するのであるから、これからもわかるように、心が生起し活動するときには、思は必ず遍して活動するのである。よって思は遍行であるといえる。思とは意志のことです。意志決定をするということ。~にたいしてどうするのか、それを決定する心所ですね。
 阿頼耶識における思の定義。
 「思と云うは、謂く心をして造作せ令むるを以って性と為し、善品等に於いて心を役するを以って業と為す。謂く能く境の正因等の相を取って、自心を驅役(くやく)して善等を造せ令むるなり」(『論』第三・二左)と。
 良遍は『二巻鈔』において、「思ノ心所ハ、心ヲ善ニモ悪ニモ無記ニモ作成(つくりなす)ス心也」と簡潔に説明されています。
 「心の動機づけの作用。意志の発動。身・語・意の三業をつくる心作用」と説明されます。そして思業・思已業という分類がされます。身口意の三業によって私たちの行為は決定されるわけですが、それが思業・思已業に分類されるわけです。思業は意業です。心の中で思っているだけの業で、種々思考することですね。それに対し、思已業は心の中に思っていることが外に現れた業といえます。身体の動作・言語の発動です。また、思業は尋求思・決定思、思已業は動発思であるといわれています。考える事と、様々な行動を起こすことです。
 まず心の行為です。全ての行為の原点になるのが意志です。意業です。意志決定を通じて動発するわけですから、如何に私たちの意志が重要であるかがわかります。
 正因等の相」とは、『瑜伽論』巻三を引いて解しています。「此の邪と正と倶相違との行業の因相をば思に由って了別すと説けり。謂く邪正等行とは即ち身語業なり。此の行が因は即ち善悪の境なり。・・・」(『述記』)と。
 正因は善業を行わせる因となる認識対象をいう。(行因即境善悪)、邪因は悪業を行わせる因となる認識対象をさします。倶相違は無記の行為です。このように善・悪・無記の行為が意志によって決定されるということが教えられているわけです。意志が人生において如何に大事かが教えられています。悪に赴いていくならば、とことん奈落の底に沈んでしまいますでしょうし、涅槃に向かおうとするならば、そこに生きる事の意味がはっきりと見定められてくるのではないでしょうか。それを親鸞聖人は「往生極楽の道を問いきかんがためなりけり」(『歎異抄』)と見極められたのであろうと思います。

 参考文献 『瑜伽論』巻三の記述

  「即ち此の邪・正・倶相違の行為(ぎょうい)の因の相は思に由って了別す。・・・思は心の造作なり。・・・思は何の業をか作すや。謂く尋伺、身語業等を発起するを業と為す。・・・」
「思」の心所は、行動を起こすとか、意思決定ですね。私たちは意思決定も、意識で行っていると思うんですが、そうではないということを教えています。一言でいえば条件内存在です。意思決定があっても条件が整わなければ行動を起こすことは出来ません。「心をして造作せ令むるを以て性と為し」と。意思決定は、善・悪・無記のいずれかに決定する作用ですね。そして具体的な行動に移していくわけです。
 そしてこれらの五遍行が第八阿頼耶識と倶に働いているということです。意思決定をし、具体的な行動として動くのは阿頼耶識の具体相なのです。何をいっているのかといいますと、私たちは阿頼耶識を所依、依りところとして現実生活を送っているということなのです。本来は、我執を超え、法執を超えて命は与えられているということなのでしょう。

阿頼耶識と共に生まれ、阿頼耶識と共に生かされているということになりましょうか。善導大師はその著『観経疏』序文義に「既に身を受けんと欲するに、自の業識を以て内因と爲し、父母の精血を以て外縁と爲す。因縁和合するが故に此の身有り。」と、内因と外縁の因縁和合に深い恩をいただいておられます。自分は自分の生まれたいという意思決定により、父母の力を借りて生み出されてきたのであって、それは「自の業識」であるところの阿頼耶識の働きであるといえないでしょうか。
 
 曽我量深先生 『法蔵菩薩』より 
 「この末那識、阿頼耶識というのは、特殊の、深いところにある、一つの働きであると、まあ、こう言うておるのでございますが、この末那識というのは、つまり、言うてみれば、我というものである。「おれが」ということ。それから、「わがもの」ということ。「われ」と「わがもの」ということを始終ふかく思量し、思惟しておるところのはたらきがあって、深層意識と言われているものであります。つまり、私どもがわれ(我)と言い、わがもの(我所)と言うのを、我見・我所見と言う。我・我所を主我・客我とも言いますが、我というのは主我、我所というのは客我である。こういうように、迷いによって、まず、われというものをたてている。われというものをたてて行けば、われ以外の一切のものはわが所有であると、すべてのものを所有して行く。それで、まあ、この末那識が、迷いの根源である。
 意識のもう一つ深いところに、末那という意識があって、これは、ねてもさめても、はたらいているものであります。眠っておっても夢を見るということがありますけれども、しかし、もう夢すらも見ないということもあります。そういうことがありまして、第六意識というものはほとんどいつでも働いているというものでありましょうけれども、第六意識というものは、また、働かない時もある。ところが、第七識は、第六意識のもう一つ深いところにあって、ねてもさめても働いていて、しかも、第六意識のよりどころになるものである。
 いつでも第七識というものが内にあって、そして、それあるが故に、それによって、第六識というものは働いておるものである。第七識の末那というのがなかったならば、第六識は、よりどころを失うのである。まあ、こう言うので、この『成唯識論』では、第七末那識というものをたてて、これが、つまり、我々の迷いの根源である。もっとくわしくお話しなければ意味がはっきりしないんでありますけれども、とにかく、こういうようにしておくのであります。」(『法蔵菩薩』p32~p33)

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