唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(33) 想の心所 (1)

2015-10-01 22:37:10 | 初能変 第三 心所相応門
 

 遍行の五(触・作意・受・想・思)を説明していますが、これは遍行の心所一般にについて述べられているのです。後に第八識は捨受のみと相応すると明らかにされますが、それは、十二支縁起に於ける、受から愛が起こるとされますが、阿頼耶識に受が相応しても、阿頼耶識から愛は起こらないのです。阿頼耶識に煩悩は相応しない。阿頼耶識に相応するのは捨受である五遍行のみなんですね。
 それでは、遍行の心所の意味がわかりませんから、触とは何を意味し、乃至思とは何を意味するのかが説明されているわけです。
 受の心所を見てきましたが、受は「領納」(感覚・知覚すること。苦・楽を受け止め感じること)することなのですが、「定んで己に属する」ものであると教えています。感情や知覚は、自分の中から出てくるものであるということなのです。先日は大変美しいスーパームーンを見せていただきましたが、月にスーパーも何もないわけでしょう。また秋の月夜は何気なくもの悲しいというか、わびしげです。でも月が悲しいとか、わびしいということはないわけですね。見る側の感情ですね。ノエシスです。主観的側面という主体に関係して感情が起こってくる。それが領納という言葉の意味するところです。
 受一般の概念では、「受とは順と違と倶非との境を領納するを以て性と為し、愛を起こすを以て業と為す」心所であると定義されます。

 想の心所
 「想と云うは、謂く境の於に像を取るを以て性と為し、種々の名言を施設(せせつ)するを以て業と為す」(『論』第三・三右)
第三能変。第六意識における想の心所の働きをみますと、
 「想は能く自境の文斉を安立す、若し心が起こる時に此の想無くんば、境の文斉の相を取ること能わざるべし」(『論』)と述べられています。良遍は『二巻鈔』に於いて、「想ノ心所ハ、殊ニ物ノカタチヲ知リ弁テ、其ノクサグサノ名ヲ説ク也」と説明をしています。
 性は取像、像はかたちです。かたちをとる。対象の上に、外界から入ってきた情報を内なる認識をもって成立させていく。対象が何であるかを知覚する作用を想という。青色だと青色であって赤色ではないというように知る働きです。はっきりと知るときは必ず名言をもってとらえる。言葉を持って対象を把握する。業は名言を起す。言葉に由って理解する、概念化する。内なる知性とか感性によって言葉は生みだされてくるわけですから、言葉によって迷う・苦しむという事も起こってくるわけです。執着を起しますからね。「此の像を取るに由って便ち名言を起して此れは是れ青し等と云うなり。性類衆多なり。故に種々と名づく」と、このような働きをする“想”の心所がなかったならば、どのようにして認識作用が起こるのであろうか。想の心所があるから認識作用は起こる、この想が無かったならば、「境の文斉の相を取ること能わざるべし」と。想によって、「境の分斉の相を安立す」るわけです。すべてが対象となるわけですから、想は遍行であるわけですね。

 「名言を施設する」というのは、名言を發することではなく、名言を安立するという意味なのです。言葉に由って対象を知ることが出来る。物を見ても、物に言葉を与えていなければ認識が成立しないのです。
 「施設と言はば、安立の異名なり。建立し發起するを亦施設と名づく」(『述記』第三末・二十右)。実体としては存在しないものを名や言葉でもって仮にあると説くことを施設といい、安立・仮説と同義語になります。
 
 「私たちは外のものを鏡のように知っていると思っていますが、けっしてそうではないというんです。自分自身で相を捉えてみて認識が成立するんです。言葉がさらにそれに加わっていくんです。むしろ言葉を通してものを見ていく。これが唯識の名所だと思います。言葉を通して外のものを見ていく。言葉を与えることによって認識がはっきりしてくる。正確にいいまうと、言葉を施設するのは、第六識の想のみであります。」と大田久紀師は述べられています。
 

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