唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

初能変 第三 心所相応門(35) 想の心所、追伸

2015-10-04 12:35:26 | 初能変 第三 心所相応門
 

 「想と云うは、謂く境の於(ウエ)に像(ゾウ)と取るを以て性と為し、種種の名言(ミョウゴン)を施設(セセツ)するを以て業と為す。」(『論』第三・三右)
 想の心所は、相状ですね、すがたかたちを取る、認識する、或は知覚する。認識対象である境をとらえること。「於境取像」という働きが想なんです。そして、この取ることに於いて、さまざまな名言、言葉が生み出されてくるわけですね。
 私たちが言葉でもって捉えている現象すべてが想による働きなのです。言葉がうみだされてきますと、言葉に由って、すぐ像を思い浮かべてきます。取像と名言は互いに相対して、互いに客となるという関係ですね。
 名言は「施設するを以て」と云われていますように、はじめから名言があるわけではなく、施設されたものであるということなんです。その理由を、
 「謂く要ず境の分斉(ブンザイ)の相を安立(アンリュウ)す。方(マサ)に能く随って種種の名言を起こすぞ。」(『論』第三・左)
 安立は、設定するという意味ですね。境の様々な区別を立てるとうこと。
 分斉は、区別を立てること。華厳では詳しく解き明かされています。『華厳五教章(けごんごきょうしょう)』または『五教章』とよばれている書物の中で,「華厳一乗教義分斉章」が設けられて説明されています。
 この理由について『述記』は詳しく釈しています。
 「述して曰く、此れが中の安立と云うは取像の異名なり。謂く此は是れ青にして青に非ざるには非ず。等しく此の分斉を作りて而も共相を取るを名けて安立と為す。此の像を取るに由って便ち名言を起こして、此れは是れ青。等くいい性類衆多なり。故に種種と名づく。
 諸論に名を説いて其の想と為るは、因に従って説く。想を説いて名と為るは果に従って説く(名は果、想は因)。世の人の汝が想は是れ何んぞ。名は是れ何等ぞと言うが如し。此の業をば但だ是れ意(第六意識)と倶なるの想と云う。余識と倶なる想は名を起こさざるが故に。・・・」
 想に由って、相状を作り上げるのですね。本当は相状は仮のもの、心が映じているだけなのですが、心に映じた相状を第六意識が具体的なすがた・かたちとして捉えているわけです。捉えてものに対して名言をつける。言葉を与えるわけです。その言葉は共通性をもっています。例えば、犬といったら犬を思い浮かべ、猫といったら猫を思い浮かべて、混乱をきたしません。これが共相ですね。言葉には共通した性格がありますが、私たち一人一人、言葉の指し示す共相によって、不共相の意識も起こします。この犬は可愛いとか、可愛くないとかです。このような判断が迷いを生み出してくることになるわけです。
 受・想はすばらしい生命のもっている能力なのですが、受は愛を生み、愛は愛着を生じて愛に執着することを必然します。また想は言葉という言語を通して思想を生みます。思想が生まれる時に非量という、自己中心的判断能力によってセクトをうむわけです。セクトはセクト間で争いを引き起こしますから、ぬきさしならぬ状況に陥ることも招来するわけですね。第六意識は現量でもあり、比量でもあり、非量でもあるわけです。第七末那識の影響下に置かれていますから、すがた・かたちを捉えた時に分別を起こします。自分にとっていいか悪いのかの判断を下すのですね、これが生命活動、生命の能力とでもいうのでしょうか。認識する働きと、認識することに於いて迷いを生むことにもなるわけです。これが次に説かれます思につながっていきます。

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