吉水門下 信心争論の図
「聖人 親鸞 のたまわく、「今日は信不退・行不退の御座を、両方にわかたるべきなり。いずれの座につきたまうべしとも、おのおの示し給え」と。そのとき三百余人の門侶、みな其の意を得ざる気あり、時に法印大和尚位聖覚、ならびに釈信空 法蓮上人 信不退の御座に着くべしと云々 つぎに沙弥法力 熊谷直実入道 遅参して申して云わく、「善信御房御執筆何事ぞや」と。善信聖人のたまわく、「信不退・行不退の座をわけらるるなり」と。法力坊申して云わく、「しからば法力もるべからず、信不退の座にまいるべし」と云々 よって、これをかきのせたまう』(真聖p728)
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法我見と相応する末那識の所縁の境はなにかについて
「彼は異熟識を縁じて、法我見を起こすなり。」(『論』第五・六左)
(意訳) 彼(法我見と相応する末那識)は、異熟識を認識して法我見を起こすのである。
「述曰。此の法執の心は異熟識を縁じて、法我見を起こす。法我見の位は既に長し。異熟の心も亦爾なり。」
法執は無始より金剛喩定(こんごうゆじょう)まで存在するといわれています。法我見と相応する末那識は法執と相応する末那識ですから、「法我見の位は既に長し」と説かれているわけです。
金剛喩定(金剛心) - 有頂天(非想非非想天)で最後の第九品の惑を断じる無間道で起こす定。最後の最後まで残った煩悩を断じ、次の瞬間に仏陀になる禅定。
この位の名を善悪業果位といい、異熟の名があるわけです。
- 無始より七地以前、二乗の有学までの第八識は - 阿頼耶・異熟・阿陀那の三つの名を持つ。
- 菩薩の八地以上、仏果未満、二乗の無学の第八識は - 阿頼耶の名はなくなり、異熟と阿陀那の名で称されます。
- 仏果と成った以降は阿陀那と称されることになる。
第三能変に於ける五位無心を学ぶ中で、滅尽定について末那識の記述から学びました。我執を伏しても法執は残るということですね。我執は必ず法執によって起こるということ。そして二乗の有学の聖道と、滅尽定の現在前する時と、頓悟の菩薩の修道の位に有る時と、有学の漸悟の菩薩の生空智とその果の現在前する時とには、みなただ法執のみを起こすのである、それはすでに我執を伏しているからである、と。 この科段は末那識を述べるところで詳しく読んでいこうと思います。
第三能変 起滅分位門 ・ 五位無心 ・ 滅尽定に戻ります。滅尽定についても無想定と同じく六段十一義をもって説明されています。ここまでは第一段五義を説明しました。
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