唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変  第二・ 二教六理証 その(76)  第六・ 我執不成証 (⑪) 

2012-06-05 23:40:58 | 心の構造について

 安田理深師の了解を紹介していますが、少しおきまして、『成唯識論』本文に戻ります。

 「依如是義有伽他言。 如是染汚意。是識之所依。此意未滅時。識縛終不脱。」(『論』第五・十四右)

 (是の如き義に依って、有る伽他に言く。 是の如く染汚の意は、是れ識が所依なり、此の意未だ滅せざる時には、識の縛を終に脱せずという。)

 (このような意味によって、ある伽他に説かれている。このような染汚の末那識は、これは識の所依である。この末那識が未だ滅しない時には、識の縛をついに脱することはない、という。)

 『無性摂論』に「彼亦説くが如しと言えり。何の処の論文と云うことを知らず」といい、『瑜伽論』の中には『阿毘達磨経』であると説いていると『述記』は述べています。この文献の出処は定かでないということです。

 第七末那識の煩悩によってのみ、有漏であることが可能である、という。『無性摂論』は勝顕(勝れた点)によって説く立場であるから、伽他に説かれる二つの識は第六識を指すと共に、三性心に存在することを説いています。染汚の末那識は第六識の所依であり、末那識が未だ滅しない時には、六識の相縛は、ついに滅することはない、というのです。

論。依如是義至識縛終不脱 述曰。無性攝論彼亦言如説。不知何處論文 然有解云何毘達磨經。五十一中有此義同。文有少異。以上攝論但言施等有於我執。此中通論三性心有。彼據勝顯説故。此頌即彼文也。」(『述記』第五末・三十八右。大正43・414b)

 (「述して曰く。無性摂論に彼に亦説くが如しと言うて何の処の論文ということを知らず。然るに有るが解して阿毘達磨経なりと云えり。五十一の中には此の義と同じこと有りとも文少し異なること有り。上の摂論には但、施等において我執有りと言うを以てなり。此れが中には通じて三性心に有ることを論ぜり。彼こは勝顕なるに拠って説くが故に。此の頌は即ち彼しこの文なり。」)

 「これは我執の相応している末那識によって第六識に相縛がある。第六識というものはそこに内容が実体化されているから、つまり依他起性である意識の内容を遍計所執としているから、それによって第六識が縛られている。相縛は染汚の末那識によってそうなっている。 『摂大乗論』には相縛というものは出ていないが、相縛という形で論じられている。我執を帯びた第六識を相縛という。『成唯識論』の法では更にそれにとどまらず、相縛の問題をもって有漏とする。善や無記の場合も相縛があるが、その場合を有漏とする。凡夫だからとて、いつでも不善であるわけではない。善や無記はあるが、それが有漏である。いかにして有漏が可能であるかを精密に議論している。第六識の立場では、有漏というものを解くことはできぬ。」(『安田理深選集』第三巻、p211) 


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