唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 所依門 (129) 開導依 その(34) 護法の正義を述べる (8)

2011-07-13 23:09:46 | 心の構造について

 「述して曰く、下は相違を釈す。摂論の所説は是れ縦奪の言なり。謂く仮て小乗の上座部の中の経部師の色に等無間縁有りと云うことを縦して、彼が因縁を奪うなり。彼は第八の心無し。色を以て因と為すと云うが故に。即ち是れ設けて色に此の縁有りと云うことを許すとも、因縁の義は無し。此の解を作さざれば、等の言無用になりぬ。謂く前のと及び後のも各々一の法有りて相似せるを以て等と名づく。今は相似せざれども亦等と名づくべきが故に。

 此の設縦の言に二種の義有り。

 一には彼の部いい色にも此の縁有りと計す故に。此の文を以て証と為す。若し爾らば何が故にか、『摂論』の第一に経部師は唯だ色等の法をば無間縁と名づくるに非ずと云う。第三巻の中は、色の中は諸の種子を含し、或いは及び心にも有りというに約して云う故に。此の縁有りと摂けり。彼の第一巻は彼いい識及び種子と無しと云うに據るが故に。唯だ色法のみ有っては等無間縁と成ることを得ずと言う。或いは第一巻は是れ経部の計なり。第三巻の中は、上座部等の義なり。

 二には彼の第一の論文を以て正と為すと云う。此の義を正と為す。経部の本計は、必ずしも色を等無間縁と為すと許すものには非ず。等しからざるを以ての故に。第三巻の中は且く設として有りと許して因縁を奪はんと欲す。彼いい色を等無間と為すとは計するに非ず。此の中は即ち是れ色心が前後として前のを後のが因と為すと云う。」(『述記』第五本・十四右)

 そして本文に『摂論』は『無性摂論』であるという根拠は『演秘』によります。「無性摂論を按ずるに云う。」と。

 色法にも等無間縁があると説かれているのは縦奪の言である、と。「前刹那の色法を後の色法に望め、前刹那の識に望むのは、まさに知るべきである。等無間縁が存在すると認められるものであるけれども因縁は存在しないのである」と。これは前念の色法と後念の色法との間には等無間縁が存在することを認めるということであって、色法が因縁になることはないと否定しているわけです。即ち、上座部の中の経量部の主張は「前念の色・心が後念の色・心の因縁となる(種子となる)」と云うのですが、これを『摂論』は経量部の主張の因縁となることを否定する為に「色・心には前後して等無間縁がある」ことを認めているという。認めてはいるが実際にはそこに等無間縁が存在するということを説いているものではない、と。

 『演秘』の解釈を読みます。その前に概略を示しますと、前念の色心が後念の色心の因縁(種子)とするのであれば阿羅漢の後心は無有余依妙涅槃界に入ることが出来ないことになる。何故ならば、阿羅漢の最後心を因縁(種子)とするならば阿羅漢の最後心と身体と同じものが次に生じてしまうことになり阿羅漢は永遠に無余依妙涅槃界に入れなくなるからである。この故に色心の前後に相生するということには問題があり、そこにはただ等無間縁と増上縁しか存在してはならないはずである。因縁は存在しないのである、と。

 「又若し其の倶生倶滅して摂受する種子と相応する道理に離れて、但だ前の刹那心有りて能く種子と為る。無間の後の刹那の心を引生すと執せば、即ち阿羅漢の後心は成ぜずんば無有余依涅槃界に入ることを得べからず。最後の心、能く種子等無間縁と為って余心を生ずるに由るが故に。是の如く即ちまさに無余依涅槃界なかるべし。是の故に色心の前後に相生するは、但だ等無間縁と及び増上縁とは有る容し。因縁有ること無しと云えり。各々自相生すと云う。互いに相い生ずるを等無間縁と為すものには非ず。」(『演秘』第四・五左)

                            (続く)


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