唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 煩悩の心所 諸門分別 (47) 五受相応門 (11)

2014-08-25 22:45:23 | 第三能変 諸門分別 五受相応門

 邪見と喜受の相応については、これもですね、邪見は因果撥無の見と云われていますように、悪を為しても、果として苦は生じないという因果の否定の上に、邪見は喜受と相応するんだ、と云われているのですね。悪因苦果の否定ですね。「本願ぼこり」とはこういうことを言っているのではないですか。
 昔のことですが、「悪人を救うのが真宗の本義であろう。ならば、あの悪人を救ってあげるのが我々の役目ではないのか。」とうそぶいておられた方がおられましたが、まさに邪見が喜受と相応することを証明されていたようですね。造悪無碍という考え方ですね。

 

煩悩の恐ろしい処は、煩悩は次の瞬間に引き起こされてくる果を否定しているということなのではないかな、と思うんですね。とにかく今の欲望を満足させ、つぎに起こるであろう果を考えないというところに悲劇性があるんだと思います。ある意味、人生のスパーンを長い時間の中で思考することも邪見ですね。ですから、喜受というのも、苦受の上に立てられた楼閣のような、夢幻のようなものでしかないんですね。

 

今日は、第二の、見取見と戒禁取見と憂受との相応について考えてみます。

 

「二取は若し憂と倶なる見等を縁じて、爾の時に憂と相応することを得るが故に。」(『論』第六・十八左)

 

二取は、見取見と戒禁取見ですが、此の二取が憂受と相応するというのは、この二取は、憂と相応する見等(見と戒と所依の蘊)を縁じる時に、憂受と相応するからである、と。

 

見取見は、前にも述べていますが、誤った見解を自己の見解とし、その見解が正しいものとしている人は、誤った見解を、最も勝れ、かつ清浄な涅槃を得る原因となると考える見解です。戒禁取見もですね、誤った戒を正しいとし、その戒に基づいての規範ですね。これも、涅槃に至る道として遵守するわけです。しかし、どちらも誤った見解ですから、涅槃は得られないのですね、そうしますと、涅槃に至る道だと思っていたのに、涅槃が得られない時、そこに生れてくる感情は憂受なのです。誤った見解の結果は憂受ということになりますね。

 

正見でないと、満足が得られないということなのです。「能令速満足」と『浄土論』に頌われていますが、この「速」ですね、「速」でないとそこには分別がさしはさんでくるんでしょうね。親鸞聖人は、この『頌』の意味をですね、

 

「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」とのたまえり。この文のこころは、仏の本願力を観ずるに、もうおうてむなしくすぐるひとなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむとのたまえり。「観」は、願力をこころにうかべみるともうす、またしるというこころなり。「遇」は、もうあうという。もうあうともうすは、本願力を信ずるなり。「無」は、なしという。「空」は、むなしくという。「過」は、すぐるという。「者」は、ひとという。むなしくすぐるひとなしというは、信心あらんひと、むなしく生死にとどまることなしとなり。「能」は、よくという。「令」は、せしむという、よしという。「速」は、すみやかにという、ときことというなり。「満」は、みつという。「足」は、たりぬという。「功徳」ともうすは、名号なり。「大宝海」は、よろずの善根功徳みちきわまるを、海にたとえたまう。この功徳よく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに、とくみちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらず、もとめざるに、功徳の大宝、そのみにみちみつがゆえに、大宝海とたとえたるなり(『一念多念文意』真聖p543)

 

と教えておいでになります。種子の六義の一番目が「刹那」であるといわれているのですが、間隔を入れずということが種子の意義なのですね。本願力が種子とし、現行の果が功徳大宝海で、因果同時である、ここに、「むなしくすぎることのない」人生が開かれてくるのでしょう。

 

     本願力にあいぬれば
       むなしくすぐるひとぞなき
       功徳の宝海みちみちて
       煩悩の濁水へだてなし (『高僧和讃』真聖p490)

 

 坊主バーのカクテルに、功徳大宝海というメニュがあるんですが、「本願力にあいぬれば」がキーポイントになりますね。もっと厳しくいいますと、仏法に遇えばいいのか、そうではないんだ、本願力に遇うということなんだ、ということなのでしょう。こういうところが教相というものではないでしょうか。

 

 もう一つ、「遊煩悩林」というカクテルもあるんですが、これもやはり「本願力にありぬれば・・・・煩悩の濁水へだてなし」と云われているのですね。本願力が主体になりますね。

 

 『浄土論』には、

 

 「出第五門というは、大慈悲をもって一切苦悩の衆生を観察して、応化身を示して、生死の園・煩悩の林の中に回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもってのゆえに、これを出第五門と名づく。」

 

 『教行信証』信の巻の御自釈に、『浄土論』を承けられて、

 

 「真に知りぬ。二河の譬喩の中に、「白道四五寸」と言うは、「白道」とは、「白」の言は黒に対するなり。「白」は、すなわちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。「黒」は、すなわちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人天の雑善なり。「道」の言は、路に対せるなり。「道」は、すなわちこれ本願一実の直道、大般涅槃無上の大道なり。」

 

 と釈されています。「無明煩悩の黒業、二乗・人天の雑善」は「白道即ち、本願力ですね、その本願力によって見出されてきたもの、本当の自己に出遇ってみれば、雑染であった、しかし、雑染は本願に出遇ったという喜びに他ならないんですね。

 

 功徳大宝海も、遊煩悩林もですね、私が起こすものではない、いうならば、私が起こすにも起こしようがない絶望の淵から輝いてくるものでしょう。教えに触れ、教えに自己を尋ね、自己を聴く歩みが、自己に絶望するんでしょう。絶望の淵に燦然と輝きを放っていたのが本願力であった、という感慨なのではないでしょうかね、ここに頭が下がってくるのでしょう。


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