昨日の続きになりますが、不定という心所は私の一挙手一投足、作したこと、作さなかったことも悪作になるということは、そこに心の働きにより、次の行為につながることになるのでしょうね。「所作というは、要ずしも先に有事の已作を悔むのみを名づけて悪作となすにあらず。」その理由は先に作さざりしを悔やむも又悪作というのである、というのです。次に行為につながるということに於いて止を障えるといわれるでしょう。奢摩他を障碍するのが「悔」ですから、不善であり、有覆無記になりますね。このことは私の生活に大きな示唆を与えていると思うのです。私の作したこと、作そうとおもったことに於いて、間断なく業を生みだしているのですね。間断なくという事ですから、真実を覆ってしまうのです。心の深層に深く横たわる私へのこだわり、自我愛、執着が善なるものも染にしてしまうのでなないでしょうか。「悪作の善なるものは是れ愧なり」といわれますが、その愧をも覆ってしまうのが染心なのでしょう。染心が私の心を支配して、あたかも染心が私であるが如く装ってしまい、真実を見る眼差しを覆い隠してしまっているのです。『歎異抄』第十三条は非常にきわどい文章で、誤解も多くありますが、大乗仏教の真髄を発揮しているのですね。唯識を学んで自己を見る眼差しの厳しさを親鸞聖人から教えられます。
「よきこころのおこるも、宿善のもよおすゆえなり。悪事のおもわれせらるるも、悪業のはからうゆえなり。故聖人のおおせには、「卯毛羊毛のさきにいるちりばかりもつくるつみの、宿業にあらずということなしとしるべし」とそうらいき。」(真聖p633)
宿業というところに自己の罪の深さを教えられます。已今當の過去・現在・未来にわたり末那識相応の我執によって真実を覆い隠されたことを以って已造・未造の業をつくるのですね。宿業は非常に明るいところに立つ心です。宿業の自覚により闇を破るのですね。「無明の闇を破る」のは「宿業にあらずということなし」という眼差しから生み出されてくるものだと思いますね。「本願力」というのは無覆無記のパワーだと思います。どこかにあるものではなく、私にあって、私のものではない力でしょう。掴むのも離すのも我執です。「掴むことも、離すこともできません。」ということが本願に頷くということではないでしょうか。慈恩大師の釈門を読ませていただき「不定」の心所・「悔」が私に教えていることの意味を感じました。
「悔といふは謂く悪作(おさ)。所作の業を悪(にく)んで追悔(ついげ)するを以って性と為し。止を障るを以って業と為す」という『論』の要旨を身に受けて、自分の所作を見つめてまいりたいと思います。
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