唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変 第九 起滅分位門 (18)滅尽定について(3)

2017-01-11 21:34:54 | 第三能変 第九・起滅...
  
 明日、坊主バーへ、一年ぶりに遊びにいきます。河合先生の還暦祝いだそうです。おめでとうございます。 
 
 末那識の分位行相について述べています。今日は、第二、法我見と相応する位について説明します。 
 「次のは、一切の異生と声聞と独覚とに相続せると、一切の菩薩の法空智と果との現前せざる位とに通ず。」(『論』第五・六右)
(意訳) 次に法我見と相応する位について説明する。法我見と相応する末那識は、一切の異生と声聞と独覚とに相続するのと、一切の菩薩の中の法空智とその果との現前しない位とに通じて存在するのである。

 末那識が滅する状態は「阿羅漢と滅定と出世道とには有ることなし」と。無漏智が具体的に生起した位です。この位を聖者で、それ以前が凡夫。十地でいえば、七地以前が凡夫で、我執は無始より見道通達位まで存在するといわれています。八地以上が聖者です。
 そして無漏智に生空智と法空智の二つがあります。生空智とは人空智ともいわれ、実体としての自己はいないという智慧・我見によって執着するような実体としての自我は存在しないという智慧です。この真理を観ずることを人空観といいます。そしてその智慧をさらにつきつめて、全ては存在しないという智慧に到達したのが法空智といわれています。

 「法空智とは、謂く無分別智、法空観に入るの時なり。果と云うは、即ち是れ此の正智が果なり。謂く法空の後得智と及び法空の後得智に依って滅定に入る位となり。無分別智に引起せられたるが故に法空智が果と名づく。此の時に第七識は必ず平等智を起こす。第六の法空心は細なれば、第七の法執、彼の法空智を障えり。法空智起こるが故に平等智生ず。」(『述記』第五末・二左)

 法空智とは、無分別智が法空観に入る時をいう。その果とは、この法空智による後得智と、この後得智による滅尽定に入る位を指す。この説明は、法空智と、その後得智と、後得智にによる滅尽定の三つを述べています。そしてこの位には必ず平等性智を起こすと述べられています。「法空智起こるが故に平等智生ず。」といわれる所以です。第六識が人空観を起こすなら、人執は断じられるが、法執は残り、法空智を障える、と。

 ですから、法我見と相応する末那識は、上に述べた三つの位を除いた状態が「現前しない位」になるわけですね。すべての異生と二乗と、「一切の菩薩の中で法空智と、その果との現前しない位」の菩薩が執着を起こす位になるのですね。

 所縁の境は、「彼は異熟識を縁じて、法我見を起こすなり」と説かれます。
法我見と相応する末那識の所縁の境はなにかについては、

 「彼は異熟識を縁じて、法我見を起こすなり。」(『論』第五・六左)と述べられます。
 (意訳) 彼(法我見と相応する末那識)は、異熟識を認識して法我見を起こすのである。

 「述曰。此の法執の心は異熟識を縁じて、法我見を起こす。法我見の位は既に長し。異熟の心も亦爾なり。」

 法執は無始より金剛喩定(コンゴウユジョウ)まで存在するといわれています。法我見と相応する末那識は法執と相応する末那識ですから、「法我見の位は既に長し」と説かれているわけです。

 金剛喩定(金剛心) - 有頂天(非想非非想天)で最後の第九品の惑を断じる無間道で起こす定。最後の最後まで残った煩悩を断じ、次の瞬間に仏陀になる禅定。

 この位の名を善悪業果位といい、異熟の名があるわけです。
 • 無始より七地以前、二乗の有学までの第八識は - 阿頼耶・異熟・阿陀那の三つの名を持つ。
 • 菩薩の八地以上、仏果未満、二乗の無学の第八識は - 阿頼耶の名はなくなり、異熟と阿陀那の名で称されます。
 • 仏果と成った以降は阿陀那と称されることになる。

 第三能変に於ける五位無心を学ぶ中で、滅尽定について末那識の記述から学びました。我執を伏しても法執は残るということですね。我執は必ず法執によって起こるということ。そして二乗の有学の聖道と、滅尽定の現在前する時と、頓悟の菩薩の修道の位に有る時と、有学の漸悟の菩薩の生空智とその果の現在前する時とには、みなただ法執のみを起こすのである、それはすでに我執を伏しているからである、と。 この科段は末那識を述べるところで詳しく読んでいこうと思います。

 明日より、第三能変・起滅分位門・五位無心・滅尽定の説明に戻ります。滅尽定についても無想定と同じく六段十一義をもって説明されています。ここまでは第一段五義を説明しました。

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