唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第二能変 心所相応門 (5) 我癡と我見

2011-09-19 18:49:15 | 心の構造について

 二種の名を説明する。二種とは我癡と我見である。

 「我癡とは謂く無明ぞ、我の相に愚にして無我の理に迷ず、故に我癡と名づく。我見とは謂く我執ぞ、我に非ざる法の於に妄計(もうけ)して我と為す。故に我見と名づく。」(『論』大師・二十九右)

 妄計(もうけ) - よこしまな見解。間違って考えること。

 (我癡とはつまり無明である。我の相に愚かであり無我の理に迷うのである。よって我癡と名づける。また我見とはつまり我執である。我ではない法に対して間違った考えを起こして我とする。よって我見と名づけられるのである。)

 我癡とは無明である。道理に於て明るくないというわけです。明るくないということは諸行無常・諸法無我という理に迷っているということですね。これが根本ですね。無我の道理であるにもかかわらず、常・一・主・宰の我であると錯誤し執着して迷っている相が我癡といわれるのです。

 「其の無明の相は『瑜伽』第十と及び『縁起経』と『対法』第一と第四と『顕揚』第一と等に解せり。並びに無明に不共無明を相摂すること等は、下の証の中に説くが如し。」(『述記』第五本・三十四右)

 無明ですが、第七識相応の無明は恒行不共無明といわれています。一切の凡夫において無始のときよりこのかた、恒に働きつづけているので恒行と。第七末那識と倶に働き、他の煩悩とは共に働かないので不共と、独自のということです。また根本煩悩と相応して働く無明を相応無明といい、第六意識と相応して働き、根本煩悩と相応せずに働くのを独行不共無明といいます。

 余談になりますが、昨日のブログに近況を書き込みました。その中で僕に対して揺さぶりをかけてくるわけです。この揺さぶりをかけてくると思い込んでいる心が無明なのでしょうね。揺さぶられると困るという心が根っこにあるわけです。必死になってしがみついている執着心です。これが「我の相に愚かであり無我の理に迷う」ている相なのでしょうね。根本に無明がある。「無明ハ、又癡トナヅク、万ノ事物ノ理ニクラキ心ナリ。」(『二巻抄』)と。「クラキ心」は、『論』では「理と事とのうえに迷闇」であり、「無癡を障へて一切の雑染を所依」とするといわれています。一切の雑染は、汚れた心(煩悩)と、汚れた心によって起こす行為と、それによってもたらされる自己存在であり、これをもたらす根本の原因が無明なのですね。ですから十二支縁起のなかでも一番最初に無明がおかれているわけです。末那識に起こるのは倶生起です。第六識と相応して起こるものは分別起といわれています。倶生起ですから考える以前です。存在以前の煩悩ですね。安田先生は「ontisch(存在的)な意味の煩悩でなく、ontologisch(存在論的)な意味での煩悩である。」と教えてくださいます。倶生起の煩悩、これは末那識独自の煩悩であって、「我」の字が冠についているのです。阿頼耶識の見分を錯誤して我と執して我見を起こすわけです。「我見とは、謂く我執ぞ」と。我見とは我執のことである。第七識相応の我見は倶生起の恒相続のものであるということです。

 安田先生は、次のように語られます。(『選集』巻三p58~p62)

 「見というのは、我でないものを我とする。その我としたものを愛する。誇り慢し貪着する。我でないものを我とする見が、正しく我執である。我でないものを我とする場合に、なぜ我とするかというと理由がない。我とする道理のあるものを我とするなら正見であるが、我とする理由は無い。しかし、事情はある。阿頼耶識があるからである。だが、我とせねばならぬ理由はない。」

 「見とは顚倒である。見とは逆立ちするもの、我でないものを我とする。その顚倒の根拠が無明である。・・・・・・とにかく、無明は煩悩の一つであるが、他の煩悩に対して独特の意義をもつのは、煩悩の基礎となるという点である。積極的なものの基礎づけ、基礎づけられぬ基礎づけ、それが無明というものである。・・・・・・」

  

 

 


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