唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

 八識倶転 ・八識一異について (1)

2010-12-29 16:33:51 | 八識倶転・八識一異

Shinran61_4   吉水における 「信不退・行不退の図」

 「聖人 親鸞 のたまわく、いにしえ我が本師聖人の御前に、聖信房、勢観房、念仏房已下の人々おおかりし時、はかりなき諍論をし侍る事ありき。そのゆえは「聖人 源空 の御信心と、善信が信心といささかもかわるところあるべからず、ただ一なり」と申したりしに、このひとびととがめていわく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるる事いわれなし。いかでかひとしかるべき」と。善信申して云わく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆえは、深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおおけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、一たび他力信心のことわりをうけ給わりしよりこのかた、まったくわたくしなし。しかれば、聖人の御信心も、他力よりたまわらせたまう、善信が信心も他力なり。かるがゆえにひとしくしてかわるところなし、と申すなり」と、申し侍りしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまわく、「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず。信心のかわりおうておわしまさん人々は、わがまいらん浄土へはよもまいらせたまわじ。よくよくこころえらるべき事なり」と云々 ここに、めんめんしたをまき、くちをとじてやみにけり 。」(『本願寺聖人伝絵」 真聖p729~730)Shinran7_3

     吉水に於ける 「信心諍論の図」

 「法然はひと息いれて、おだやかな口調で範宴にたずねた。

「わたしは日々つねに念仏を口にとなえて暮らしておる。その法然の念仏と、そなたがとなえる念仏とは、はたしてちがうところがあるであろうか。それとも同じ念仏として、変わるところがないのか。どうじゃ」

 範宴はしばらく考えた。遵西や蓮空の視線が針のように突き刺さってくる。そして、いった。

「同じ念仏でございましょう。すこしも変わるところはないと思います」

「なんと―」

 蓮空が怒りの声をあげた。遵西は呆れはてたといわんばかりに唇をゆがめ、首をふっている。

「安楽房は、この範宴の意見をどう思う?」

 法然がきいた。遵西は言下に答えた。

「とんでもない思いあがりでございます。反論する気もありません」

「よくそのようなことを」

 と、よこで蓮空がけもののような唸り声をあげた。

「我慢ももうこれまでじゃ」

 いきなりとびかかった蓮空の拳が、固い石のように範宴の顔を連打した。

「やめよ、蓮空」

 法然の声が厳しくひびいた。さきほどまでのおだやかな声とはまったくちがう、戦場の武者頭のような野太い声だった。

「わたしの念仏も、範宴の念仏も、そして蓮空や遵西のなんぶつも、ここにあつまるすべての人びとの念仏も、すべてみ仏とのご縁によってうまれる念仏じゃ。阿弥陀如来からたまわった念仏であることに変わりはない。そう思えば、この法然房源空の念仏も、そなたたちの念仏も、まったく同じ念仏であろう。範宴とやら、よう答えた。きょうからそなたを、この法然の仲間の一人として吉水に迎えよう。よいか」

 いま自分は、はじめて本当の師とめぐりあったのだ、と範宴は思った。」  (五木寛之著 『親鸞』巻下 p61~62より ・ 講談社刊)

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 八識倶転 ・ 八識一異 について 

      ―  八識倶転(1) 倶転を明かす ―

 「是の故に八識は一切の有情に於て心と末那と二は恒に倶転す。若し第六起るときには則ち三いい倶転す。余は縁の合するに随て一より五に至るまでを起すときには則ち四いい倶転し乃至八いい倶なり。是を略して識の倶転する義を説くと謂う。」(『論』第七・十六左)

 (意訳) このようなわけで、八識はすべての有情にに於いて倶に動いている。阿頼耶識と末那識は恒に倶転する。マナーという我執の心は、ときどき動くのではなく、恒に動いている。阿頼耶識を依り所として動いていく。若し第六意識が起こる時には、阿頼耶識と末那識とが一緒に動く。余(前五識)は縁に依り一つが動くときも有り、全部が動くときもある。それは縁によって違う。そして阿頼耶識と末那識の二つはいつも有る。則ち阿頼耶識と末那識と第六意識と前五識のいずれかが、起きている時には動いているわけですから、四つは必ず動いていることになります。それが倶に動いていく。これを略して識の倶転する意義を説くのである。

 「述曰。 五十一と七十六とに説けるが如し。上来、すでに三能変の本頌を解しおわる。 自下、第二に総じて分別をなす。 中において三あり。一に倶転を明かし、ニに問答分別、 三に一異の分別、これは即ち初なり。六の倶なることを弁ずるに因んで、八の倶転を説くなり。」(『述記』第七本・九十左)

 表層の六識は深層の識と深く重層的に関わって動いていくわけですね。「面は菩薩の如く、内心夜叉の如し」と云われることがあります。内なる自己を見つめていく。そこに六識ではわからないこと、六識を動かしている深層の働きが恒に倶に動いている。そこに人格が形成されていくわけです。道元禅師は「仏道をならうというは自己をならうなり」(『正法眼蔵/現成公案』)といわれています。「仏道を学ぶということは自己を学ぶことである。自己を学ぶということは自己をわすれることである。自己を忘れるということは、総てのものごとが自然に明らかになることである。総てのものごとが自然に明らかになるということは、自分をも他人をも解脱させることである。悟りのあとかたさえ残さないのである。そのことをいい現わして行くのである。」と。真実の自己に出会うことが他者をして他者を生かすことなのですね。親鸞聖人がいわれる「自信教人信」のまことをつくすこと、これが聞法の課題ですね。自己を知る自信力を得ることが仏道、仏教を学んで他者を知るのではありません。自分を知る、このことが八識倶転で教えられているのではないでしょうかね。

       

                                                                                     


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