老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

現憲法の基本理念(国民主権、平和、人権)の視点で「世直し」を志す「護憲+」メンバーのメッセージ

庶民の生活、今昔

2007-12-31 14:55:41 | 暮らし
八十年も生きていると、本当にいろいろなことがありましたが、特に十五年戦争の前と後では、庶民の暮らしも劇的な変化をとげました。思いつくままに書いてみたいとおもいます。

私の家は下層の中間あたり、それなのに教育だけは受けさせたという変な家です。ですから、上流あるいは中流の生活にはあてはまらないかもしれません。全体として言えば、電化製品は一切なかった。瓦斯も水道も来ていない家が多かった。(これは、大きな都市ではあったようですが。)

庶民の日常生活、水は井戸から汲む・・・よく子供が手伝わされた。お風呂をいっぱいにするのは大変だった。お風呂がない家も多く、銭湯にいった。ご飯はかまどで、薪で炊き、七輪に炭を起こして煮炊きする。練炭火鉢というのもあった。
                      
食事は一汁一菜に漬物、我が家は海に近かったせいもあり魚は食べたが、お刺身、とんかつ、ビフテキなどは見たこともなかった。

暖房は火鉢と炬燵。炭のほかに炭団とか豆炭も使った。炬燵ももちろん小さな火入れに炭団や炭を中にいれる。アイロンも中は炭。学校の暖房は石炭ストーブ。洗濯はたらいに洗濯板で。たいてい井戸端で。長屋の共同井戸では井戸端会議など。
                      
大人は大体和服で、家で洗い張りして縫った。裁ち板、くけ台などを使った。私の少し上ぐらいから子供は洋服を着るようになった。まずベッドなどはなく、畳に布団を敷いて寝る。ズボンやひだスカートは布団の下にしいて寝押しした。硬くなった布団は布は家で洗い、布団屋で綿を打ち直して、綿埃を浴びながら作り直した。
 
病気の時は開業医にかかる。午前は宅診、午後はいかれない患者のために往診してくれた。お産は家でお産婆さんがとりあげた。

トイレはお便所といって、汲み取り式。戦中などはちり紙がなく新聞紙を使った。お百姓さんが汲み取って行き、肥料に使った。肥桶、肥溜めなどがあった。   

電話はなく、急用は電報だった。庶民が簡単に電話を引けるようになったのは、昭和40年代半ばだったとおもう。裕福な家には冷蔵庫があったが、氷でひやすもの。毎日?氷屋さんが氷を配達していた。自家用車(と言いました)は30年代半ば。マイカーなどといった。「あんたのマイカー」などという変な言葉がはやった。        

思い浮かぶままに並べましたが、間に戦争があり、その間はもっともっとひどい生活でしたがここではふれません。

戦後に徐々に電化製品が普及し、生活は一変しましたが、そのほかにとても重大な変化として、ビニールとプラスチックの出現があります。あるのが当たり前の生活では感じませんが、とくにビニールが日常の買い物にとどまらず、農業、建築その他に果たしている役割にいまさら思い当りました。

「護憲+BBS」「メンバーの今日の、今週の、今月のひとこと」より
松林

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