1,前回の続きから
前回投稿では、国民概念(憲法10条)の外延の問題点を批判的に検証して来たが、この国の学問も劣化が甚だしい。そして、それは国民の人権規定(総論としての13条以下)の「内実」にも明確に現れている。
研究者としては、学会の怠慢を見過ごすことはできないので、本稿で指摘して、読者の反響を聞きたい(一人でも可だ)。
結論を先取りするが、人権の享有主体である、国民個人にとって、例えば生存権(社会権の根幹規定だ)の行使を行えば、必ず親族(主に両親と兄弟)の援助が可能であるかを確認してから、生存権の請求(生活保護の申請)をしてくれ、と通知がくるだろう。
つまり、憲法の13条及び25条の規定は、生活保護規定と関連法規である民法877条;扶養の義務:が優先されることになっている。
この人権規定の内実から、憲法規定は行政実務と法令規定によって拘束されていることが分かるのである。
2,「憲法、人権規定の実現法制とその実態はどうなっているのか」
これが本稿のライトモチーフとしての論点である。
つまり、行政の法令規定と実務では、生存権などの人権規定は憲法13条の定める次の規定の基本的部分は依拠されていないことが観取できる。
「すべて国民は個人として尊重される。(中略)国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。
この総論規定から分かることは、憲法が国民に保障する人権規定は、どこまでも「個人の尊重」原理に立っているということだ。これに例外は「公共の福祉に反しない限り」という原理のみである。
民法規定の「扶養義務」の政府の要求がこの「例外」に属するとは思えないのである。(この論証は次回に譲る)。
つまり、最高法規である憲法では、個人の尊重がすべてであり、民法原則である、家族主義;民法の親族法の原理である「親族」規定の725条等に基づくものとは言えないのである。
私は憲法規定が生存権及び実現法制の生活保護法の基準となる個人主義に依拠するべきと考えている。
それに対して、政府の解釈は全く違う「原理」に依拠している。つまり、憲法ではなく、旧民法(法改正は戦後一部のみに止まった)と現行の家族法の「家族主義」に依拠しているのである。
これは、「個人の尊重」を原理とする憲法原則である個人主義ではなく、家族主義を戦前から継承してきたと判断できる。
実際に憲法の戦後史(憲法判例など)を俯瞰するなら明らかだ。
代表的な事案として、『朝日訴訟』を一部のみ引用するなら、朝日茂さんが療養所(サナトリウム)から、憲法裁判を提起した後に、行政官は朝日茂さんの兄を探し出して(行方不明であったとされている)、兄に扶養義務の履行を命じて、かなりの金額を生活給付の一部にしている。それにもかかわらず、最高裁は、原告敗訴の判決を出したのである。
今回投稿では論点が十分に論証できておらず、「続き」は次回に譲る。
「護憲+コラム」より
名無しの探偵
前回投稿では、国民概念(憲法10条)の外延の問題点を批判的に検証して来たが、この国の学問も劣化が甚だしい。そして、それは国民の人権規定(総論としての13条以下)の「内実」にも明確に現れている。
研究者としては、学会の怠慢を見過ごすことはできないので、本稿で指摘して、読者の反響を聞きたい(一人でも可だ)。
結論を先取りするが、人権の享有主体である、国民個人にとって、例えば生存権(社会権の根幹規定だ)の行使を行えば、必ず親族(主に両親と兄弟)の援助が可能であるかを確認してから、生存権の請求(生活保護の申請)をしてくれ、と通知がくるだろう。
つまり、憲法の13条及び25条の規定は、生活保護規定と関連法規である民法877条;扶養の義務:が優先されることになっている。
この人権規定の内実から、憲法規定は行政実務と法令規定によって拘束されていることが分かるのである。
2,「憲法、人権規定の実現法制とその実態はどうなっているのか」
これが本稿のライトモチーフとしての論点である。
つまり、行政の法令規定と実務では、生存権などの人権規定は憲法13条の定める次の規定の基本的部分は依拠されていないことが観取できる。
「すべて国民は個人として尊重される。(中略)国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」。
この総論規定から分かることは、憲法が国民に保障する人権規定は、どこまでも「個人の尊重」原理に立っているということだ。これに例外は「公共の福祉に反しない限り」という原理のみである。
民法規定の「扶養義務」の政府の要求がこの「例外」に属するとは思えないのである。(この論証は次回に譲る)。
つまり、最高法規である憲法では、個人の尊重がすべてであり、民法原則である、家族主義;民法の親族法の原理である「親族」規定の725条等に基づくものとは言えないのである。
私は憲法規定が生存権及び実現法制の生活保護法の基準となる個人主義に依拠するべきと考えている。
それに対して、政府の解釈は全く違う「原理」に依拠している。つまり、憲法ではなく、旧民法(法改正は戦後一部のみに止まった)と現行の家族法の「家族主義」に依拠しているのである。
これは、「個人の尊重」を原理とする憲法原則である個人主義ではなく、家族主義を戦前から継承してきたと判断できる。
実際に憲法の戦後史(憲法判例など)を俯瞰するなら明らかだ。
代表的な事案として、『朝日訴訟』を一部のみ引用するなら、朝日茂さんが療養所(サナトリウム)から、憲法裁判を提起した後に、行政官は朝日茂さんの兄を探し出して(行方不明であったとされている)、兄に扶養義務の履行を命じて、かなりの金額を生活給付の一部にしている。それにもかかわらず、最高裁は、原告敗訴の判決を出したのである。
今回投稿では論点が十分に論証できておらず、「続き」は次回に譲る。
「護憲+コラム」より
名無しの探偵