地元紙に<時標>という署名入りの囲み欄があり、今朝は、「時限立法化で’悪法なくせ’」と題して、早稲田大学国際教養学部教授の池田清彦という方が一文を寄せている。
東京教育大理学部卒で、専攻は理論生物学と紹介されているから、こういう分野についての発言は、世間一般の人たちが折々交わす述懐レベルのことであるかも知れぬ。だが、指摘の二点はいずれも肯えるもののように思える。
指摘の一は、国民には本当のことを知らせず、もしそれが明らかになったときは、嵐が過ぎるのを待つようにじっと我慢して、ほとぼりの冷めた頃に選挙をし、後はまたやり放題。国民がバカだと言えばそれまでだが、これはマスコミが責任を果たしていないからだ。
その二は、政策の誤りを修正する仕組みが欠如しているから、いったん法律が出来てしまうと、それに基づく不合理・不経済も改められない。そのためには、法律はすべて時限立法とすれば、その時点で少なくとも議論にはなる。
このような記事をわざわざ紹介いたしたのは、実は恥ずかしながら我田引水のためのものなのです。死刑制度の存廃、無期刑の在り方、終身刑制度導入の当否についてのご意見を拝読させていただいて感じたことにオーバーラップする指摘でもあると思うからです。
申すまでもないことですが、法律が出来るには「背景」があります。いま取り上げられている「刑法」は、全面改正の検討もあり、また、時宜に応じ所要の改正も行はれてきているとはいえ、これは明治時代に制定されたものです。その時代という背景は、現在においては 本来ならばとうに捨て去られてしかるべき代物、「国家刑罰権」などという言辞をもってその淵源とするなどは、「全てを時限立法に」という仕組みが取り入れられていたならば、有無を言わさず見直されていたと思うのです。
「支配」から「構成員個々人の安寧保持」へと、仕組み・発想は変貌していなければならぬ。民主主義社会の根本は、「人の上にも下にも人なし」だと思います。「法律」は「個々人からの社会への限定授権」であり、天与のものであるかのごとき「国家刑罰権」という「権力規定」自体、夙に降壇していてしかるべきものだと考えます。
罪を犯すということは、悲しいことです。多種多様な罪があり、犯したと言う自覚なしに通り過ぎてしまうものから、生涯解き放たれることなくその責め苦を負い続けなければならないほどのものまで、また、微罪であっても打ちひしがれる者、真似も出来ぬ大罪であっても平然として罪を免れようと画策する者など、人もまたさまざまです。
そして、それらを前にすることの悲しさ・やりきれなさは、普通の感性を持つ人たちの共有するものでありましょう。人を裁き、当事者・社会の納得を得る、その至難さが 裁判員制度という仕組みによってお茶の間に入り込んでくる。これから逃れるすべは、一に「犯罪のない社会から」なのですが、「刑務所」までがビジネスチャンスと捉えられる昨今では、何たる寝言と言われるのがオチとしたものなのかと、苦笑するばかりです。
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
百山
東京教育大理学部卒で、専攻は理論生物学と紹介されているから、こういう分野についての発言は、世間一般の人たちが折々交わす述懐レベルのことであるかも知れぬ。だが、指摘の二点はいずれも肯えるもののように思える。
指摘の一は、国民には本当のことを知らせず、もしそれが明らかになったときは、嵐が過ぎるのを待つようにじっと我慢して、ほとぼりの冷めた頃に選挙をし、後はまたやり放題。国民がバカだと言えばそれまでだが、これはマスコミが責任を果たしていないからだ。
その二は、政策の誤りを修正する仕組みが欠如しているから、いったん法律が出来てしまうと、それに基づく不合理・不経済も改められない。そのためには、法律はすべて時限立法とすれば、その時点で少なくとも議論にはなる。
このような記事をわざわざ紹介いたしたのは、実は恥ずかしながら我田引水のためのものなのです。死刑制度の存廃、無期刑の在り方、終身刑制度導入の当否についてのご意見を拝読させていただいて感じたことにオーバーラップする指摘でもあると思うからです。
申すまでもないことですが、法律が出来るには「背景」があります。いま取り上げられている「刑法」は、全面改正の検討もあり、また、時宜に応じ所要の改正も行はれてきているとはいえ、これは明治時代に制定されたものです。その時代という背景は、現在においては 本来ならばとうに捨て去られてしかるべき代物、「国家刑罰権」などという言辞をもってその淵源とするなどは、「全てを時限立法に」という仕組みが取り入れられていたならば、有無を言わさず見直されていたと思うのです。
「支配」から「構成員個々人の安寧保持」へと、仕組み・発想は変貌していなければならぬ。民主主義社会の根本は、「人の上にも下にも人なし」だと思います。「法律」は「個々人からの社会への限定授権」であり、天与のものであるかのごとき「国家刑罰権」という「権力規定」自体、夙に降壇していてしかるべきものだと考えます。
罪を犯すということは、悲しいことです。多種多様な罪があり、犯したと言う自覚なしに通り過ぎてしまうものから、生涯解き放たれることなくその責め苦を負い続けなければならないほどのものまで、また、微罪であっても打ちひしがれる者、真似も出来ぬ大罪であっても平然として罪を免れようと画策する者など、人もまたさまざまです。
そして、それらを前にすることの悲しさ・やりきれなさは、普通の感性を持つ人たちの共有するものでありましょう。人を裁き、当事者・社会の納得を得る、その至難さが 裁判員制度という仕組みによってお茶の間に入り込んでくる。これから逃れるすべは、一に「犯罪のない社会から」なのですが、「刑務所」までがビジネスチャンスと捉えられる昨今では、何たる寝言と言われるのがオチとしたものなのかと、苦笑するばかりです。
「護憲+BBS」「新聞記事などの紹介」より
百山