デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



料理用の食材だと思っていた…

ワット・ラカンを出てから、チャオプラヤ川の東へ渡ろうと思い船着き場まで行こうとした。その途中、小魚や海老や亀などが透明のバケツや盥に生きている形で売られていたので、レストランで買われる活きのいい食材はこういったところで売られているんだなと、その時は思っていた。
しかし、その考えが間違っていることに気づいたのは帰国してからであった。タイを特集した番組を見ていたとき、映像に映った現地の人が「これ(生きた海老)は逃がすために買うんだ」と言っていて、リポーターが「なんのために?」ときわめて素朴にたずねる場面があった。現地の人は「仏教の教えで生きているものを自然に返す徳を積むと、自分の将来に御利益があるんですよ」と当たり前のように答えた。
ようするに命奪われる運命にある生き物に慈悲を掛け、生命そのものを尊重しようという教えであり、生き物を逃がして命を救うことを徳とする考え方なのだ。こういう徳を積む行為を放生(ほうじょう)という。


たくさんの徳を積むにはたくさんの生き物を買って放生する

ワット・ラカンは放生で徳を積む寺であることを知ったのは上記の通り帰国後であった。いまならば上の画像の左に写っている「値段表」の意味が少し理解できるような気がする。kgあたりいくら?などという表示がないのはそのためだったのだ。


船着場へ


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