デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 







画面奥からこちらに向かって進軍して
きた家康軍が桃配山に陣を敷いた…。

個人的に興味を覚えるのは、三枚目の個所から望む中山道である。関ヶ原の戦いについてはさまざまなサイトに詳しく触れられているので私からは戦に至るできごとには触れない。
ただ個人的には、桃配山を見下ろせる南宮山に陣を敷いた毛利秀元の目の前を悠々と横切ってから家康軍が桃配山に陣を敷いたという史実には注目している。家康軍が関ヶ原に着く前から、家康は毛利軍の吉川広家や安国寺恵瓊に対しての調略をしかけて毛利軍を動けなくしたというのが史料から推察されるようだが、もし事前に毛利輝元から「家康が何を言って来ようが隙あらば家康軍を壊滅するよう厳命」されていたならば、桃配山に家康が陣を敷く前に家康は毛利軍に襲い掛かられひとたまりも無かったことだろう。また桃配山に陣を敷いても南宮山から襲われたらダメージは計り知れず、戦どころではなくなる。
この点についてはNHK BSで関ヶ原の戦いを毛利側から検証した番組でも言っていた。天下が目の前を歩いていたが、チャンスを生かしきれなった、ダイナミズムに乗るための決断を自ら躊躇し二の足を踏んだことで、毛利氏は幕末まで辛酸を嘗めさせられ続ける。しかし苦汁を飲みつづけたことで藩内の藩政を工夫する力が生じ、工夫された藩政の土壌から幕末から明治にかけて活躍する人物が輩出されるのである。


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