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デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



7月下旬に読み終えていた『春の戴冠』だが、読み終えた直後は興奮が収まらず、今になって少しばかり落ち着いてきたので感想を書きたくなった。豊かな表現力を持ち合わせない私が『春の戴冠』について書くのはおこがましい気もする。とにかく、参ったなぁ、とんでもない小説を読んでしまった、今の私にとっては今年に読んだもしくは年末までに読むかもしれない小説の中で一番であろうことを、本能的に感じつつ茫然自失状態で書くので、この記事がろくでもないものになる気がする。
今にして思うのだが『春の戴冠』を手がける10年ほど前、若桑みどり著『フィレンツェ―世界の都市と物語』や、7年前に読んだサラ・デュナント作『地上のヴィーナス』、その他画集の解説などを読んでおいてよかったと思う。これらの書による感銘がなければ『春の戴冠』をコンスタントに読み進めることはできなかったろう。
『春の戴冠』はイタリア・ルネサンスに関心のある方、かつて熱狂したことがある方、実際にフィレンツェの町を歩いたことのある方には、ぜひともおすすめしたい小説であることは間違いない。
辻氏はフィレンツェに興奮したことを書き残しているが、その興奮を読者は共感できるのではないだろうか。作品に出てくる人物たちとフィレンツェの町並や15世紀のフィレンツェの雰囲気がよく出ているように感じられてたまらなくなるだろう。
雰囲気がよく出ているのは、きっと作品が単なるボッティチェリ伝にとどまらず、経済が都市の興隆と衰退に及ぼす影響、つまり経済が生活としっかり結びついている描写が作品の語り手フェデリゴ・Pの視点から随所に挿入されているのもその秘密の一つであろう。作品ではその経済の状況がけっして芸術作品と無縁ではないことを察するのにさほど時間を要しないし、都市の活況→経済活動→芸術作品 の発展の相関図がイメージできやすいのだ。さらに、その相関図を成り立たせるための思想的源泉であるフィチーノの哲学の存在が作品をより厚みを帯びたものにしている。作品ではフィレンツェと運命を共にしたボッティチェリが自然とその哲学の恩恵を蒙る描写も少なくない。画家自身による物がもつ美の永遠性の追求とフィチーノ哲学との相互作用から生じる逡巡と止揚は繰り返されるが、苦悶の挙句に得た新境地でもって描かれる作品は青春的性格を持ち、それはフィレンツェの優美な時代を写し留め現代の人間にも永遠性の反映したものと映るのはフィチーノ哲学を介さないとありえなかったと思わせるところも秀逸である。フィレンツェと運命を共にしたボッティチェリのあらゆる側面、作品に魂をこめる姿の描写は「あたかも本当にあったことのよう」と思えるほどである。きっと読者は作者による画家の美を生み出す魂への迫り方に、ただただ驚き舌を巻くのではないだろうか。

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(感想にはつづきがあります)

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