goo blog サービス終了のお知らせ 
デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



魯迅『故郷』を再読。再読といっても訳者は異なる。今回は藤井省三訳で読了。

この作品は今も中学校の教科書に載っているのだろうか…。中学校のころを思い返すと、『故郷』やその授業についての記憶として、コンパスやチャーという単語、有名な最後の文、教科書の『故郷』を教えた国語担当教諭の「九州から出てきて都会でいろいろあったあと帰省したら心が落ち着く、だけど『故郷』の主人公はその点かわいそう」といった恣意的な感想だけが漠然とした印象として残っている。
今回再読してみて、作品は中学校の教科書に載っていてもいいとは思うが、清から大戦前の中華民国までの中国の歴史およびその混迷、地方におけるヒエラルキーの漠然としたイメージを少しも押さえていない中学生の年齢で作品を理解するには到底難しいのではないかと思った。また上記のとおり、教科書を用いて教えた国語担当教諭も『故郷』について読み込んでいたとは思えないし、作品の背景すら把握していなかったように、今にして思う。おそらく『故郷』を、教諭が個人的に帰省先で農作業を手伝い充実した時間を過ごし、旧友と再会し大人になっても身分差など意識する必要もなく「タメ口」で昔話に華を咲かせ抱腹絶倒し懐かしみ、また明日からの生きる活力を得るような自らの「よき思い出」と、作品内のエピソードを無理やりつなげ、つじつまの合わないことを放置したままそれこそしみじみと「人が歩いたところが道になる」などと分かった風に「まとめ」ていたように思う。
もっとも、そういった授業になってしまったのは、教科書に載っていた『故郷』の訳文のせいもあったのかもしれぬ。その点、今回読んだ藤井省三訳の分は、大人になり子をもうけた閏土(ルントウ)も、より歳を重ねたコンパスのおばさんも語り手に対して親近感と身分差が並存している呼びかけ方をしていて、教科書の『故郷』みたいなともすればかつてお互い身分差などなく対等な立場だったと読んでしまいそうになる「理想の故郷」ではないことを、読者が察しやすい分かりやすい訳となっていた。語り手は、帰省した時点では無自覚ではあるが、これからの社会はもっと分け隔てのない良い社会であるべきといった理想を心の奥底に抱くまだ若い大人なのであり、その彼が故郷を引き払うため里帰りして間もないうちに、なんだかんだいっても語り手の家は名家である(あった)ことから、地方の身分差が依然として露骨に存在していることを肌身に感じるのだ。それはコンパスのおばさんだけでなく、少年期の語り手が英雄視していた閏土兄ちゃんが大人になってからとる語り手への恭順の態度・姿勢にも表れる。くりかえすようだが、今回私が手にした『故郷』ではそのことが良く分かる訳になっている。
ラストの道うんぬんは私からは語るまい。ただ、魯迅の小伝を読んでみて、小伝で触れられている魯迅に影響を与えたとされる作品以外に別の作品の影響もあるなと感じた。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )