デカダンとラーニング!?
パソコンの勉強と、西洋絵画や廃墟趣味について思うこと。
 



過去に、人様との付き合い上、無数にある小説にはよい作品も悪い作品もありはしないと、お酒の席で言ったことはあるが、実際のところは、よい作品を知るには一度読んでも読み取れないが何かモヤモヤしたものが頭に残りつづけるような、しかしいつの日か再読するような作品を読むことが必要だろうし、悪い作品を知るには、そういったよい作品を知っていなければならないと思うのである。
私の場合、よい作品は時を置いて再読しないとそのエッセンスが味わえなかったり、その時は読み取れない自分に傷ついてもなお、作品と格闘して読んで自分を作品の高みにいたらせようとするに足る作品である。けっして、作品を自分のレベルに引きずり落として満足するのではなく、作品を理解するのに苦労してなお充実感が得られる作品である。
トーマス・マン『ファウストゥス博士 一友人によって物語られた ドイツの作曲家アードリアーン・レーヴァーキューンの生涯』も、そんな何度も読み込みが必要な手強くも殻の硬い卵のようなおいしい作品であることが、再読してみて初めて分かった。初読のときは何が書かれているかすら分からなかった。作品に出てくる質実剛健で硬質な多くの言葉に対しても再読してなお辞書を何度もひかねばならなかったし、豊かな語彙を用いて即物的にあらゆるものごとを的確に表現しようとする姿勢に、迫力と作者の強力な意志以外のものを感ぜよというほうが無理だ。
例を挙げると、

ああ、わたしの書き方は実にまずい! あらゆることを一時に言おうとする欲求は、わたしの文章を溢れさせ、この文章が本来書きとどめようとした思想から離反させ、文章は散乱して思想を見失うに至らせるのだ。わたしはあえてこの非難を読者の口から先取りして置こうと思う。わたしの観念がこのように次次に殺到しておのれを見失ってしまうのは、今わたしが対象にしている時代の思い出がわたしに掻き立てる昂奮に起因している、それはドイツの権力国家が崩壊した後の、根底からゆさぶられて落ち着きを失った弛緩の時代であった、そしてその弛緩はわたしの思考をもその渦の中に捲き込み、容易に消化できないさまざまの事象をもってわたしの安定した世界観を襲ったのであった。十九世紀を包括するばかりではなく、中世の終焉、スコラ学派による拘束の粉砕、個人の解放、自由の誕生にまで遡る時代、わたしが、本来、広い意味で、わたしの精神的故郷とみなしていた時代、要するに、市民的人文主義の時代が終ったという感情、――全身を耳にして傾聴することを命じるこの感情は、確かに戦争の終結によって初めて生れたのではなく、すでに一九一四年、戦争の勃発とともに生れていたのであって、これがその頃わたしのようなものたちが経験した震撼、運命への恐れの底にあったのである。敗戦による荒廃がこの感情を極端にまで押し進めたのは不思議ではなかった、そして同時に、この感情がドイツのような敗戦国においては戦捷国においてよりも遥かに決定的に人々を支配したことは不思議ではない、戦捷国の平均的な精神状態は、まさしく勝利のゆえに、遥かに保守的だったのである。彼らは、われわれと違って、この戦争を決して深い分断的な歴史の段落とは感じないで、うまい具合に過ぎ去った混乱と考え、これが終った後では生は再び戦前の軌道に戻るものと思っていた。そのためにわたしは彼らを羨ましいと思った。わたしは特にフランスを、勝利によって少なくとも外観上その保守的ブルジョワ的な精神状態に与えられた是認と裁可とのために、そして、勝利によって得られた古典的合理的なものに安住していられるという感情のために羨ましいと思った。確かにあの頃のわたしには国内に住むよりはライン河の向うで暮す方が遥かに快適で気楽であったろう、すでに言ったように、国内ではさまざまな新しいもの、混乱させるもの、不安にならせるものが次々にわたしの世界観に襲いかかって来て、わたしは、良心のために、それと対決しなければならなかったのである。

すでにわたし以前にも、可視性を獲得し個人の本当に精確な像を喚起するためには言葉がいかに無能なものであるかに、いかに多くの作家たちが嘆息したことであろう! 言葉には讃美と賞讃こそがふさわしい、言葉には驚嘆し讃美し祝福し、現象をそれが惹起する感情によって特徴づける力は与えられていないのである。十七年を経た今日なお彼を思い出すと眼に涙がうかび、それと同時に、まことに不思議な、霊気のような、完全にこの世のものというばかりではない明るさに満たされると告白すれば、それによっておそらくわたしは、一つの肖像を描き出そうと試みるよりも、わたしの可愛い対象のために多くのことを遂行したことになるのであろう。


こんな感じなのである(笑)。途中でブラウザを閉じたりする人がいてもおかしくはない。それでなお、

わたしはあえてこの非難を読者の口から先取りして置こうと思う。

などと書いてあるし(笑)。

マンの『ファウストゥス博士』の物語は、ドイツの民衆本『ファウストゥス』を準拠にしていて、ゲーテの『ファウスト』とはあまり関係が無い。いわばマンの『ファウストゥス博士』は発想を民衆本に回帰に求めて、それをパロディ化(私は思い切ってトラヴェスティ(戯翻、こっけい化)といっていいと思う)しているのだが、作品には、偉大な作品は魔的なものが作用していないと作れないのか否かとかいったことや、ルターの役割というのは近代に中世を橋渡したもの、ルターが宗教を改新し蘇生させたことがそれ以降の多くの殺戮や流血を招いたのではないかという見方や、先人が完成させた楽曲の形式を慣例や因襲として捉えそれをイロニーやパロディで打破するところ創造が始まると信じたいものの、それが滑稽なものに甘んじるのではないかという恐れからやってくる苦悩とか、長編でしか書けないありとあらゆることが盛り込まれているのだ。それが一時は神学に身を捧げるアードリアンが悪魔と契りを交わすという物語が下地になっているゆえ、俄然迫力を増しているのである。
さらに『ファウストゥス博士』には、第二次大戦中のドイツが時々刻々と破壊されていく中で執筆されているのである。第二次大戦中のドイツがどのような末路をマンが物語の語り手の筆を借りて、その心痛を綴っているわけだが、それが作中のアードリアーンの作品の性格と第一次大戦のドイツの記述の奇妙な共通点とシンクロしているのである。描かれていることは痛ましいことが多いが、マンがドイツのことを心から愛していたことはよく分かるような内容になっている。
感想を書こうにもなかなか自分の中で的確な言葉が思いつかず、もどかしくなるのは毎度残念なのだが、読むのに苦労しつつも、読んでよかった、またいつの日か読みたいと思う作品であるのは間違いない。

『ファウストゥス博士』についてはまた書くかもしれない。

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