トーマス・マン『ファウストゥス博士』から。
例えば教育学者は今日すでに初等教育の中に、まず綴りと発音とを習得させるのを廃止して、表記法と事物の具象的なイメージとを結びつけて単語を憶えさせる方法に向う傾向があることを知っていた。これはある意味で、抽象的普遍的な、話し言葉に拘束されない表記法の消滅、ある意味で原始人の表記法への逆行を意味するものであった。いったい単語は、綴りは、言語はなんのためにあるのか、とわたしは密かに考えた。極端な即物性は事物に、事物だけに頼るほかないであろう。わたしはスウィフトの諷刺を思い出さずにいられなかった、そこでは改革好きの学者たちが、肺を保護し贅言を言わずにすませるために、言葉を全く廃止して、互いに事物を見せ合うことで意志の疎通をはかろうと決議するのだが、その結果、彼らは皆、理解し合うために、出来るだけたくさんの事物を背負って歩きまわらねばならない羽目に陥るのである。この個所は実に滑稽なのだが、この改革に反抗し言葉でしゃべることに固執するのが、女たち、たち、文盲たちであるために、一層おかしいのである。ところで、わたしの対話者たちはスウィフトの学者たちほど極端な提案をしたわけではなかった。彼らはむしろ距離を置いた観察者のような顔をしていた、そして、時代によって課せられた必然的なと感じられている単純化、意識的な再野蛮化と呼んでもよいような単純化を実現するためにいわゆる文化の諸成果を無造作に放棄しようとする、広くかつすでに明瞭に現われている決意を「疑いもなくきわめて重大なこと」として注目していた。
この箇所はアードリアーンの孤独な作品への(語り手の)関与と相まって、クリトヴィス邸で行われた議論について、語り手に胃をすり減らすような緊張を強いられたものであったと語り手が述べる箇所である。
弊ブログの4度目の「カラマーゾフの兄弟」の読書の記事をご覧になられたかたは、「最新」の翻訳と、専門家のヘンテコ解釈が人口に膾炙する現象について一考するにあたり、上のマンのいっていることが、より理解を深めるために大いに助けになると思うのである。
『ファウストゥス博士』には、作曲において音楽的因習を打開した結果、パロディを飛び越えて原始的回帰に走り、原始の意思疎通の形式を音楽にしたところ、できあがった内容そのものは咆哮でしかないような作品の記述がある。
近年の古典文学を新しい翻訳で、という運動を錦の御旗に掲げた作品の誤訳問題が起きているのは、原文の内容と訳者の日本語表現能力の不一致もさることながら、原始人の表記法への逆行を自ら推奨・迎合しているような専門家の「咆哮」を咆哮のままに、周囲や編集者が放置してしまっていることが、原因なんじゃないか。
この問題は日本語の乱れで片付けられる問題というよりは、誤訳された作品が世に出る前やその直後の周囲(専門家や編集者や大手メディア)が責めを負うべき問題なのだと思う。ひどい翻訳であることを率直に言わない怠慢によって生じるつけを払わされるのは、おそらく出版界自身と読者なのだ。
わたしは一度「しばらく真面目になってみてはいかがでしょう」と提案した、真理は、苦い真理すら、間接的にではあるが長い間には、真理の犠牲において共同体に奉仕しようとする思想よりも、共同体にとって役立つのであって、真理を否定する思想は実際には真の共同体の根柢を内側からこの上なく無気味に崩壊させるのだから、共同体の危機を深く憂慮する思想家は、共同体ではなく、真理を目標とした方がよいのではなかろうかということを、しばらく真面目に考えてみようと言ったのである。しかしわたしは生涯においてこれほど完全になんの反響もなく黙殺された言葉を言ったことがない。
(トーマス・マン『ファウストゥス博士』)
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