ギュスターヴ・モロー《ヘシオドスとムーサ》
この記事を書くために読んだ参考図書には1892年3月9日に開かれた第一回薔薇十字展の憲章(審査基準)というものが載っていて、それを読むと考え込んでしまったのである。審査基準の詳細は省くが
「ここには1874年の第1回展以来,激しい非難を浴びせられつつも,徐々に力強く市民権を獲得しつつあった印象派の絵画傾向に対する強い反発と,伝統遵守(じゅんしゅ)に安住して本来の精神性を失っているように思われるアカデミスムへの批判の両方がはっきりと現れている。」
世界美術大全集 西洋編 24
という文章を見たとき、偏屈なまでに古典を賞賛してしまうときがある私にとっては大変困った?ことが書かれていると思った。
私は、ただの不勉強でやたらめったらむちゃくちゃに描いたものが、現代からすれば「歴史」や「権威」になってしまっててほしくないという思いが強い。ようするに、19世紀末の象徴主義絵画や幻想美術を描く画家がアカデミーや印象派を踏まえたものであって欲しいのである。(世の中、単純な二項対立的なもので片付けられるものはないことは頭では分かっていても、型があっての型破りという言葉を自分の都合のいいときだけ好んで使う、なんと浅ましい(笑))。
ここまで強く思うのは、ギュスターヴ・モローという画家が私にとって大きい存在だからである。
ギュスターヴ・モロー(1826-1898)は、新古典主義の流れをくむピコという画家のアトリエに学んだが、ドラクロワの情熱的なロマン主義の画風に引かれ、ドラクロワの色とアングル線を統合する逸材とされたテオドール・シャセリオーの壁画に感激した。モローはシャセリオーに私淑するが、シャセリオーは1856年に早世してしまう。その翌年、モローはドガなどと交流したイタリアへ2年間の留学に出、留学後もさらに研鑽を積んで、独自のスタイルの模索する。
今日はここまで。つづく。
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