西本願寺は、京都駅の北西部に位置します。創建当初からこの地にあったわけではなく、発祥は、宗祖親鸞聖人入滅後、末娘の覚信尼が文永9(1272)年に、東山区林下町(知恩院三門北の崇泰院あたり)に廟堂を営み、遺骨を安置したのが始まりだとされています。その後、各地を転々とするのですが、天正19(1591)年、豊臣秀吉より現在の寺地の寄進を受け、移転してから以後は、この地にとどまっています。徳川の時代になり、東西に分けられ、以降は西本願寺と呼ばれるようになっています。
戦国時代には、一向宗と呼ばれ、時代の権力者と激しく抗争していました。織田信長との抗争は壮絶だったようです。
本願寺境内には桃山文化を代表する建造物や庭園が多く残されており、境内は史跡に指定されています。また、平成6(1994)年12月には、古都京都の文化財の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。建物の配置と構造は真宗建築の典型で、親鸞聖人像が安置されている御影堂(ごえいどう)が本堂よりも大きく造られています。
おさかなの家は、浄土真宗本願寺派の末寺の檀家になるので、まさしくここが本山っちゅうことになるのですが。。。
寺域と堀川通りを挟んだ向かい側に建っているのが、総門です。道の一部となっています。総門をくぐって東へ向かう通りには、仏具屋さんが多く並んでいます。
阿弥陀堂門です。桃山時代の雰囲気を残した唐門です。
阿弥陀堂(本堂)です。この建物は重要文化財で、宝暦10(1760)年に再建されたものです。東西42メートル、南北45メートル、高さ25メートルの大きな建物です。
こちらは、御影堂です。この建物も重要文化財に指定されています。寛永13年(1636)に建立。東西48メートル、南北62メートル、高さ29メートル。阿弥陀堂より一回り大きな建物です。現在改修中で中に入ることはできなかったのが残念。今年の暮れまでかかるようです。
経蔵です。「一切経(大蔵経)」を納めています。
下の写真は、太鼓楼です。幕末の頃、壬生に屯所をかまえていた新選組が隊員の増加により壬生では手狭になり、本願寺の屯所を移動しました。その際、この太鼓楼を集会所として使用していたそうです。
本願寺には、『飛雲閣』『書院』『能舞台』など国宝建築が沢山あるのですが、基本的に非公開なので、目にすることが出来ず残念です。
◆『本願寺(西本願寺)』詳細データ
住 所:京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町60番地
宗 派:浄土真宗本願寺派本山
本 尊:阿弥陀如来
創建年:文永9(1272)年
開 基:覚信尼
戦国時代には、一向宗と呼ばれ、時代の権力者と激しく抗争していました。織田信長との抗争は壮絶だったようです。
本願寺境内には桃山文化を代表する建造物や庭園が多く残されており、境内は史跡に指定されています。また、平成6(1994)年12月には、古都京都の文化財の一部としてユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。建物の配置と構造は真宗建築の典型で、親鸞聖人像が安置されている御影堂(ごえいどう)が本堂よりも大きく造られています。
おさかなの家は、浄土真宗本願寺派の末寺の檀家になるので、まさしくここが本山っちゅうことになるのですが。。。
寺域と堀川通りを挟んだ向かい側に建っているのが、総門です。道の一部となっています。総門をくぐって東へ向かう通りには、仏具屋さんが多く並んでいます。
阿弥陀堂門です。桃山時代の雰囲気を残した唐門です。
阿弥陀堂(本堂)です。この建物は重要文化財で、宝暦10(1760)年に再建されたものです。東西42メートル、南北45メートル、高さ25メートルの大きな建物です。
こちらは、御影堂です。この建物も重要文化財に指定されています。寛永13年(1636)に建立。東西48メートル、南北62メートル、高さ29メートル。阿弥陀堂より一回り大きな建物です。現在改修中で中に入ることはできなかったのが残念。今年の暮れまでかかるようです。
経蔵です。「一切経(大蔵経)」を納めています。
下の写真は、太鼓楼です。幕末の頃、壬生に屯所をかまえていた新選組が隊員の増加により壬生では手狭になり、本願寺の屯所を移動しました。その際、この太鼓楼を集会所として使用していたそうです。
本願寺には、『飛雲閣』『書院』『能舞台』など国宝建築が沢山あるのですが、基本的に非公開なので、目にすることが出来ず残念です。
◆『本願寺(西本願寺)』詳細データ
住 所:京都府京都市下京区堀川通花屋町下ル本願寺門前町60番地
宗 派:浄土真宗本願寺派本山
本 尊:阿弥陀如来
創建年:文永9(1272)年
開 基:覚信尼
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