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讃留霊王神社【香川県丸亀市[旧飯山町]】

2017年01月27日 23時14分36秒 | 神社仏閣
 丸亀市飯山町下法軍寺に『讃留霊王神社(さるれおじんじゃ)』と呼ばれる小さな神社があります。祭神は武殻王(たけかいこおう)です。
 武殻王は何者かというと、日本武尊(やまとたけるのみこと)の息子になるそうです。その武殻王が讃岐を支配し、讃留霊王と呼ばれるようになります。
 本殿の横からとった写真ですが、本殿後方に古墳があるのがわかると思います。その古墳が讃留霊王です。


 本殿は、後方にも扉があって、扉を開けることで、古墳をご神体として祀る形式になっているようです。


 香川県には数多くの古墳がありますが、被葬者が分かっているものは少ないようです。

 でも『讃留霊王』のことは知らない方が多いと思います。わたしもこの神社に行くまでは知らなかったです。以下に讃留霊王伝説を転載します。

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 西暦九十二年景行天皇の頃、土佐の海にエビのような姿の大魚が現れて、船や人を飲み込み、暴れていました。それを知った景行天皇は日本武尊(やまとたけるのみこと)にその悪魚退治を命じましたが、日本武尊は自分の息子の霊子(武殻王・たけかいこおう)にその役目を命じるように天皇に進めます。悪魚退治を命じられた武殻王はさっそく土佐に向かいますが 、大魚は讃岐の国へ移動していました。大魚を追いかけて讃岐にやってきた武殻王は、船を作り兵士を集め、いよいよ大魚との戦いが始まりました。しかし大海を自由に泳ぎ回る大魚に、ついに武殻王ののった軍船は飲み込まれてしまいます。大魚の腹の中で魚の毒気にあてられてぐったりしている兵士達の中、武殻王だけは元気で、何とか大魚の腹の中から脱出する術を考えます。そして火をたくことを思い付き、火に焼かれてもがき苦しむ大魚の腹を切り裂いて、ついに脱出に成功します。武殻王の乗った大魚の死骸は福江の浜(坂出市福江町)に流れ着きました。しかし兵士達は皆魚の毒気により、半死半生です。そこへかめに入ったきれいな水を持った子供があらわれ、武殻王に差し出しました。武殻王はそれを飲んでみて、その甘くておいしいことに驚きました。武殻王はその水を兵士達にも飲ます為に、その水のある場所に案内してもらいました。そして兵士達は皆その水を飲んで元気を取り戻したのでした。武殻王に水を持ってきたのは、横潮明神という神様で、兵士達80人が蘇ったということで、その清水は八十場(八十蘇)の清水と名付けられました。大魚の亡骸は魚御堂をたてて供養しました。
 さて景行天皇に大魚退治を認められた武殻王は、褒美として、讃岐の土地を与えられ、城山に館を構え、讃留霊王となります。つまり讃岐に留まる霊王という意味です。
 晩年、海の見える館に住むことがいやになった讃留霊王は、城山から矢を放って、海の見えない新しく館をたてる場所を探します。矢が突きたったのは、東に城山、南に象頭山の山並、西に善通寺の山々、北に飯野山のある、広々とした、讃岐平野の真ん中でした。しかし矢の突きたったところはまだかすかに海が見えていました。そこでその矢の突きたった場所から少し北によった所に新しい館を構えることにしました。その場所は古代寺院法勲寺跡と伝えられています。
 矢の突きたった石はその後は矢塚と呼ばれ、大切にお祀りされました。しかし現在は道路拡張工事の為、矢塚は讃留霊王神社境内に移されています。
 その後、讃留霊王は百二十四歳まで長生きし、その亡骸は現讃留霊王神社境内にある讃留霊王古墳におさめられたといわれています。 讃留霊王神社ではその古墳を御神体として、今も地元の人々にあがめられています。



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