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おさかな’sぶろぐ

日々感じたことを徒然なるままに。。。

明石城(兵庫県明石市)

2013年11月24日 22時07分51秒 | 近畿地方
JR明石駅の北側に位置する『明石城』は、明石藩6万石の政庁として松平氏が藩内を治めていました。



元和3(1617)年に信州松本城主より明石藩主となった小笠原忠真が、2代将軍徳川秀忠の命により、現在の地に城郭を築きました。

苦心して築城した小笠原忠真であったのですが、、寛永9(1632)年に豊前国小倉藩に転封となり、翌寛永10(1633)年信濃国松本城より松平康直(戸田氏)が7万石で入城したが、急死したため松平光重が城主となった。しかしその松平光重も寛永16(1639)年に美濃国加納藩に転封となると、大久保忠職が7万石で入城。その大久保氏も慶安2(1649)年、わずか10年間で肥前国唐津藩に転封していった。

その後、丹波国篠山城より松平忠国が7万石で入城、その子松平信之と共に名君として知られ、林崎掘割の用水路や一里塚の設置、海岸の防風林の造成、そして多くの新田の開発に努めた。しかしその松平信之も、延宝7(1679)年、大和国郡山藩に転封となると、代わりに郡山城にいた本多政利が6万石で入城する。しかし、領内を収める事ができず天和2(1682)年、僅か3年後、苛政を責められ陸奥国岩瀬藩に1万石に減知転封となり、その後改易になった。僅か50年の間に城主が目まぐるしく入れ替わったが、本多氏転封の後、越前家の松平直明が6万石で入城し、以後明治維新まで10代、189年間親藩として松平氏の居城となっていました。

現在、堀・石垣・櫓が遺構として残っています。城跡は国の史跡、また、巽櫓・坤櫓は重要文化財に指定されています。




石垣


坤櫓(重要文化財)


巽櫓(重要文化財)


武蔵の庭


武蔵の庭の茶室


散策当日は菊の展示もされていました。





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1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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明石城 (はりー)
2013-11-25 12:17:02
明石城は基本、姫路城と連携して西国外様大名へ押さえとして機能させるため、常に譜代もしくは親藩を置きました。その昔は、もう少し西に船上城(ふなげじょう)と言うのが有りました。先日見たら田圃の真ん中にあった船上城跡もろとも分譲地になってました。

明石城には(江戸時代なので)結局天守閣は造営されず、現在隅櫓のうち2つが残っています。
ちょうど私が大学生の最後のあたりで、大修理を行ったはずです。建物もですが石垣の保存状態は良く、資料的価値も有るようです。
小笠原忠真が招いた宮本武蔵の、養子である伊織は小笠原の家老として九州へ付いていきます。(伊織は二人目の養子で、彼が愛した一人目の養子、三木之助は早逝してしまうのですよね)
その後、武蔵も伊織のつてで小笠原家の世話になったと記憶しています。
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