僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

1989年のベースボール

2009年05月05日 | スポーツの話題

なんだか村上春樹の「1973年のピンボール」みたいなタイトルですが…。

退職後にやらなければならないことの一つに、「身辺整理」があった。
人から見ればガラクタのようなものが、あちらこちらに溜まっている。
いつまでも置いていたところで、使わないようなものがほとんどだ。
捨てるかなんかして、どんどん整理しなくちゃならない。

その一つが、これまでせっせとテレビから録画してきたビデオである。
録画はしたものの、いつ見るかわからないビデオが、家にたくさんある。

もはや今はDVDの時代である。
いや、それどころか、さらに新しい…え~っと、なんやったかいな…?
そうそう、ブルーレイとかいう「新兵器」も登場しているみたいだし。

ビデオなどはもう、すっかり時代遅れになってしまった。
レンタル店でも、ビデオは隅っこの方に追いやられている。
前世紀の遺物…と言ってもいいほどだ。

それでも、わが家には、サッカーJリーグが誕生した1993年のW杯予選の試合の数々や、1984年のロスから去年の北京までの五輪総集編(NHKで録画した)とか、瀬古利彦や高橋尚子のマラソンの録画とか、水泳や冬季五輪や大相撲や競馬などのスポーツやいろんなドキュメンタリーとかが100本以上残っている。「古畑任三郎」シリーズのようなドラマや、「砂の器」「ゴッドファーザー」「風と共に去りぬ」など、なかなか手放し難い映画もその中に含まれている。これまで何度と捨てて整理をしてきたのに、まだこのありさまだ。

昨日、ためしに、そのうちの一つを無作為に取り出してみた。
ビデオの背中に「1989年スポーツ総集編」と書いて貼ってある。
なんでこういうものをビデオにまで撮って大事に保管していたのか…?
自分でも、よくわからなかった。
捨てよう、と思ったが、その前にちょっとだけ見てみることにした。
1989年の年末のNHK総合テレビの番組を収録したものだ。

しかし、見ているうちに画面に釘付けされてしまった。
そのまま、ビデオを最後まで見てしまった。
う~ん。捨てるのはもったいな~い(またこれだ)

  ………………………………………………………………………

1989年といえば、今からちょうど20年前である。
その年のスポーツの動きが、このビデオを見ていると、よ~くわかる。

フィギュアスケートの伊藤みどりが世界選手権で日本人初の優勝を遂げ、ゴルフではジャンボ尾崎が40歳を過ぎても大活躍していた。大相撲では、貴花田(後の横綱貴乃花)が17歳で史上最年少の関取(十両)になり、競馬では、20歳の騎手・武豊が史上最速で通算300勝を達成していた。

その中でも、とりわけこの年は、野球が面白かった。

まず高校野球だ。

春の選抜大会は、僕の地元大阪の上宮高校と愛知の東邦高校の決勝戦だった。
試合は1対1で延長戦に入る。
10回表、上宮が1点を取り、いよいよ10回裏の東邦の最後の攻撃。
上宮のエース宮田はツーアウトまで取り、優勝まで「あと一つ」と迫る。
ランナーが2塁にいた。次の瞬間…
東邦の打者がセンター前にヒットを放ち、同点にされた。あぁ~! 
しかし打った東邦の選手が2塁をオーバーランした。
上宮の野手がボールを受けて、タッチをして…アウト! 
…と思われたが、ボールは野手と走者の間を抜け、誰もいない外野の芝生の上をコロコロ転がって行った。東邦のランナーが小躍りしてホームインし、劇的な逆転サヨナラ勝ちで優勝したのだった。

このときアナウンサーが「あぁ、ボールは転がる、転がる、転がる…無情にも、無情にも…」と叫んだあと絶句したのを、今でも覚えている。上宮の遊撃手の元木大介(後に巨人)がグラウンドにうつ伏したまま、泣きじゃくった。

夏の選手権大会の決勝も大熱戦だった。
宮城県の仙台育英が、東北初の優勝をかけて東京の帝京と決勝戦を戦った。
これも0対0の延長戦に入るという息詰まる投手戦だったが、10回表に帝京が2点を奪って優勝した。

それよりさらに20年前の1969年の夏、太田幸司投手を擁する青森県の三沢高校が決勝戦で引き分け再試合という熱い戦いを演じたが、結果は準優勝だった。

そして20年後のこの年も、惜しくも東北勢の優勝はならなかった。そしてそれ以来、まだ東北勢は、甲子園での優勝がない。

プロ野球はさらにエキサイトした。

ダイナミックなフォームの村田兆治が200勝を上げ、時の人になっていた。39歳の村田と投げ合っていたのが、当時彼より13歳年下の若武者工藤であった。その若武者は46歳の今も、横浜で現役として投げ続けているのがすご~い。

西武の清原が、顔面ギリギリの内角攻めに腹を立てて、投手にバットを投げつけて処分を受けたのも、この年の出来事だった。

大阪の南海ホークスが福岡ダイエーに身売りして、九州へ行ってしまったのもこの年だ。しかしダイエー・ホークスは序盤から最下位に低迷し、それは福岡市議会にまで取り上げられ、「こんな調子では由々しき事態になるのではないか」と議員から、福岡市長に厳しい質問が飛んだりした。
それに対して福岡市長が
「私が応援に行ったときは、わりに勝っております」
と答弁したのには、笑ったけど…。

さて、大阪から南海ホークスが消えたのは寂しかったが、それ以上にうれしかったことがある。この1989年という年は、僕たちが住む藤井寺市を本拠地とする近鉄バファローズが、西武、オリックスと、最後の最後まで三つどもえの死闘を繰り広げた末、みごとリーグ優勝を遂げたのである。藤井寺球場で仰木監督が胴上げされたのは、市民である僕たちとしては、これほど嬉しく、誇らしいことはなかった。

しかし、しかし、である。
僕は小学生の頃から、かなり熱心な巨人ファンであった

25歳に藤井寺に移り住んでからは、セ・リーグは巨人で、パ・リーグは近鉄を応援していた。まあ、両者が日本シリーズで顔を合わせることは、まずないだろう、と思っていたので…。

しかしこの年、まさかと思った近鉄が優勝し、そしてセ・リーグは、藤田監督の巨人が優勝した。ありゃりゃ…。

巨人VS近鉄の日本シリーズとなってしまったのである。
藤井寺で育ったわが家の子どもたちは、もちろん近鉄ファンである。日頃からテレビで巨人を応援していた僕は、2人の息子たちから「大阪に住んでいるのになんで巨人や?」という冷たい視線を浴びてきたわけだけど、このときは、
僕は子どもたちといっしょに地元近鉄の方を応援することにした。

その近鉄が、藤井寺球場での初戦に勝ち、勢いに乗って3連勝したのである。
宿願の日本一まで、あと1勝である。
誰もが近鉄のV1を予想したことであろう。

ところが…
近鉄が3勝目を挙げたとき、勝利投手だった加藤が、試合後のインタビューで「巨人は大したことありませんよ。パ・リーグの球団よりずっと弱いです」と放言した。これには巨人ファンが激怒した。いちおう近鉄を応援していた僕だけど、こういう傲慢な言葉にはいい気はしなかった。もちろん巨人選手たちも、それでかなり憤激したのであろう。

そのあと巨人が「激怒の4連勝」をして、まさかの逆転優勝を果たしたことは、ご存知の方も多いと思う。

特にポイントになったのが、巨人が1勝した次の試合。つまり第5戦だ。
7回まで両軍の接戦が続いた。
7回裏、巨人が2・3塁のチャンスを迎え、打者は好調クロマティ。
近鉄ベンチはためらわず、クロマティを敬遠して、満塁策をとった。
そして、次の四番打者の原(現巨人監督)と勝負に出たのである。
原は今シリーズ、18打席ヒットなし…。
巨人がここまで近鉄にやられてきたのは、ひとえに原の不振が原因だった。

その原のバットが火を噴いた。
満塁ホームランを放ったのだ。
巨人はその勢いに乗り、後の試合も連勝して、日本一の栄光に輝いた。

藤井寺球場で、巨人の藤田監督が宙に舞った。

「巨人はパリーグの(最下位の)ロッテより弱い」
とインタビューで言った近鉄の加藤投手は、「口先男」などとマスコミに叩かれ、そこでほぼ選手生命を終えた。
口は災いの元…とは、よく言ったものである


…ふむ、ふむ。な~るほど。
1989年は、そういうことがあった年なのだなぁ~。
ビデオを見ていると、その頃のいろんなことを思い出し、感慨深かった。

1989年は、1月に元号が、昭和から平成に変わった年だった。
僕が40歳の誕生日を迎える前日に、昭和天皇が亡くなられ、平成になった。
僕自身にとっても、格別に印象深い年であったと言える。

さて、巨人が日本一になって、その年のプロ野球は終わった。

そして秋に行われたドラフト会議では、ひときわ注目を浴びた選手がいた。
社会人野球のエース、21歳の野茂英雄投手であった。

その前に、もう一人注目の選手として、上宮高校の元木大介がいた。
甘いマスクで、甲子園には元木目当ての女の子が押し寄せた。
その元木は巨人以外には行きたくない、と公言していたが、
巨人は元木を指名せず、別の大森という選手を指名した。
元木は結局、ダイエーホークスに指名された。
その瞬間、元木大介は涙を流し、ホークス入りを拒否したのだった。
1989年は、元木大介が2度泣いた年でもあった。

それはさておき…
ドラフト会議は前評判のとおり、12球団のうち8球団が野茂を1位指名した。
8球団が、それぞれ野茂を当てようと意気込んでクジを引く。
7つの球団が順番にクジを引き終わり、最後に近鉄の仰木監督が引いた。
なんと、その最後のひとつが「当たりクジ」だったのだ。
残り福…とは、よく言ったものである

そんなことで、野茂は、わが町・藤井寺の球団に来てくれたのである。

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…と、この「1989年のベースボール」の話は、野茂のことで終わるわけですが、ノモ、と言えば…

急に話が飛んで恐縮ですが、前回ECCの英語教室のことを書きました。

ECCでは講師も受講者も、みんな、実際の苗字ではなく、愛称で呼び合うことになっています。サマンサとかキャンディとかトニーとかエリックとかトーマスとか、なんとかかんとか…。

で、最初に行った日、僕はどういう愛称にするのか、スタッフの方がいろいろ考えてくれたのですが、「エリック」とか「トーマス」とかいうのも、なんだか恥ずかしい感じなので、僕は本名が「のぼる」という名前だから、下の一字を省略して…
「じゃ、ノボっていうのは、どうですか?」と言いました。

それを聞いてスタッフの人は、
「は~い、ノモねぇ ! う~ん、いいですよ~ それでいきましょうね」

「え…???? ノモ…? 」

ノボが(なまって…?)ノモになってしまいました。

で、僕はいま、ECCでは、ノモと呼ばれています。

僕の英語のほうも、野茂のトルネードにあやかって、勢いよく上昇したいものですが…。これだけはねぇ。




 *近鉄バファローズ無き後、藤井寺球場は廃止され、
  今はその場所に学校やマンションが建っています。
  時代の流れを感じますね~。

 

 

 

 

コメント (6)
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