僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

もういくつ寝ると… 1

2009年03月15日 | 議会&役所

 
  ~ 手 紙 ~


3月もちょうど半分が終わった。

先月くらいから、「あと少しですねぇ」と会う人ごとに言われながらも、なかなか実感が湧かなかったが、3月に入ってから、3日、4日、6日、8日、11日と送別会を兼ねた飲み会が重なっていくと、そのつど、「長い間ご苦労様でした」と労をねぎらわれ、「これから、どうするんですか?」と今後を尋ねられ、そんなことが何回も繰り返されると、やはり、もう終わりなんだなぁ…という感慨が、じわじわと身に沁み始めてきた。

あと半月の間、自分のこれまでの仕事人生を振り返りながら、定年退職のその時を迎えるまでの日々を、ここに書きとどめておきたいと思う。

僕が今の市役所に勤め始めたのが、昭和46年(1971年)の8月だった。

その年の3月に大学を卒業したのだが、卒業式のその1週間前に僕は結婚式を挙げていた。本来なら就職活動に走り回っているはずの大学4年生の時期の1年間、僕は自分の両親や相手の両親に、どうしたら結婚を認めさせることができるか、みたいなことばかり考えていたので、就職に関しては「どこでもええわ」と、ずいぶんいい加減だった。そんなことから、大学の時に邦楽のクラブで尺八や琴を演奏していたという理由だけで、求人募集でチラッと見た小さな和楽器店に応募し、そこへ勤めることにしたのだ。

その和楽器店から、阿倍野近鉄百貨店への出向を命じられ、百貨店の3階の片隅の、琴、尺八、三味線などを置く和楽器売り場コーナーで、一日中ボーっと立っていた。しかし、日曜日に休めない、一人でずっと立ちっぱなし、お客が少ないのでつまらない、小さな店だったので将来の保証がない…などの理由で、次の就職先の当てもないまま、そこは3ヶ月で辞めてしまった。

妻に「役所に勤めれば?」と言われていたが、役人など自分の性格に合わないと思っていた。だけど22歳で家庭を持ち、やがて子供もできるだろうから、そんなことを言っている場合ではなかった。1ヵ月後の7月、毎日新聞の求人欄に、小さく「○○市役所職員募集」の記事が載っていたので、とにかく受けてみようと思い、電車とバスを乗り継いで○○市の市役所を訪れたのである。

そして試験を受け、運よく採用され、8月から○○市役所へ勤め始めた。
その頃は、今と違って職員を大量に募集していた。僕は8月採用だったが、もちろん4月にも、僕と同級の多くの新入職員が一足先に入っていた。

結局、その昭和46年の8月から、今の平成21年の3月まで、37年8ヶ月、この市役所に勤務したことになる。…あぁ、長い長いと思っていたのに、今となってみると、あっという間だったなぁ~。

最初に配属されたのが、秘書課市史編さん室という風変わりな部署であった。
ここで1年8ヶ月仕事をした。この間に長男が生まれた。

次に昭和48年4月から、課税課固定資産税係というところに配属された。
ここで2年間仕事をした。この間に次男が生まれ、今の藤井寺へ引っ越した。

昭和50年から、議会事務局というところに配置された。
これは、後の上司の説明によると、僕が履歴書の資格欄に「速記3級」と書いていたから、議会事務局へ来てもらうことになった、とのことだった。
議会事務局では、会議の速記を取れる職員がいると都合がいいらしいのだ。
僕は大学2~3年のとき、玉造付近にあった早稲田速記学校というところへ、夜間に通っていたことがある。その時に速記の資格を取っていた。

市史編さん室は1年8ヶ月、課税課固定資産税係は2年と、わりに短期のサイクルで異動した僕だったが、3つめの異動先となった議会事務局にはなんと16年間もいた。昭和50年から平成3年まで、26歳から42歳まで、この部署で仕事をした。議会事務局に入ったときには3歳と2歳だった子供たちが、出るときにはもう大学1年生と高校3年生になっていた。

平成3年4月に、その議会事務局に別れを告げ、総務課の文書法規係というところへ異動した。

この部署は、市役所の法制を一手に引き受ける部署で、きわめて難しい。
市役所の弁護士、みたいな能力を要求されるところで、あらゆる法律問題に相談に乗り、法的判断もし、条例や規則などもすべてこちらで作成する。僕はこの複雑で困難な仕事の上に人間関係まで加わって、ノイローゼになりかけた。このままでは潰れてしまう、と、自分でもはっきり認識できた。僕は一介の係長にすぎなかったが、3月に入って意を決し、直属の上司には一切相談せず、自分の心境を、当時雲の上の存在であったK助役に直接手紙に書いて送った。

そのK助役に、僕の一念が届いたようだった。お陰で、月末の人事異動で、僕はその係から出ることができた。そして、次に配属されたのが広報担当、つまり市の広報紙を発行するのが主な仕事の部署であった。ありがたい。命拾いをした。僕はさっそくK助役に、心からのお礼の手紙を出した。

そこからは、順調すぎるほど、流れがよくなった。
広報での仕事は、自分にぴったり合っていた。

取材も写真撮影も、記事を書くことも紙面をレイアウトすることも、自分の得意の分野だった。取材を通じての市民の人たちとの交流には、これまでの職場になかった生きがいすら感じさせてくれた。約38年間の中で、この仕事に携わることがなければ、これといった変化もないままに公務員人生を終えていたのだろうな~と思う。この広報の頃の思い出話は山ほどあるし、また退職したら、いろいろ書いてみたい…とも思う。

そのほか広報では、パソコンによる広報編集システムも導入し、「社内報」の市役所版である「庁内報」も自分で創刊した。充実した6年間だった。

議会事務局を出てから、文書法規係2年、広報6年と、合計8年間を「外」で過ごした後、平成11年4月、50歳の時、僕はまた議会事務局に戻った。

そしてそのまま10年という歳月があっという間に過ぎ、僕は60歳になって、間もなく定年退職を迎えるのである。

こうして見てみると議会事務局での勤務が通算26年であり、他の部署に比べ、圧倒的に長い。3分の2以上が議会事務局である。その、慣れた部署で定年退職を迎えられる自分は、恵まれているなぁ、とつくづく思う。

  …………………………………………………………………………

4日前の3月11日のことである。
午前中に妻からメールが入った。
「Kさんからお酒が届きましたよ。『吉野の樽酒1.8、坂東男山1.8』と書いて あります」

Kさんというのは、先に書いたが、かつて僕がノイローゼになりかけたとき手紙を出した、当時の助役さんである。僕は、この方によって最大のピンチを救っていただいた。今でも変わらず感謝し続けていることは言うまでもない。

8年前に勇退され、今はご自宅で悠々自適の生活を送っておられる。
毎年年賀状の交換を続けさせてもらっているが、今年の年賀状には、「お陰さまで3月で定年を迎えます」と書いた。すると2月に入って電話があり、
「年賀状に書いてあったけど、冗談じゃなく、ほんまに退職なの…? 
 へぇ~、早いねえ。まだ50歳ぐらいかと思っていたのに…」
そう言って、笑っておられた。

その元助役のKさんから、僕の自宅にお酒が送られてきたというのだ。

僕は昼にKさん宅に電話し、厚くお礼を述べた。Kさんは、
「いやいや、ご丁寧に。まぁ、ほんの気持です。長い間ご苦労さんでした。
(お酒を)ちびちびとやってください」
と言ったあと、「ちょっと待って。嫁さんに代わるわ」
と言ったかと思うと、
「もしもし、Kの家内です」
と、歯切れのいい女性の声が、受話器から伝わってきた。

「以前、あなたから主人に当てたお手紙を、私はずっと手元に置いています。そして今も時々読み返しています」といきなり奥様がおっしゃった。

奥様の言葉に僕は驚いた。手紙…とは、当時助役に当てた手紙のことだろう。
手紙は2通出した。自分の心境を綴り、今の部署では精神的に持ちこたえられそうにない…と訴えた手紙と、その後異動によって別の部署(広報係)に変わったときのお礼の手紙の2通だった。もう15年以上も昔のことだ。その2通の手紙を、奥様が、今も手元に置いておられるのだそうだ。

「あのとき、あなたの手紙を私も読ませてもらって、涙が出ました。美辞麗句で飾られた手紙はたくさん読んできましたが、あなたの手紙は、飾らないあなたのお気持がそのまま出ていて、私は感激しました。あれほど正直に自分の気持を表わした手紙というのは、私はそれまで見たことがなかったものですからね。いま読み直しても、目頭が熱くなりますよ」
そう言っていただき「あ、それは、どうも…」と僕はうろたえ、恐縮した。

でも、確かにあのとき、僕は身を削るように、渾身の文章を綴った。
それは今でもよく覚えている。
これに自分の人生がかかっていると思ったら、体裁などかまえなかった。
そこを、奥様はよく読み取ってくださったようである。

電話を切った後、しばらくのあいだ、胸が熱かった。

そして昨晩は、いただいた「吉野の樽酒」の封をあけて、飲んだ。
プンと杉の香がして、とても口当たりのいいお酒だ。

長い間公務員生活を続けてこられたのは、K元助役をはじめ、まわりのいろいろな人たちに支えられ、助けられてきたお陰である…
今さらながら改めて、そのことをしみじみ思い、樽酒に酔う僕なのでした

 


 

 

 

 

コメント (6)
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