goo blog サービス終了のお知らせ 

 僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

モミィの高校入試で思い出す 「あの日のこと」

2021年02月11日 | 思い出すこと

「女性蔑視」の発言で物議をかもした東京五輪組織委員会の会長・森喜朗センセイがやっと辞任するようです。あれだけ世間日本だけではなく海外からも激しく非難されたら、もう辞めるよりほかありませんよね。まったく今回の東京五輪はコロナやらこんな騒動やらと、ケチがつきまといますね。いったいどうなることやら。予定通りの開催は無理でしょうから、どこまで規模を縮小してやるのか?きっぱりと中止か延期にするのか? 僕は「きっぱり」のほうがいいんじゃないか、と思うんですけど。

さて、そんなことで世情が騒然としている中ですが

昨日の10日、大阪府では私立高校の入試が行われました。モミィも大阪市阿倍野区にある高校を受験しました。早いものですね~。このブログを始めた時はモミィは2歳でした。それが今では高校の受験生ですからね。

で、昨日モミィは元気に「行ってきま~す」と家を出たので僕も妻もホッと胸をなでおろしました。もしも風邪を引いたり体調を崩したりしたらどうしよう、という心配をしていたのです。それには忌まわしい思い出がありましたから。

私立高校の受験といえば
「あの日のこと」を思い出さずにはいられないのです。もう30年以上も前。長男(モミィのパパ)が私立高校を受験した時のことです。

長男は前夜から高熱を出し、妻が一晩中看病しました。しかし熱は下がらない。その日は大事な受験の日だからお医者さんにも行けない。受験する高校は大阪市天王寺区にある清風高校でした。かなり難しい高校で、体調万全で実力を発揮しても合格するかどうかわからない状況なのに、高熱に浮かされたまま、長男はフラフラの状態のままで家を出て行きました。

そして夕方に帰宅した時も熱は引いておらず、すぐに妻が布団に寝かせました。
「あんな心配だったことは、人生の中でもめったになかった」
と、今も妻は語り草にしています。

そんな状態だったのですが、信じられないことに合格しました。おかげで次に公立高校のほうは、当時の学区の中では難関校だった松原市にある生野高校にチャレンジすることができ、その結果も合格でした。松原市といえば僕は松原市役所に勤めていたので、生野高校はすぐ近くです。合格発表の日、職場の人たちが僕に「近くなんやから、息子さんの結果、見に行っておいで」と言ってくれたので、歩いて高校へ行き、合格発表の貼り紙を見て長男が合格をしたことを知り、思わずパチパチと手を叩きました。

まぁ、そんな悲喜こもごもの思い出がよみがえってきます。

それが、今度は長男の娘であるモミィが高校受験ですからね~。嫌でもあの時の長男の様子が目に浮かんできます。だからモミィも熱なんか出したら大変、と受験の日まで真剣に心配していたのです。

そういうわけで昨日の朝、モミィが元気に出て行ったのを見て、僕たちは心から安堵したわけです。正直なところ、結果はどうでもよろし。まずは元気に受験できたのだからそれで良し。と、そんな気持ちで満たされていました。

さて、その昨日の夕方ですが。
「だだいま~」と帰宅したモミィに、「試験、どうだった?」と聞いたら、「あぁ~」と大声でため息をつき、「あかんわ。むずかしかったぁ~」と言って、あとはわけのわからないことをワイワイとわめいていました。だいたいモミィはよくしゃべるのですが、起承転結がないので、内容はさっぱり理解できないのです(笑)。

でも、僕も妻も、むろん合格すれば嬉しいに決まっていますが、たとえ結果がダメだったとしても、さほどガッカリしないと思います。繰り返しますが、元気に試験を受けられたことが何よりだったんですからね~。もう、あの長男の時のような思いは二度としたくありませんので。

合否の通知は明後日の13日(土)、速達郵便で送られて来るそうです。

結果は、またご報告しますね。

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

高校受験に失敗しても ~塞翁が馬~

2020年12月20日 | 思い出すこと

今日はモミィではなく、大昔の僕の高校受験に関する話です。

僕は小学生の頃は勉強が嫌いで漫画ばかり読んでいました。当時は「貸本屋」というのがあって、そこで多くの漫画の月刊誌を借りて読むのが一番の楽しみでした。一人っ子だったし、両親は家から離れた場所で商売をしていたので日中は誰も家にいない。だから学校から帰っても、一人で漫画を読む以外にこれといった楽しみはなかったんですね。

       
  こんな漫画雑誌に夢中になっていました。

中学生になると、勉強しないと先生に叱られるのが怖かったので少しは勉強もするようになった(少し、ですよ)。そして高校受験を迎えた。まぁ大学へ行くなんてことは思いもしなかったので商業高校を受けようと、大阪市中央区にある東商業高校を受験した。でも落ちてしまった。ガッカリ。

仕方なく併願で受けて合格していた私立の近大付属高校の商業科へ行くことになった。今では近大付属高も、モミィによると偏差値は高く、結構レベルが高いそうだけど、僕らの時代はそんなことはなかった(御同輩、失礼!)。

そして初めて登校した日のこと。担任の先生が、クラスの学級委員長を決めるということで「これから5名の候補の名前を呼ぶので、みんなの挙手の数で委員長と副委員長を決めるからね」と言ったあと「〇〇クン、〇〇クン」と5人の名前を読み上げた。なんとその「候補」の中に、僕も入っていた。

僕たち5人は教壇に上がって並んだ。あとから聞くと入試の成績の良かった上位5人だったそうだ(ウソみたいな話だ)。そして5人の名前が順番に一人ずつ呼ばれ、その都度、50名以上いるクラスの生徒何人かが「お気に入り」の候補に手を挙げる。みんな今日が初対面なのに、何を基準に誰に手を挙げるのか、意味わからん。そして

終わってみたら、僕の時に手を挙げた人数が一番多かった。げぇっ!

というわけで、いきなり学級委員長になった。これは恥をかいたらあかん、と、中間テストや期末テストは全力を上げて勉強し、自慢ではありませぬが、3年間ほとんどクラスで1位の成績でした(自慢してるやん)。いや、それだけみんな勉強ができなかったということですわ。えへへ。

高校生になると漫画ではなく小説にのめりこみ、世界文学全集なんかを買って、一心不乱に読み続けたことも懐かしい思い出です。

で、近大付属高は近大の構内の奥の方にあったので、僕らは駅から通称「大学通り」と呼ばれる通りをまっすぐ歩き、突き当りが近大。その構内を通って一番奥の付属高校まで行く、ということで大学の中も通学路の一部でした。

やがて、大学生たちが大学通りやキャンパス内を歩いている華やいだ姿にあこがれ始め、特に男女の学生が仲良く歩いている光景など見ると、男子校の僕は「あぁ、ええなぁ」と羨ましく思い、いつの間にか「大学へ行きたいわ~」と思い始めたわけです。ちなみに、近大付属高から近大に進むのは、形ばかりの試験を受けるだけで簡単にいけました。(今は知りませんで)。

大学生活では自由と冒険を謳歌しました。3年生の夏に北海道往復自転車旅行に行き、その時期に今の妻と知り合い、大学卒業式の直前に結婚し、妻の勧めで松原市役所に奉職。それから38年間、定年退職まで、多少の起伏はあったものの、概ね仕事のほうも楽しく有意義に勤めることができました。

また一方で30歳前後の頃、四国、九州、中国地方の自転車旅行をしたあと、ニューヨークマラソンをはじめ、50歳を過ぎるまで各地のフルマラソンや100キロマラソンに参加し、子どもたちが手を離れた40代半ばから妻らと毎年のように海外旅行へ出掛けることもできました。

そんなことを今、楽しく思い出しながら、ここまで生きてこられたことを幸せに思っています。

それもこれも、東商業高校の受験に失敗したのが始まりでした。もし、そこに合格していれば、卒業後に商業関係の仕事についていただろうし、さまざまな冒険もできなかったのではないか、と思います。

「塞翁が馬」という言葉を思い出します。不幸だと思っていたことが幸運につながったり、幸運だと思っていたことが後に不幸につながったりする、というその格言そのままですね~

僕の場合は、高校受験に失敗したことが幸運につながったわけですもんね。人の運命ってホント、わからないものです。

でもね。
そんな話を今の受験前のモミィにしてやっても、きっとモミィは、
「意味わからへん。志望校に合格することが絶対に大事やから」
と言うに決まっていますけどね(笑)。

ちなみに、
僕が受験して落ちた東商業高校をネットで調べて見ると、6年前の2014年に閉校となり、95年の歴史に幕を閉じたと書かれていました。

僕にとっての「幻の母校」だった学校が、
今では、本当に「幻」となったんですね。

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「また逢う日まで」 で思い出すのは

2020年10月17日 | 思い出すこと

このたび亡くなられた筒美京平さんの曲の中で、最も有名なものの一つに尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」がありますね。
この曲に、僕はいつも心を揺り動かされます。
きょうはその理由を書いてみたいと思います。        

  ………………………………………………………………………………

「また逢う日まで」が大ヒットしたのは1971年(昭和46年)だった。この前も書いたように、当時22歳で大学4年だった僕は3月初旬に結婚し、1週間後に卒業した。就職先に関しては、今でいう就活には不熱心で「どこでもええわ」っていうノリで決めた小さな和楽器店に勤めることになった。

あえて言えば、大学1年生の時、琴や尺八を演奏する「邦楽部」という、いささか風変わりなクラブに所属していたことがあるので、和楽器を扱うところだったら少しは馴染めるだろうと思ってそこに決めた、とも言える。

そこで僕が命じられたのは、アベノ近鉄百貨店の和楽器売り場への出向だった。百貨店の店頭に立つとはねぇ。思いも寄らなかったけど。

和楽器の売り場は、僕ともう一人アルバイトの女子学生の子とでやっていたけれど、ヒマだった。琴や尺八や三味線がそれほど売れるわけないしね。お客さんというのは、和楽器の付属の小物とか、琴を弾くときの爪とか、謡曲の冊子などを求める人が大半だったが、それでもヒマなのでほぼ立ちんぼのまま。

当時近鉄百貨店は木曜日が休みで、もちろん日祝日は出勤日。勤めていた妻ともゆっくり過ごせる時間がない。新婚なのに休みの日が合わないのは寂しい。家に帰ると幸福感に満たされるが、売り場に来て立っていると、虚しさがこみ上げてくる。また、僕は出向社員なので、楽曲関係の売り場の責任者も、百貨店の正社員とは扱いも違い、時にはみじめな思いもさせられた。社会人の厳しさを身をもって知らされたわけですね。

結局、そこは3ヵ月で退職して、夏に松原市役所の入所試験を受け、8月から地方公務員としての生活が始まったことは先日も書きました。

ところで、僕がいた近鉄百貨店の和楽器売り場のすぐ横にレコード売り場があった。そこで開店から閉店までず~っと流れていた曲が「また逢う日まで」だった。

ほかにもキャンペーン曲は流れるのだけれど、ほぼ2、3曲に一度の割合でこの曲が流れた。それも大音響だ。そのすぐそばに立っている僕は、それがイヤでも耳に入って来る。来る日も来る日も「また逢う日まで」を全身に浴びながら、僕は売り場に立っていたのだ。

   タッタン タタンタタッ
  タッタン タタンタタッ
  チャッチャ~ン チャンチャンチャ~ン 
  チャ~ン タタンタタ~ン 
  また逢う 日まで~ 逢えるときまで~ 
  別れのそのわけは~ 話し~たくな~い 

開店から閉店まで、1日で何十回聴いたことだろう。なにせヒマなものだから、ボンヤリとその曲が聴こえるまま、歌も全部覚えてしまい、頭の中に刻み込まれてしまった。おそらくこれまでの自分の人生の中で、最も多く聴いた歌は、この歌だろうな、と思います。

それが、ここを辞めるまで、3カ月間続いたのでした。

「また逢う日まで」が耳に響く中で、僕は売り場に立ったまま、今のままでいいのか? 早くここを辞めて他の仕事に就いたほうがいいのか? そんなことを毎日考え続けていました。そして最後に「辞めよう」と決心した時も、この曲が流れていたと思います。

百貨店に最後に出勤した6月30日も、相変わらず一日中「また逢う日まで」が流れており、そして、僕はその歌に見送られるようにして仕事を終えたのでした。

あれから49年が経ちました。

地方公務員への転職後、60歳の定年退職までの約38年間の職場生活は、部署や上司にも恵まれ、とても楽しく仕事をさせてもらいました。

筒美京平さんの代表曲「また逢う日まで」が、今またテレビで何度も繰り返し流されているのを見て、あの百貨店の和楽器売り場に立っていた3ヵ月間を鮮明に思い出しました。

あまりの懐かしさに体が熱くなってきます。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「魅せられて」 の筒美京平さんが死去

2020年10月14日 | 思い出すこと

前回ブログで「東京オリンピックマーチ」をテーマに、作曲家・古関裕而さんのことに触れました。

「えっ? この曲も、あの曲も、あの人の作曲だったの?」
と驚いたのですけど、今日もまた同様に驚いた話です。
というか、もっともっと驚いた話です、ハイ。

先日、作曲家の筒美京平さんが80歳で亡くなられました。それで、昨日はテレビ各局で筒美京平さんを偲ぶ映像が流されていました。ご覧になった方も多いと思います。

もともと昭和の歌謡曲は大好きだった僕なのですが、筒美京平さんという作曲家はあまり記憶に残っていません。よく知っていたのは、吉田正、船村徹、古賀政男、遠藤実、服部良一、中村八大などの人たちでした。しかし

昨日の朝、羽鳥慎一さんの「モーニングショー」で筒美京平さんの曲が次々と流れているのを見てびっくりしたのです。どれもこれもよ~く知っている懐かしい曲ばかり。いや、自分の人生にかかわる曲まであった。へぇ、あれもこれも、この人の作品だったのか! という驚きの連続でした。

さて、その番組で流された映像と曲を順番に書いていきますと

近藤真彦の「スニーカーブルース」「ギンギラギンにさりげなく」
庄野真代の「飛んでイスタンブール」
C-C-Bの「ロマンチックが止まらない」
いしだあゆみの「ブルーライト横浜」
太田裕美の「木綿のハンカチーフ」(今日の「天声人語)で絶賛してました)
ジュディ・オングの「魅せられて」
少年隊の「仮面舞踏会」
堺正章の「さらば恋人」
尾崎紀世彦の「また逢う日まで」
斉藤由貴の「卒業」
岩崎宏美の「シンデレラハネムーン」
郷ひろみの「男の子女の子」
麻丘めぐみの「私の彼は左きき」

などなど、です。

いやまぁ、すごいですね~。
特に、1971年から1987年までに多くのヒット曲を量産されたとのこと。僕の年齢で言えば22歳から38歳まで。なので僕らの世代の人たちは知らない歌はないんじゃない? と思いますね。

さて、これらの中でも、じゃぁ僕が一番好きな歌はどれ?
と聞かれると、もちろん全部、と答えたいところです。しかし、どうしても一曲だけを選びなさいと言われたら

ジュディ・オングの「魅せられて」でしょうね。

僕が30歳の時(1979年)に大ヒットした曲です。
この年には八代亜紀の「舟歌」、小林幸子の「思い出酒」などもヒットしましたが、そんな強力なライバルを押しのけて、この「魅せられて」がレコード大賞に輝きました。

この歌を聞くと、今でも身も心も舞い上がるような心地がします。

むかし、職場の人達や仲の良いグループでよくカラオケに行きましたが、女性の人にはいつも「魅せられて」をリクエストしたものです。その歌を聞くともう夢心地。そのうち、いつの間にかリクエストもしていないのに「魅せられて」を歌ってくれる女性も出てきてくれました。よかったなぁ(遠い目)。

その昨日の「モーニングショー」で流された「魅せられて」の映像を写真に撮りました。


 

 

ところで、5年前のある日のこと。

当時9歳で小学4年生だったモミィの前でこの歌を歌った。

 ♪  好きな男の腕の中でも
  違う男の夢を見る
  ウ~ウ~ ウ~ウ~
  私の中でお眠りなさい

すると、それを聞いていたモミィが突如、
「それ、あかんやろ。さんかくかんけいやんか」
と、叫んだのだ。

いやまぁ、あの時はビックリしました。
「三角関係」なんていう言葉を知っていたのにもビックリ。

まあ、「好きな男の腕の中でも 違う男の夢を見る」
というのは確かに道徳的にはモンダイあり、なんでしょうけどネ

「ほんまやで。あかんで、三角関係は」
と、何度も繰り返したモミィでした。

それ以来、モミィのいる前では、うっかり歌も歌えませんわ(笑)。

その時のことは、5年前のこのブログに書いています。

  「魅せられて」 (2015年05月23日) 


★次回は筒美京平さんの曲で、先ほど「自分の人生にかかわる曲」と書いた曲について触れてみたいと思います。

では皆さま、また逢う日まで!

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

56年前 10月10日の思い出

2020年10月11日 | 思い出すこと

昨日、10月10日に関する記事をアップしましたが、書き足らないところがあったので、書き直して掲載します。

さて、
昨日の10月10日は、56年前に東京オリンピックの開会式が行われた日でした。

そしてその日が「体育の日」に定められたのですが、いつの間にか「10月の第二月曜日」に変更され、さらに今年は「体育の日」が消え「スポーツの日」という祝日ができて、その日も10月から7月24日に変わっている。理由は、今年開催されるはずだった「2020東京五輪」の開会式に合わせてのことだったそうだけど、これでもう10月10日という僕にとって一生忘れられない日は、世間では徐々に忘れられていくのでしょうね。

 …………………………………………………………………………

56年前→1964年(昭和39年)10月10日は土曜日でした。僕はその時、近畿大学付属高校の1年生で15歳だったのですが、土曜日なので授業は4時間でした。

しかしその日の朝礼で、校長先生から、

「今日はお昼に東京オリンピックの開会式があります。ですから本日の授業は3時間目で切り上げます。諸君、早く家に帰ってテレビで開会式を見なさい」
との嬉しい言葉がありました。

もちろん、僕もまっすぐ帰宅してテレビにかじりつきました。

開会式の画面では、
天皇陛下が席に着かれ、国歌が演奏されたあと、「オリンピックマーチ」が高らかに鳴り響き、各国の選手団の入場が始まりました。オリンピック発祥の地であるギリシャを先頭に英語のアルファベット順に入場し、最後に開催国の日本選手団が入場。その時の僕の興奮は、絶頂に達しました。

それから閉会までの15日間、学校から帰るとすぐにテレビをつけてオリンピックを見て、休みの日となると、ず~っと見ていまでした。

そんなことで、毎年10月10日になると、そのことを思い出します。そのたびに、開会式の入場行進の時に流れた「オリンピックマーチ」のメロディーが思い浮かび、時には口ずさんだりしてきました。ホント、あのマーチは最高でしたね。

以上は、過去の懐かしい思い出ですが、今年の春から始まった、朝ドラの「エール」を見てビックリ仰天したのです。

あの「オリンピックマーチ」を作曲したのがこのドラマの主人公のモデルとなっている古関裕而さんだったということです。ドラマの第一回目が、東京五輪のシーンから始まったので、そのことを知りました。

ちなみに古関裕而さんはそれだけでなく、阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」も、僕が好きな巨人軍の「闘魂込めて」も作曲されており、それは全然知らなかった。巨人も阪神も応援歌は同じ人の作曲によるものだったとはねぇ

ほかにも高校野球の入場式に流れる曲も、NHKのスポーツ番組が放送される際に流れる曲も、その他、有名な曲がヤマほどあるという偉大な作曲家だったのですね、古関さんは。
知らなかった~

で、あの東京五輪の開会式から56年。

早いですねぇ。
15歳という多感な時期と重なったのも、何かの因縁かも。

その15歳からの10年間というものは、
読書に狂い、年に100冊以上の本を読んだ。大学に進んで和楽器のクラブに入ったけれど1年足らずで挫折。19歳の時に夜間の速記学校に通って今の妻と知り合い、20歳の時に自転車で北海道往復の放浪の旅に出て、22歳の卒業式直前に結婚した。そして4月から勤めた和楽器店を約3カ月で退職し、夏に松原市役所の職員の臨時募集に応募して再就職。翌年23歳で長男(モミィのパパ)、24歳で次男が誕生。25歳の時に今の藤井寺市に引っ越してきた

というふうに、僕としては激動の10年間でした。

では、僕の最近のこの10年間はどうだったか? と言うと
市役所を退職してから「毎日が日曜日」で、これと言って特筆すべき出来事はありません。同じ10年間でも、若い時の10年間と今とでは、えらい違いですわ(笑)。ま、それが普通なのかも知れませんけど。

僕は一人っ子だったせいか、高校生になるまでは、これと言った感激や刺激もなく、たいした苦労もせず、ただぼんやりと過ごしてきた感じがします。でも、この東京オリンピックの頃から「熱中」と言う感覚を知り、自分と向き合い、自分らしい人生がやっと始まったのかな、と今となっては思います。

昨日の10月10日は、56年前の「オリンピックマーチ」を口ずさみながら、そんなことを考えていました。


★おまけ

ちなみに、56年前の東京オリンピックの担当大臣は、河野一郎さんという方でした。この人の孫が、今、ハンコを廃止するなどと何かと話題になっている河野太郎行政改革担当相です。
ま、別にどうってことない話ですけど(笑)。

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中国の 「食べ残し禁止令」 で思い出すこと

2020年08月24日 | 思い出すこと

いま中国では「食べ残し禁止令」というようなことが、国家主席の習近平によって強く打ち出されているようです。「食べ物を大切に!」という当たり前のことを、なんで今ごろ言うのかと、日本人なら不思議に思うところですが、中国というのは独特の習慣が数多くありますからね。

それで思い出すのは、25年ほど前に北京へ旅行した時のこと。当時長男が大学生で、高校時代に同級生でガールフレンドだった子が北京の大学に留学していたので、彼女を訪ねて僕と妻と長男の3人で行った旅だった。

そんなことで、北京では彼女がずっと案内してくれた。

食堂に入ったとき、僕がふと気づいたのが、他の客(むろん中国人)が食べ終えて帰ったあと、そのテーブルには、必ず皿に料理が残っていたのだ。あちらの食堂でも、こちらのレストランでも、例外なく。

不思議に思って彼女に尋ねると、
「こちらの人は食べ物を残すのがマナーなんです」
と言うので、「なんのために残すの?」と聞き返した。

すると彼女は、こう説明してくれた。

全部食べてしまうと、「この量では足らんじゃないか」という意味にとられてしまうからだという。料理を出してくれた人に失礼だ、ということですね(日本だったら残すほうが失礼に当たりそうだけど)。

ということで、全部食べず、ある程度の量を残して店を出て行く。
「たっぷりいただいたので、もう満腹です」
そういう意思表示らしい。

へぇ~。国が違えばマナーも違うんだ。僕らは子供の頃から、食べ物を残してはいけないと教えられてきたのにねぇ。

だから僕たちも「郷に入っては郷に従え」ということで、北京では、どこの食堂に入っても一定の量を残して店を出た。全部食べたかったですけどね。

まあ、それも25年も前のことだから、今は中国でも変わってきているのでは、と思っていたけど、最近テレビで、日本へ来る中国人観光客のマナーの悪さの一つとして、バイキングでもお皿に沢山残したまま出てゆくと報じられていた。ふ~む、やっぱり今も続いているのか、と思いましたね。

そして今回の「食べ残し禁止令」のニュースがあったので、「中国でもやっと食べ物の大切さがわかったか」と思った僕でした。

テレビでは、中国の若い女性がカップ麺12個を次々と平らげていく様子や、鍋料理をひとりで20人分食べている人などの「爆食い」の動画が紹介されていた。こういう爆食いや、食べきれないほど多くの量を注文し、沢山残して帰る客に対して、今回「食べ物のムダだからやめろ」となったわけですね。爆食いの動画も全部削除されたそうだし。

そして、食堂で食事を残さず全部食べた人には、店から日本円にして100円程度のクーポン券を進呈する、ということも始めたそうです。

中国では最近、食料輸入が厳しくなってきているそうで、それが今回の「食べ残し禁止令」の大きな理由の一つだと言われていますけど、何がどうあれ、食べ物を粗末にしてはいけませんよね。

今回の習近平の号令で、中国人の食習慣も変わるんでしょうね。次、また北京へ行ったとしたら、今度は食堂で残さず全部食べられますね~
まあ、行くことはないと思いますけど。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

横田めぐみさんの拉致現場を見て

2020年06月07日 | 思い出すこと

北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお父さんの横田滋(しげる)さんが老衰で亡くなられたと、昨日のニュースで報じられました。奥様と共に、僕らには想像もできないほどの辛い人生を送ってこられたものと思います。

この横田めぐみさんの拉致事件に関する話を聞くと、必ず思い出すことがあります。今から12年前になりますが、2008年(平成20年)の10月。新潟へ出張に行った時のことです。

仕事を終えて大阪に帰ろうと、空港までタクシーに乗ったけれど、まだ時間に余裕があったので、新潟市内を適当にめぐってもらうことにした。しばらくして、タクシーは海に近づいて行き、人通りのない細い坂道を上がって行くと、右手に学校のような建物が見えてきた。

「この、右に見えるのは中学校なのですが」とタクシーの運転手さん。
「二葉中学校と言います」
「えっ? フタバ中学校?」と僕は聞き返した。
この中学校に、何か由来があるのだろうか
すると運転手さんは驚くべきことを言ったのです。

「二葉中学校は、拉致された横田めぐみさんが通っていた中学校なんです」
「えぇっ、何ですって?」と僕は聞き返した。
ここが? 横田めぐみさんが通っていた学校? 
いきなりのことだったので、本当に驚いた。

事件が起きたのは1977年(昭和52年)11月15日のこと。一人の少女が忽然と姿を消したのは、この中学校からの帰り道だったというのです。当時めぐみさんは中学1年生で13歳。まだあどけない年頃です。

「そうですか。ここがめぐみさんの通っていた中学校だったんですか
僕は身を乗り出して右手の窓から校舎を眺めながら、もう、それ以上の言葉は出てこなかった。

タクシーはめぐみさんの通学路だった海岸に沿った道を走り始めましたが、整備の行き届いた道路と公園の木々の緑は美しかった。しばらく行ったところで運転手さんが車を止め、再び口を開きました。

「このあたりでめぐみさんが拉致されたのだろう、と言われています」

ごく普通の道路と、ごく普通の歩道があり、海辺の方は木々が生い茂り、何とも穏やかな風景だった。こんなところで

この辺のどこかに悪魔が潜み、何の罪もない一人の純真無垢な少女を肉親から引き裂き、少女が育んできたすべてのものを奪い去ったのだ。その時、めぐみさんがどんな思いだったか。想像しただけでも身震いがする。

そんな思いを巡らすと、だんだんと気が重くなってきた。

運転手さんは前方を見つめながら、淡々とこう言いました。
「めぐみさんは絶対に生きていますよ。でももうこちらには戻って来ないんじゃないかと、思いますね。ご本人の意思としてもですね」

そんなことを途切れ途切れに、噛み締めるような口調で言ったのです。

そしてさらに運転手さんは、こう続けました。
「めぐみさんは結婚して、子どもさんもいるし。それに、あちら(北朝鮮)ではかなり優遇されているんだと思いますよ。もう何十年もあちらで暮らしているんですからね。もちろん、お父さんやお母さんに会いたいでしょうけど、今の自分の生活や家族も捨てられないのではないでしょうか」

地元の人たちはみんなそう言っている、とのことでした。
「それは、めぐみさんは元気で暮らしているんだという願いを込めた思いでもありますが」
と運転手さんは自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。

この言葉は、今も忘れられません。

「では、お時間ですから、このまま新潟空港に向かわせてもらいます」
車が動き始める。
「ええ、お願いします」
と返事をしたあとのことはほとんど覚えていない。視界から遠ざかる海辺の光景だけが、今も強烈にこの目の奥に焼き付いています。

 ………………………………………………………………………………………

めぐみさんが行方不明になったのが1977年。その後20年経った1997年に北朝鮮の拉致疑惑が表面化して、横田滋さんはその時結成された「拉致被害者家族の会」の代表に就任しました。それ以来、僕たちは20年以上、横田さんご夫妻の活動をニュースで見てきました。

滋さんのお人柄の良さそうな笑顔と、奥様である早紀江さんの優しくてかつ凛々しい表情に、逆に僕たちが勇気づけられることも多々あったほどです。

滋さんのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

八戸市のT先生のこと ~10年前のブログです~ 

2019年09月10日 | 思い出すこと

前回、八戸高校の短歌部の皆さんが高校日本一になったことを書きました。その指導をされているのがT先生なんですが、そのTさんから、初めてメールをいただいた時のことを思い起こしました。そして、今からちょうど10年前に、このブログで詳しく書いていたことを思い出しました。

初めてTさんという方から、驚くべきメールをいただいたことに、当時、僕も一言で言い表せないほどの感激をしたことは、今も忘れられません。

今回のことがあって、改めて当時のブログを読み返し、懐かしさに浸っています。で、もう一度、当時の2本のブログをここに紹介させていただきたいと思います。僕にとって、とても記憶に残る記事だったし、それを記録として再度ここにご紹介したいと思う次第です。

いずれも2009年8月のブログですが、初めてT先生からメールをいただいたのは、その何年か前のことでした。

まずこのブログから。

 八戸の奇跡

 

そして、それから数日後の、これもTさんに関するブログです。

啄木歌碑を巡る冒険

 

懐かしいです。
当時、yukariさんもコメントをくださっているのも、懐かしいですね~
 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「人生のお師匠はん」 田辺聖子さん

2019年07月02日 | 思い出すこと

今日は前々回のブログ「あかんたれ」でも触れ、いつもコメントを下さるみゆきさんも愛読されていたという田辺聖子さんのことです。先月に亡くなられ、淋しい思いをしておられる方も多いと思います。

さて、かなりの昔、1970年代に「ポセイドン・アドベンチャー」という映画があった。豪華客船のポセイドン号が大津波に襲われて転覆し、船は大きく破壊され、しかも天井と床がさかさまになってしまう。辛うじて生き残った船客たちが必死の脱出をはかる。そんなスリリングな映画で、僕はこれをアベノの映画館で見て、あまりの迫力に大興奮したことを覚えている。

   

それから何年か後に、田辺聖子さんが出した本の題名を見てひっくり返りそうになった。これです。


   

ほんまに、うまいこと考えはるなぁ、と感心しました。

聖子さんの本って、題名も面白いものが多いんですよね。

 「言うたらなんやけど」という大阪弁丸出しのタイトル。昔の大阪のおばちゃんは、必ずと言っていいほど、この言葉を口にしていました。

また「人生は、だまし だまし」というタイトルを見ただけで、ふ~む、そうやなぁ、それがうまく生きていくコツかなぁ、と思ったり。

最近読んだエッセイ集のタイトルも「そのときは そのとき」というもので、これもまぁ心配ごとがあっても「そのときはそのときやがな」とブツブツつぶやくと、少しは気分が楽になるような

そんなことで、このブログでも何度か、田辺聖子さんを読んで励まされたことについて、書いています。

例えば、2013年3月のブログで「最近耳鳴りがまた大きくなった」という悩みを書いたのですが、その時に前述したように「人生は、だましだまし保ってゆくもの」という聖子さんの一文に出会いました。そして「すてきなのは、いくつになっても人生を面白がっている男」という一節もありました。これを読んで、僕も耳鳴りを気にして落ち込んだりせず「だましだまし」の精神で、残りの人生を面白おかしく過ごせるようになればいいなぁと、そのブログで書いています。

また、翌年3月にも聖子さんのことを書いています。

この時期、僕は、十数年ぶりにフルマラソンに挑戦しようと、申し込みも済ませ、大会事務局からゼッケンも送られ、張り切って練習を続けていたのですが、間近になって調子を崩してしまい、やむなく出場をあきらめました。本当に悔しく、無念の思いでした。

ブログにそういうことを書いたのですが、最後に田辺聖子さんの文章に心を打たれたことを書き加えています。こんな文章です。

若さや栄光を失うときわれわれは乗り換えしなければいけない。新しい行く先を求めて。「体力低下、気力減退線にお乗換え願いま~す」。その連呼を耳にとめて、人ははっと我に返る。いつまでもこの線でいいと思っていたのは、誤りだった。ここから別の線に乗り換えて生きなくてはならないのだ。そうやって、乗り換え乗り換えして乗り継ぎをしつつ、終点までやってくるのが、人間の一生かもしれない。

これを読み、納得しました。

気持は若いままでも、やはり体力は低下し、気力は減退する。それなりに乗り換え・乗り継ぎをしながら、終点に向かわなければならないというこの言葉は、胸にジンと来ました。

言うたらなんですけど、田辺聖子さんは「人生のお師匠はん」みたいなもんでした。そのお師匠はんがとうとう「終点」まで行ってしまわはった。やっぱり淋しいですわ。

 

 

 

人生、老いると不安なことも多いけど、
まあ、あんまり心配せんとき。

そのときは、そのときや。

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

直木孝次郎先生のこと

2019年02月20日 | 思い出すこと

一昨日(18日)の朝。朝日新聞一面の右側にその日の主なニュースの概略が出ている欄がありますが、そこの一つに顔写真入りで、

古代史 直木孝次郎さん死去

と書かれていました。いつも新聞を読むときはまずここから目を通すので、そこの「直木孝次郎さん」という太字の見出しはすぐに目に飛び込んできました。このお名前は、僕にとってはとても懐かしいお名前だったのです。


 
 2月18日の朝日新聞一面

 


その日の社会面(32面)

百歳のご長寿だったとのことです。

直木孝次郎さんとは、何度かお会いして、何かとお世話になった思い出があります。

今年の1月31日に「奇妙な初仕事と中之島図書館」というブログを載せました。

22歳の時、就職した松原市役所で僕が最初に配属されたのが「市史編さん室」という部署だったことを書いたものでした。古代史から近代史まで、市史を執筆してくださる何人かの大学の先生方が市史編さん室に出入りされていました。僕はその先生方から指示を受けて事務的作業をする、という役割も受け持っていました。

その先生方のお一人が、直木孝次郎先生だったのです。

先生は古代史を担当してくださり、時々市史編さん室に顔を出され、僕は先生からの指示を受けていました。また、雑談の中でいろんなことを教えてくださいました。直木先生は当時から高名な方で、松原市内に住む郷土史家の人たちが、僕に「直木先生と直接話せるやなんて、あんた、ええなぁ」と羨ましがられたものでした。それほど著名な先生だったんですよね。

なので僕は「へぇ~、直木先生ってすごいんや」と思いましたが、「高名な学者先生」という割には、ちっとも偉そうとか「威厳」とかの風はなく、僕みたいな下っ端職員に対しても、やさしく、とても丁寧な物言いをされるので、こちらが恐縮してしまうほどでした。

僕は市史編さん室には2年足らずいただけで、すぐに別の課に移動しましたので、直木先生とは最後にご挨拶して以来、お会いしていません。でも、あの色白で温厚なお顔や、知的にしておやさしいお人柄、そして僕と同様に小柄だったことに親しみを感じたことも、強く印象に残っています。

そして昨日の「天声人語」にも、直木先生のことが書かれていました。

 

 

さらに今日の朝刊の文化・文芸欄には「直木孝次郎さんを悼む」という記事がありました。やはり、相当大きな業績を残された方だったんですね。 

新聞を読んだり、テレビのニュースなどを見たりしていると、それに関して昔の遠い記憶が目を覚ますことがよくあります。今回の直木先生の訃報の記事からも、これまで眠っていた幻のような記憶が、ありありとよみがえってきました。

先月末にこのブログで48年前の「市史編さん室」での仕事のことを書いたばかりなのに、1ヵ月も経たないうちに、当時お世話になった先生の訃報に接するというのも。何の巡り合わせなんでしょうか。

心より、ご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 

 

コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

奇妙な初仕事と中之島図書館

2019年01月31日 | 思い出すこと

大阪は今日は久しぶりに雨が降っています。昼頃から降り始め、いま(夜)も降っています。全国的に、特に関東地方は雨が降らず、乾燥し、川も干上がり、お肌もカサカサ、というニュースが流れていますが、わが家の近くの大和川も水位が極端に下がっています。

なので、これは恵みの雨かなぁと思ったりしています。

さて、今日は1月31日ですね。明日からもう2月です。そして2月はさらに早いです。次に気がつけば、もう3月でっせ~。「早いですね~」。このセリフ、何度書いて来たでしょうか。書いても書いてもまた書いてしまいますわ。「早いですね~」。

今年の3月31日で、僕が仕事を定年退職してから丸10年になります。つまりフリーの身になってもう10年です。これもあっという間でした。

22歳の時から10年前に退職するまでの38年間、大阪府の松原市役所に勤めたわけですが、そこへ就職した当時のことは今も鮮やかに覚えています。

郵送で合格通知をもらい、松原市役所へ行き、同期となる新人職員の中に交じって人事課の人の話を聞き、何日間かの研修がありました。そしていよいよ配属が決まるわけですが、僕が最初に配属されたのは

辞令をもらって、それを見たら「秘書課勤務を命ず」とありました。

はぁ…? 秘書課といえば、市長の秘書? いきなりそんな華やいだ部署に配属とは、まぁよかったんじゃないかな、と思ったりしました。

ところが

案内された部屋は、秘書課秘書係の隣の部屋。誰もいない部屋。隅っこに机が一つあるだけで、あとは会議室のように机が置かれ、壁には本棚があって、なんだかわけのわからないアルバムや冊子のようなものがズラッと並んでいる。その隅っこの一つの机が僕のデスクだったのです。

「ここは何ですか?」と人事課の人に聞けば、「市史編さん室です」という答えが返って来ました。まだ職員は誰もおらず、どうやら新人の僕が「初代」の担当職員のようでした

「なに、これ?」と思いながら聞いていると、この度「松原市史」というものを刊行することになったという。

市内に住む元庄屋さんとか旧家とかに残っていた昔の古文書をお借りして、そういう文字を読み解いて普通の字に書き移す専門的知識のある嘱託職員が1人か2人、おられた。そして時々、市史を執筆する何人かの大学教授がこの部屋を訪れた。僕はその先生たちのお手伝いをする、という役割だった。そんなふうにして「松原市史」を作って行くみたいだった。でも、こんなのが市役所の仕事かいな? と正直、思いましたね~

僕の上司である秘書課長は、市史編さん室の部屋の隣にある秘書課で忙しく仕事をしており、僕にはほとんど目もくれなかった。つまり「市史編さん室」というのは、ほかの秘書課職員からはほぼ無視されている部署であることが、日を追うにつれ、だんだんわかってきた。つまり、秘書課としては「仲間外れ」みたいな部署だったってわけですね。

そんな時、僕が命じられたのは、大阪府立中之島図書館に通うことであった。いったい、何をするために中之島図書館へ? と思いますよね。それは、こういうことでした。

中之島図書館の閲覧室で、明治時代に創刊された新聞を順に目を通し、その中の松原と周辺の河内地方に関する記事をピックアップし、コピーをするのです。それが「松原市史」の材料になるという。新聞には「松原」なんてほとんど出てこないから、とにかく「河内」という言葉が新聞に出ていたら、そこをコピーして集めなさい、という大学教授の指示だった。たとえば「河内木綿、今年は豊作」といったような記事を見つけたら、それをチェックし、後でコピーするのです。

そんなことで、市役所に就職してから最初の半年間以上は、特別な日を除き、ほとんど市役所へは出勤せず、直接、朝から中之島の図書館へ行き、夕方まで新聞を閲覧する日が続いたのです。なんだかねぇ。

いったい僕は、どこへ就職したんや? と、情けない思いもしたし、同期の職員からは「おまえは何の仕事しとんねん。ヘンやなぁ」などとからかわれたりした。まだ結婚して間もなかった頃で、妻にも、どれだけ仕事の愚痴をこぼしたことだろうか?

でも、そんなことだから、逆に図書館の館長さんとは懇意になったりもした。顏が合うと「昨日は来なかったね~」などと笑顔で言ってくれたりした(今もその笑顔が思い浮かびます)。

市役所に入って、市民課とか、福祉課とか、税務課とか、そんな仕事に就くものとばかり思っていたので、まさかこんな仕事に回されるとは、思いも寄らないことでした。

まぁ、過ぎ去ってみれば懐かしい話ですけどね~。
もう
今から数えたら48年も前のことになります。

ところで、
そういう過去があった、ということを踏まえての話ですが

去年の12月18日に、「あさが来た」に登場する五代友厚の像などを見学するために、久しぶりに中之島を歩いたことをブログに書きました。中之島を通り過ぎたところに五代友厚像があったのですが、その中之島を歩いた時、「懐かしの図書館」の前を通りました。

48年前、毎日のように仕事で通った中之島図書館です。この前を通ると、当時を思い出さずにはいられません。


 
12月に、中之島のこのコースを歩きました。 


 
中之島図書館の正面からの写真(2枚とも去年12月18日に撮影)

 …………………………………………………………………………

当時、図書館で明治時代からの新聞を読んでチェックしていたのですが、その新聞はおそらく朝日新聞だったのでしょうね。でもその新聞は明治のいつごろから発行されていたんやろ? 僕は中之島の図書館で、いつごろからの朝日新聞を読んでいたのやろ? そういうことは、今思い出そうと思っても、すっかり忘れてしまってます。 

そんな折、この25日の朝日新聞を見てビックリしました。

その日の朝日新聞の1面に

「朝日新聞 きょう創刊140周年」

という記事がありました。1879年、明治12年に創刊、それも大阪です(東京での創刊はその数年後でした)。

げぇぇぇ~~~

今年の1月25日が朝日新聞創刊140周年だったとはね~


   
   1月25日の朝日新聞朝刊から

ということは、僕が48年前に中之島図書館で読んでいた明治時代からの新聞は、1879年(明治12年)からの新聞だったことになりますね~

へぇ~~。そうやったんや。

今は昔の物語ですが、48年を経て、こういう記事を見ると、やはり何だか懐かしさで涙が出そうになりますね~

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昭和が終わった日

2019年01月07日 | 思い出すこと

きょう。
1月7日という日は、忘れられない日です。

昭和天皇が亡くなられたのがちょうど30年前。1989年(昭和64年)の1月7日でした。僕は早朝のテレビニュースでそのことを知りました。


 

  

 

その日は土曜日で、僕は長居競技場で行われる駅伝競争に出場する日でした。ですから、ゆっくりテレビを見る時間もなく、早々に長居へ行き、仲間たちと一緒にレースに出ました。

そのあと、午後のことです。

自分たちの出番を終え、長居競技場の観客席に座って別のレースを見ながら、愛用していた小型ラジオをイヤホーンで聴いていたら

「新しい元号が決まりました。平成と決まりました」

と放送されたので、「へぇ~? 『平成』ってか…?」と思いつつ、走る仲間たちに「新しい元号が『平成』って決まったらしいよ」と教えてあげたことを覚えています。

元号は「昭和」しか知らないので、「平成」という新しい元号に、果たしてなじめるのだろうか? という気持ちも、その時、心のどこかにあったことも覚えています。

そして、翌日の1月8日から平成時代が始まりました。個人的なことを言えば、この8日は、僕にとって30代最後の日でした。その次の日、つまり1月9日に僕は40歳の誕生日を迎えたのです。

それから30年

今年、2日後の1月9日に、僕は70歳の誕生日を迎えます。70歳なんて、自分がそんなオジンの年齢になるとは今も信じられないんですけど、事実だから仕方ありませんよね~。みんな、平等に年を取って行くんですから。

それにしても僕は、平成が始まった時に40歳になり、その平成が終わる今年に70歳になるんですよね。まぁ、わかりやすくていいですけど(笑)。

この30年間、言い尽くせないほど、いろいろなことがありました。

もちろん、皆さん方にとっても、30年間というのは膨大な時間の流れだったと思いますし、その年月を振り返られたら、さまざまな思い出が胸をよぎることだろうなぁと拝察いたします。

本当に、早いですね。年月の経つのは。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

犬のおまわりさん ♪ で思い出すのは

2018年12月06日 | 思い出すこと

先日、「3年B組金八先生」や「渡る世間は鬼ばかり」に出演していた女優の赤木春恵さんが亡くなり、お別れの会が開かれた様子などがテレビに映し出されていました。94歳ということでした。ご長寿でしたね~

「お別れの会」で「金八先生」の武田鉄矢が「本当にお母さんのようで、やさしい人でした」と話していましたが、武田鉄矢は僕と同じ年なので、赤木春恵さんも僕の母と同世代ということになります。

調べてみると赤木春恵さんは1924年(大正13年)生まれということですが、うちの母は1928年(昭和3年)生まれなので、母が4歳下になります。ということは、母が生きていれば、今年でちょうど90歳なんですね~。

そうか、おかんが生きていたら90なんや、とこのニュースを見ながら、そんなことを思っていました。

さて、その数日後、またひとつ訃報が入りました。

大中恩(おおなかめぐみ)という男性の方なのですが、土田藍(つちだあい)というペンネームの作曲家で、これまた、赤木春恵さんと同じ94歳で亡くなったというニュースでした。

この人はどんな歌を作曲したかと言うと、童謡の「さっちゃん」とか「犬のおまわりさん」という曲なんですが、僕はこの「犬のおまわりさん」という歌に、いまでも忘れられない思い出があるのです。今日はそのことを少し

あれは長男が2歳くらいの時。つまりもう大昔の話になりますが、「犬のおまわりさん」という歌が大好きな子でした。いつもいつも、家の中でも外に出ても、その歌ばかり歌っていました。よほど好きだったんでしょう。

まいごのまいごの こねこちゃん
 あなたのおうちは どこですか
 おうちをきいても わからない
 なまえをきいても わからない
 ニャンニャン ニャニャーン
 ニャンニャン ニャニャーン
 ないてばかりいる こねこちゃん
 いぬのおまわりさん こまってしまって
 ワンワンワンワーン ワンワンワンワーン

僕も妻も耳にタコができるほど、その歌を聞かされ続けてきました。

あるとき、その2歳の長男と1歳の次男を乳母車に乗せて、妻と買い物に出かけたのですが

近所の信号を渡る所でおまわりさんが立っておられました。ふだんは見かけないので珍しいなぁ、何かあったのかな? と思いながら僕が「おまわりさんがいてはるなぁ」と、ふと口に出したら、乳母車の中で立っていた長男がギョロっとこちらを見て、「おまわりさん、いてるのん?」と興奮したように聞いてきました。

ちょうど、おまわりさんのすぐそばを通り過ぎようとしていたところでした。

「うん。この人が、おまわりさんやねんで」と、僕はおまわりさんに聞こえないように、小さな声でそう言ったのですが、その瞬間、2歳の長男は驚くほど大きな声でこう言ったのです。

「あぁ、おまわりさんか? あれは犬かぁ!」

長男は元々声が大きい子だったので、確実におまわりさんの耳に入っていたと思います。おまわりさんは、チラッとこちらを見て、すぐに視線を逸らせましたが、僕は冷や汗をかきました。おい、なんちゅうこと言うねん!

長男は「おまわりさん」と言えば「犬のおまわりさん」しか知らないのですが、警察官にとってみればそんなこと想像もしていないでしょうから、

「あれはイヌか!」

と言われたら、きっといい気分はしませんよね。ドラマで「お前はサツの犬か」なんてセリフがよくあった時代ですからね~

そんなことで、
作曲者の方の訃報と同時に「犬のおまわりさん」と聞くと、遠い遠い昔の出来事を思い出した次第です。

それにしても、あの昔々の「犬のおまわりさん」を作曲された方が、このたび94歳で亡くなられたとはねぇ。

94歳

94歳まで生きるとしたら、僕はまだあと25年もあります。

まあ、僕はそんな長生きするはずがない、というのは、自分の健康状態を知っているだけに分かっていますけど。

でも、赤木春恵さんもこの作曲家さんも、
お二人とも94歳って、すごいですね~

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飲酒パイロットと赤緑色弱

2018年11月19日 | 思い出すこと

パイロットと言ってもボールペンや万年筆ではありませんよ。飛行機を操縦する人です。その操縦士が、ロンドンのヒースロー空港において、乗務前の飲酒で警察に逮捕されたニュースが大きく報じられました。逮捕されたのは日本航空の副操縦士。現地の基準値の10倍以上のアルコールが検出されたというのですから、驚きです。

これを機に、日航はパイロットの乗務前アルコール感知件数を公表したけれど、この1年余りで日航グループ社全体の感知件数は25件だったそうです。けっこう多いですね。「ほろ酔い操縦」なんてされたら、お客さんはたまったもんじゃありませんね。なお、この副操縦士は、現地警察に逮捕される直前の社内検査では、意図的に不正をして検査を逃れたということです。これもねぇ、恐ろしい話ですよ。

どうも、日本の航空会社のアルコールに対するチェック体制が全体的に甘い、というのが事実のようです。ということは、これまでも似たようなことが何度もあったのだろう、と思いたくなります。 

また、アルコールのチェックに引っかかって乗務が取り消された場合でも、会社側は「体調不良のため」と発表していたようです。まぁ「機長が酒臭いので今回のフライトは取りやめます」なんて言ったらお客さんたちはカンカンに怒りますものね~

19年前、妻と長男と3人で、ロンドン、パリ、ローマの旅行に出かけたことがあります。十数名のツアーだったのですが、旅の最後の日はローマで、その日の午後にそこを出発して帰国の途につくはずでした。

ところが、添乗員さんが朝食の時に「実はきょう乗る予定の飛行機のパイロットが体調不良のため、その飛行機が飛ばなくなりました。恐れ入りますが滞在を1日伸ばして、明日の午後に出発ということにさせていただきます」
  
そう言ったのです。その日は土曜日で、僕は1日遅れても日曜日に帰宅すれば仕事に影響はないので、むしろもう1日ローマを楽しめるのでシメシメと喜びました。

しかし、ツアー客の中にはそうでない人もいました。

「パイロットって1人しかおらんのか? 1人が体調を崩したら飛行機が飛ばんって、そんなアホなことあるかいな」

その人は、翌日までず~っとボヤいていました。そりゃ、1日でも帰国が遅れると大きな支障が出る人もいるでしょう。

でも、日本の飛行場なら「代わり」のパイロットがいるかと思いますが、外国の空港にはそういう「代わり」がいないそうなんですね。

前述したように、パイロットの体内にアルコールが残っていたことがわかっても、航空会社はこれまでは「体調不良」としか発表してこなかったという話を聞くと、ひょっとしたらあの時、ローマから出る飛行機のパイロットが操縦できなかった理由が単なる「体調不良」でなく、実は酒を飲んでいたのではないのか? という疑いが頭をよぎったりしますよね~

そんなわけで、今回のニュースを見て「パイロットの体調不良」のため僕らのローマでの滞在が1日増えたことを思い出しました。

このニュースに関して専門家が話していましたけど、最近はパイロット不足なんだそうです。人気のある職業だと思うんですけどね。

僕らが子供の頃は、パイロットになりたい、という夢を持っている子供たちが大勢いました。かく言う僕も、小学生の時は「なりたい職業」はパイロットでした。勉強ができたわけでもないのにね~ でもカッコよさでは、どんな職業よりも輝いているように見えました。

まぁ子供の頃ですから、僕もどこまで本気でパイロットをめざしていたのかは、はっきり覚えていませんが、次のことだけは記憶にあります。

ある時、小学生の時か中学校の時か忘れましたが、身体検査の時に色覚検査という初めて受ける検査がありました。いろんな色の大小の丸がぎっしりと詰まっている模様に描かれている数字を読み取る検査でした。もちろん、こんな検査を受けるのは初めてでしたが。

    
    こんな感じのものでしたね
 

その検査の結果、僕は「赤緑色弱」と言われました。つまり、赤と緑で描かれた数字がうまく読めない、ということなんだそうで。

「なんのこっちゃ?」

赤も緑も僕はちゃんと見えてます。でなきゃ、信号の色がわからん、ということになりますもんね。僕がそう言ったら、先生は「大丈夫よ。色弱は日常生活には何の影響もないわ」と言いました。なら、一体この色覚の検査って何のためにあるんだ、と子供心に不思議でした。こんな「モヤモヤした色紙」みたいなものがあるから、赤緑色弱なんてレッテルを貼られるわけで、これがなければ僕は色弱でもなんでもないんだよ、と思ったものです。

その後、たぶん高校生くらいの頃。まだパイロットの夢を捨てきれなかった頃ですが、衝撃の事実を知りました。それは、パイロットの資格条件として、ダメなものの中に「赤緑色弱」が入っていたのです。「ええ~?」とのけぞるほど驚いたことを覚えています。「ほんなら、僕は赤緑色弱やから、いくら勉強してもパイロットにはなられへんねんなぁ」と、悲しかったですわ。

今、NHKで放映されている朝ドラ「まんぷく」で、福ちゃんの姉さんの旦那さんで、要潤さんが演じている絵描きさんがいます。この人が戦争で光線を浴びて目がおかしくなり、「赤と緑の区別がつかない」と、がっくり肩を落とす場面がありました。これも赤緑色弱なんだそうです。この場合はかなりきつい症状で、そのために一時期は絵が描けなくなるのですが、青を使った絵を描いて復帰したという話がありました。これを見た時、自分が赤緑色弱だと言われたことを久しぶりに思い出しました。そしてさらに今回のパイロットの飲酒のニュースがあったので、「あ、パイロットと言えば、そんなことがあったっけ」と、また少年時代の赤緑色弱のことを思い出したというわけです。

でもね~。まかり間違って僕がパイロットになっていても、酒好きの僕ですからアルコール基準値は上がりっぱなし。会社から何度も注意されたあげく、クビになっていますわ。で、パイロットにならなくてよかったなぁ、と今では思っています。

(そのアタマで、なれるはず、ないやろ~)

 

 

 

 


 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「小鳥遊」 ってなんて読む? 

2018年10月13日 | 思い出すこと

先日始まったばかりのTVドラマに「リーガルV・元弁護士・小鳥遊翔子」というのがありました。

僕は新聞でこのタイトルを見て「うわっ」と思いました。というのは、主人公の米倉涼子が演じる元弁護士の名字が、タイトルにも使われている「小鳥遊」という、なかなか読めない難しいものだったからです。

僕はこれを「たかなし」と読むということを、むかしむかしに読んだ本で覚えていたのです。あぁ、これまた懐かしい話ですわ~

50年も昔の話になります。

僕は高校から大学にかけての頃、読書が一番の趣味でしたが、中でも大学の時に出会った北杜夫のエッセイ集にはメチャ傾倒しました。とにかくユーモアたっぷりで、読みながらお腹を抱えて大笑いしたり、クスッと笑ったり、う~んと唸ったり、はぁ~とため息が出たりと、もう面白くて面白くて仕方がなかった。自分の読書歴の中で、これほどハマった作家は他にいないと言ってもいいくらいです。今の僕自身の文章も、いまだに北杜夫の影響をかなり受けているように思います。

その北杜夫が何かのエッセイの中で、今もよく覚えているのが「世の中にはとても面白い名字がたくさんある」という話でした。そこでいろんな変わった名字が紹介されていましたが、特に忘れられないのが「小鳥遊」という名字でした。

北杜夫によると、
「これは『たかなし』と読む。なぜか? それは小鳥たちの天敵である鷹がいない場所では、小鳥たちは自由に遊べるから、というのが由来。つまり、鷹がいない→小鳥たちが遊ぶ→小鳥遊で『たかなし』と読むのである」
ということが書いてありました。

その時から「小鳥遊」という名字については、いつも頭の隅にありました。

そして今回の米倉涼子のドラマのタイトルですからね~。
ホント、50年前の記憶が、鮮やかによみがえってきましたよ。

でもまぁ、珍しい名字とは言うものの、いま、パソコンで「たかなし」と入力したら、ちゃんと「小鳥遊」という漢字が出てきたので、そんなに驚くほど珍しい名字ではないのかも知れません。ただ、その由来が面白いので北杜夫は取り上げたのかな~と今では思ったりね~

ところで、話は変わりますが、珍しい名前と言えば、NHKテレビの「ネーミングバラエティー 日本人のおなまえっ!」という番組で、いろんな名字が取り上げられていますね。

先日、見ていたら「浮気」という名字の方がおられました。「うき」と読むそうなんですが、パッと見たら「うわき」ですよね。これはさすがに、人に言いにくいでしょうね~。「うきです」と言うのはいいんですが「どんな字を書くんですか?」と聞かれたら、「え~っと、あの~」なんてためらってしまいますよね。

他にも「生江」と書いて「なまえ」と読む方がおられました。「お名前は?」と聞かれた時が一番困るようです。「お名前は?」と聞かれ「なまえ、です」と答えたら、相手は「はぁ?」と首をかしげますよね。

また「甘庶」と書いて「かんじゃ」と読む方もおられました。なんとこの方は病院で働かれているそうです。患者さんではなく、甘庶(かんじゃ)さんです。

そんなことで、
まぁ、珍しい名字は沢山ありますが、子どもの時はそれでイジられたりしますよね。僕が高校の時に「雨森」という友だちがいましたが、クラスの者は全員名字を呼ばず「ジャジャ」と読んでいました。雨漏り→ジャージャーという発想でしょうね。本人も「ジャジャやぞ~」と、自分で言ってましたわ。

あ、そうそう。また別のことを思い出しましたが、3年前のこのブログで、

「浮気と書いて何と読む?」

という記事を書いたことがあります。この「浮気」は人名ではなく地名ですが、ちゃんとした地名だから、地域には「浮気保育園」というのがあったり、「浮気自治会長」という人が存在したりするのです。そんな話題を取り上げました。ここの場合の「浮気」は「ふけ」と読むのだそうです。先ほどの名字の「浮気」さんは「うき」と読むそうですから、いろんな読み方があるんですね。

ということで、これでおヒマなネタは終わりです。


ちなみに、北杜夫が亡くなった時のブログを掲載させてもらいます。

北杜夫、亡くなる ~2011年10月27日~

ついでに、熱烈なる北杜夫ファンとして書いたブログもあります。

「のんき」の自分史 ~2011年8月5日~

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする