僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

「また逢う日まで」 で思い出すのは

2020年10月17日 | 思い出すこと

このたび亡くなられた筒美京平さんの曲の中で、最も有名なものの一つに尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」がありますね。
この曲に、僕はいつも心を揺り動かされます。
きょうはその理由を書いてみたいと思います。        

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「また逢う日まで」が大ヒットしたのは1971年(昭和46年)だった。この前も書いたように、当時22歳で大学4年だった僕は3月初旬に結婚し、1週間後に卒業した。就職先に関しては、今でいう就活には不熱心で「どこでもええわ」っていうノリで決めた小さな和楽器店に勤めることになった。

あえて言えば、大学1年生の時、琴や尺八を演奏する「邦楽部」という、いささか風変わりなクラブに所属していたことがあるので、和楽器を扱うところだったら少しは馴染めるだろうと思ってそこに決めた、とも言える。

そこで僕が命じられたのは、アベノ近鉄百貨店の和楽器売り場への出向だった。百貨店の店頭に立つとはねぇ。思いも寄らなかったけど。

和楽器の売り場は、僕ともう一人アルバイトの女子学生の子とでやっていたけれど、ヒマだった。琴や尺八や三味線がそれほど売れるわけないしね。お客さんというのは、和楽器の付属の小物とか、琴を弾くときの爪とか、謡曲の冊子などを求める人が大半だったが、それでもヒマなのでほぼ立ちんぼのまま。

当時近鉄百貨店は木曜日が休みで、もちろん日祝日は出勤日。勤めていた妻ともゆっくり過ごせる時間がない。新婚なのに休みの日が合わないのは寂しい。家に帰ると幸福感に満たされるが、売り場に来て立っていると、虚しさがこみ上げてくる。また、僕は出向社員なので、楽曲関係の売り場の責任者も、百貨店の正社員とは扱いも違い、時にはみじめな思いもさせられた。社会人の厳しさを身をもって知らされたわけですね。

結局、そこは3ヵ月で退職して、夏に松原市役所の入所試験を受け、8月から地方公務員としての生活が始まったことは先日も書きました。

ところで、僕がいた近鉄百貨店の和楽器売り場のすぐ横にレコード売り場があった。そこで開店から閉店までず~っと流れていた曲が「また逢う日まで」だった。

ほかにもキャンペーン曲は流れるのだけれど、ほぼ2、3曲に一度の割合でこの曲が流れた。それも大音響だ。そのすぐそばに立っている僕は、それがイヤでも耳に入って来る。来る日も来る日も「また逢う日まで」を全身に浴びながら、僕は売り場に立っていたのだ。

   タッタン タタンタタッ
  タッタン タタンタタッ
  チャッチャ~ン チャンチャンチャ~ン 
  チャ~ン タタンタタ~ン 
  また逢う 日まで~ 逢えるときまで~ 
  別れのそのわけは~ 話し~たくな~い 

開店から閉店まで、1日で何十回聴いたことだろう。なにせヒマなものだから、ボンヤリとその曲が聴こえるまま、歌も全部覚えてしまい、頭の中に刻み込まれてしまった。おそらくこれまでの自分の人生の中で、最も多く聴いた歌は、この歌だろうな、と思います。

それが、ここを辞めるまで、3カ月間続いたのでした。

「また逢う日まで」が耳に響く中で、僕は売り場に立ったまま、今のままでいいのか? 早くここを辞めて他の仕事に就いたほうがいいのか? そんなことを毎日考え続けていました。そして最後に「辞めよう」と決心した時も、この曲が流れていたと思います。

百貨店に最後に出勤した6月30日も、相変わらず一日中「また逢う日まで」が流れており、そして、僕はその歌に見送られるようにして仕事を終えたのでした。

あれから49年が経ちました。

地方公務員への転職後、60歳の定年退職までの約38年間の職場生活は、部署や上司にも恵まれ、とても楽しく仕事をさせてもらいました。

筒美京平さんの代表曲「また逢う日まで」が、今またテレビで何度も繰り返し流されているのを見て、あの百貨店の和楽器売り場に立っていた3ヵ月間を鮮明に思い出しました。

あまりの懐かしさに体が熱くなってきます。

 

 

 

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