僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

「舞いあがれ!」と近鉄バファローズ

2022年10月28日 | 思い出すこと

朝ドラの「舞いあがれ!」を毎日楽しみに見ています。
今は主人公の舞ちゃんも東大阪へ戻り、大学1年生になりましたね。

そこで、舞ちゃんたちがよく行くお好み焼き屋の「うめづ」というお店の主人(山口智充さん)なのですが、いつも近鉄バファローズのユニフォームを着ているんですよね。つまり近鉄の大ファンなわけ。僕はドラマで彼のユニフォーム姿が出て来るたびに懐かしさで胸が躍ります。今は無くなった近鉄バファローズだけど、このドラマの時代にはまだあったんですね。

 
  10月26日(水)の朝。BSプレミアムの放送での1シーン。
  (わが家のテレビより)
  

そこでドラマの時代設定を調べてみたのですが…

ドラマの最初のほう、舞ちゃんがおばあちゃんのいる五島列島へ行ったのは小学校3年生(たぶん8歳)で1994年の設定でした。そして今はそれから10年後ということですから、2004年ということになります。そこで近鉄バファローズの球団史を調べてみると、なんとこの2004年のシーズン終了後に、当時のオリックス・ブルーウェーブに吸収合併されています。つまりこの年が近鉄バファローズの最後の年になったんですよね。

その翌年からオリックス・バファローズとして今日に至っているわけですが、そうすると「舞いあがれ!」のお好み焼き屋「うめず」の主人が着ている近鉄バファローズのユニフォームも、この年限りとなります。ドラマの中で、この主人が近鉄球団が無くなることを知ったとき(たぶん、そういうシーンがあると思うのですが)どれだけ嘆き悲しむのだろうか、と、いささか心配になってきますわ。

さて、近鉄バファローズといえば、本拠地がわが街・藤井寺でした。近鉄電車の駅の前に藤井寺球場があり、子どもたちが小学生の頃はよく家族連れで観戦に行ったものです。今はもう取り壊されて、昔の面影はありませんけど。

そんなことで、「舞いあがれ!」を見ていると、久々に近鉄バファローズのユニフォームが見られたり、自転車旅行で行った思い出の五島列島・福江島の景色を楽しめたり、高校・大学と7年間通った東大阪市の空気を感じたりと、いろんな記憶がよみがえってきます。

あ、そうそう。小学生だった舞ちゃんが五島から東大阪に帰って来た時、お父さんに連れて行ってもらった生駒山の山頂にある遊園地で「飛行機」に乗って喜ぶシーンも懐かしい。僕もこれに乗ったことがありますが、山の頂上にある遊園地の飛行塔だけに、本当に空を飛んでいるような感覚がありました。

 

これまでの僕の人生で、遊園地で乗った乗り物の中で一番気分が爽快だったのが、この生駒山頂の飛行塔だったと思います。

ちなみに、逆に一番恐ろしかった乗り物は? と言えば
これはもう忘れもしない、東京ディズニーランドで妻と乗った、
「ビッグサンダー・マウンテン」でした。

2人とも「ギャァ~!」と悲鳴を上げっぱなし。あんな怖い目には、もう二度と遭いたくありません。

なんだか話がバラバラになってきました。
まぁ、いつものことですけど(笑)。

 

 

 

 

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ウエストミンスター寺院・エリザベス女王とダイアナ妃

2022年09月16日 | 思い出すこと

エリザベス女王の死去は世界各地でも大きく報じられていることと思います。今月の19日に予定されている国葬には天皇陛下も出席するとのことで、世界中から皇族や首脳陣が弔問に訪れるのでしょうね。

今日は静養地のスコットランドで亡くなられた女王のご遺体がロンドンに戻って来た様子が何度もテレビで映し出されていました。女王が生前に過ごされたバッキンガム宮殿も映り、葬儀が行われるウエストミンスター寺院も映っていましたが、その周辺は無数の人々で埋め尽くされていたのを見ると本当に国民から愛されていた女王様だっんだなぁと改めて思いましたね。

僕はロンドンには一度だけ行ったことがあります。中でも最も印象に残っているのがこのバッキンガム宮殿の周辺で、特にウエストミンスター寺院が忘れられません。ここはあのダイアナ妃の葬儀が行われた寺院なのでした。

ロンドンへ旅行したのは1999年1月で、妻と長男と3人での旅行でした。実はその1年半前に、ダイアナ妃が交通事故で非業の死を遂げたのでした。あの時は世界中の人たちが衝撃を受け、悲しんだ。そして僕たちがロンドンに行った時も、まだまだダイアナ妃の死に対するロンドンっ子の悲しみは消えていなかったようで、ツアーのガイドさんも熱い口調で彼女に関するいろんなエピソードを語ってくれました。 


 
テムズ川にかかる橋の上で。
後方の国会議事堂にそびえるビッグベンに向かって橋を渡り、
その裏側にあるウエストミンスター寺院へ行った。

ウエストミンスター寺院の前に来ると、
「こちらが、ダイアナ妃の葬儀が行われた寺院です」

とガイドさんが説明をしてくれました。
「そう…。ここでダイアナ妃の葬儀が
あの、美しかったダイアナ妃の顏が眼に浮かびました。

   
 ウエストミンスター寺院前で。

背景の寺院が白っぽくてわかりにくいので、
ネットの写真を載せます 

 
これだとわかりやすいですね。


そして、エリザベス女王がおられるバッキンガム宮殿もこの近くにあります。

ガイドさんの説明では、宮殿の建物の上の奥にある窓から旗が出ている時は女王様がご在宅で、出ていないときはご不在だということでしたが、その時は、かなり遠くで少しだけしか見えなかったのですが、
「あ、旗が出ていますね。女王様はいらっしゃいます」
とガイドさんが笑顔で言ったことを覚えています
まあ、窓からお顔を出されて手を振っていただけたら
嬉しかったのですが、一日中そんなことできませんしねぇ。

さて、そこから「衛兵の行進」というのが始まりました。

バッキンガム宮殿から兵隊さんたちが行進してくるのですが、これを目当てに大勢の観光客が訪れるということでした。

やがてその時間がやって来ました。

 
  画面後方に見えるのがバッキンガム宮殿です。

 

 
 そして衛兵たちが行進を始めました。
 迫力満点でしたよ。

このたびのエリザベス女王の死去に伴い、葬儀がウエストミンスター寺院で行われると聞き、その寺院の名称からダイアナ妃を思い出し、そしてロンドンの街をめぐった時の記憶が鮮明によみがえってきた次第です。

ダイアナ妃が亡くなられてから25年。
当時36歳という若さでした。

一方、エリザベス女王は96歳というご長命でした。
まさに大往生ですね。ご冥福をお祈りいたします。

 

 

 

 

 

 

 

 

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知床の観光船 あの絶景を思い出す

2022年04月24日 | 思い出すこと

北海道・知床半島の沖合で、26人が乗った観光船が遭難したニュースには、誰もが大きな衝撃を受けたことでしょう。今日(24日)の午後8時半の時点では、これまで10人が見つかり、いずれも死亡されたと報じられています。

死亡された10人の方々は全員が知床岬の先端付近で見つかったといい、船そのものはまだ見つかっていない。沈没したのか、あるいは遠くへ流されたのかと言われていたけれど、海上保安庁は「沈没した」との見方を示したそうだ。

「日本最大の秘境」と言われる知床半島を観光船から眺める光景は、僕も昔に行ったことがあるけれど、本当に素晴らしい。そんな最高の眺めを楽しむために乗った船でこんな恐ろしい事故が起きるとは、なんという悲惨なことだろう。

 …………………………………………………………………………

僕がこの観光船に乗ったのは北海道自転車旅行の時。もう50年以上も前のことで、時期は7月。網走の知り合いの家に数日お世話になっていたが、
「ここまで来たのだから、ぜひ知床の観光船に乗ってらっしゃい」
と勧められたので。

網走から列車に乗って斜里で降り、そこからバスに揺られること約1時間半でウトロ港に着いた。ウトロから知床をめぐる観光船は何種類かあったが、僕は、「ウトロ〜知床岬折り返し」のコースを選んだ。
片道約40キロ。所要時間は往復で4時間30分。

船からの景色はまさに絶景だった。

 
 1000m以上の山々(ほぼ火山)が連なり、
 海岸線は断崖が続く。左の方に滝が見える。


 
  ここが知床岬の先端です。


  
  同じ船に乗った女性に撮ってもらった。

 

  
  その時のパンフレットと、スタンプ。
  処分できなくて、今も手元に残しています。


知床の観光船と言えば、この日のことがよみがえります。
その日は 1969年(昭和44年)の7月21日だったのですが、
アポロ11号が人類で初めて月面に着陸した日でもありました。

そんな思い出深い観光船で、このようなことが起きるとは。
今もまだ、信じられない思いです。


 

 

 

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好きだった歌謡曲を思い出す日々

2022年03月27日 | 思い出すこと

近年はテレビの歌番組も少なくなりましたね。Jポップは別として、演歌・歌謡曲となると、地上波だとNHKの「うたコン」くらいしかないので、BSの歌番組を見て昔を懐かしんでいます。大好きだった歌が出て来ると、胸が熱くなり、涙がこみ上げてきそうになったり
歳、ですかねぇ。

僕は歌謡曲の歌詞が大好きで、歌を聴いて「ああ、いいフレーズだなぁ」と心に残ったものは数え切れないほどあります。

初めて覚えた歌謡曲は、小学生の頃で、橋幸夫の「潮来笠」だった。
何度も聴くうちに1番から3番まで歌詞を全部覚え、親やその知人の人たちの前で声を張り上げて歌ったこともある。
しかし歌詞の意味はわからない。たとえば2番の、
♪ 田笠の紅緒がちらつくようじゃ 振り分け荷物重かろに」は、
♪ たがさのべにおがちらつくようじゃ ふりわけにもつおもかろに」
って、耳から聴いて覚えたままを歌った。言葉の意味は全然わからずに。

それ以降、どれほど多くの歌に惹かれただろう。

沢田研二の「勝手にしやがれ」は、
行ったきりなら幸せになるがいい 
戻る気になりゃいつでもおいでよ~
というフレーズ。いいなぁ、ここ。
当時20歳代後半だった僕は、この部分が強く心に残った。
彼女に出て行かれても愚痴を言わない優しい男! な~んてね。

この作詞は阿久悠さんですが、同じく沢田研二の「サムライ」という歌詞は、その出だしの部分がすごい。
♪ 片手にピストル 心に花束
唇に火の酒 背中に〇〇を

というところでクイズです。
この〇〇には、何という言葉が入るでしょうか?

これはいつか聞いた話ですが、ある人が若者たちにこのクイズを出したら、
「入れ墨!」という答えが一番多かったそうです。
なるほど、「背中に入れ墨」ねぇ。
でも、ちょっと平易ですかね~(笑)。不正解です。
正解は「人生」でした。

♪ 片手にピストル 心に花束
唇に火の酒 背中に人生を
アアア
アアア

というふうに歌は続いて行きます。

イルカが歌う「なごり雪」も大好きです。タイトルも素敵だし。
汽車を待つ君の横で僕は
時計を気にしてる
季節はずれの雪が降ってる
東京で見る雪はこれが最後ねと
さみしそうに君がつぶやく

南こうせつの「神田川」は、ラストの歌詞に惹かれました。
♪ 若かったあの頃 何も怖くなかった
ただ あなたのやさしさが 怖かった~
聴き終えても、ジーンと余韻に浸れます。

さて、石川さゆりの「天城越え」の歌詞も傑出していますね。
♪ 隠しきれない 移り香が
いつしかあなたに 浸みついた
誰かに盗られる くらいなら
あなたを殺して いいですか
(強烈な歌詞ですよね)

ところで、僕はこの歌は愛人の胸中を歌ったものと思っていた。でも、何かの本に書いてあったのは、これは愛人ではなく、本妻だとのこと。つまり、その男に妻の香りが浸みついていても当然のことで、隠す必要はない。だから「隠しきれない移り香」というのは、夫に愛人ができたことを知った妻の視点に立った歌とわかる、ということでした(何の解説や)。
話は逸れますが、この歌に出て来る「浄蓮(じょうれん)の滝」は、一度伊豆方面へ旅行した時に実際に行ってみたのですが、思ったより小さかったのを覚えています。

最後に、小林幸子が歌う「雪椿(ゆきつばき)」も大好きです。
やさしさと かいしょのなさが
裏と表に ついている
そんな男に 惚れたのだから
私がその分 がんばりますと

よく言いますよね。
やさしい男には、かいしょがないって。
まぁ、平たく言えば僕のような男です。
え? なに?
アンタには? 両方とも? ないやろって? 

ほっといてちょ~だい。

 

 

 

 

 

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東側諸国 の地下鉄が深くて怖いわけ

2022年03月06日 | 思い出すこと

ロシアに侵攻されているウクライナの様子が連日テレビで放映されている。ひどいことをしますねロシアも。プーチンはこの暴挙を正当化するようなことを何やかやと言っている。何を言っても通らないことは明白なのに。

ほんまに、このおっさんの顔が悪魔の顏に見えてきますわ。

さて、ウクライナの首都キエフでは、地下鉄構内に大勢の人が避難している映像が何度も流れていました。地下鉄に避難? と、最初は少し驚いたのですが

報道によると、キエフの地下鉄はとても深い所にあり、テレビで映っていたアルセナーリナ駅というのは地上から105mの深さで、世界一深い地下鉄駅だということです。ちなみに、東京で一番深いのが都営大江戸線の六本木駅が42mとのことですから、それの2倍半の深さですよね。

調べてみると、「旧」も含めて東側諸国の地下鉄はだいたい深いようです。理由は、かつての冷戦時代、核シェルターとしての利用を想定して設計されたとのこと。そういうことであれば、今回のロシアの侵攻で地下鉄に避難するというのは、ウクライナの人たちにとっても、普段からそこが避難場所のひとつだという認識があったからなのかな~と思ったりもします。

そこで僕が思い出したのが、妻との旅行でハンガリーの首都ブタペストへ行った時のことです。ハンガリーはウクライナと国境を接していますが、僕がこれまで旅したヨーロッパ諸国の中では、このハンガリーが一番東にある国でした。

そして、このブダペストで、地下鉄に乗るため切符を買い、エスカレーターでホームに下りようとした時のことです。

地下鉄のホームは、かなり深かった。エスカレーターに乗っても下が見えないほどです。しかもそのエスカレーターのスピードが、ものすごく速かったのです。

ガタガタガタ~ッと猛烈な音を立て、急角度で下って行くのだから、僕と妻は思わず手すりにしがみついた。怖い! 

とにかく地下が深いので、エスカレーターの距離も長く、そんな猛スピードで下って行くのになかなかホームへ到着しない。そんなことは予想もしていなかっただけに、突然の恐怖に全身が固まってしまいました。

あの時は本当に驚いたし、怖い思いをしました。

ハンガリーは、現在は違いますが、以前は東側国家、つまり旧共産圏だったわけで、ウクライナも過去はロシア色が濃い国家でした。僕はそのウクライナの首都キエフの地下鉄が「世界一深い」ということを知り、
「なるほど。そういうことだったのか」
と、ブダペストの地下鉄を思い出したわけです。

学生時代からの知り合いで東京に住むKさんが、モスクワへ旅行に行った時、
「地下鉄へ下りるエスカレーターがとてつもなく長く、猛スピードでした」
とハガキに書いて送ってくれたことも、思い出しました。

これらに関してWebサイトを見て行くと、やはり旧ソ連時代の東側の国々の地下鉄はどこもだいたい深い、ということを確認できました。

今回のキエフ市民の方たちの地下鉄への避難の話と、自分のブダペストの地下鉄のエスカレーターでの驚きの体験の話が結びつくとは、思いも寄らなかったことでしたけどね~

ブダペストへ行ったのは西暦2,000年ちょうどでした。
ウィーン旅行の時に、列車で隣国のハンガリーへ日帰りで行ったのでした。
今からもう20年以上も前のことになりますが、あのエスカレーターの怖かったことを、今回、改めて思い出した次第です。

 

★以前、ブダペストへの旅行の顛末を書いたことがあります。
 地下鉄のエスカレーターのことも詳しく書いています。
 長い記事ですが、一応ご参考までに。

 ハンガリーという国は (2015年9月17日)

 

 

 

 

 

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カーリング・鈴木夕湖さんのお名前の由来と僕の思い出

2022年02月21日 | 思い出すこと

冬季五輪も昨日で閉会しましたね。

今日のテレビで、この大会の視聴率のベスト3が紹介されていましたが、それによると、1位がカーリング女子の決勝(対イギリス戦)、2位もカーリング女子の準決勝(対スイス戦)、3位が羽生選手が出ていたフィギュアスケート男子のフリーでした。なんとまぁ、1、2位がカーリング女子ですわ。それだけでも人気の高さがわかります。僕もカーリングのことばかり書きましたしね。

自分のブログを読み返してみても、2010年のバンクーバー大会、14年のソチ大会、18年の平昌大会と、いずれもカーリング女子のことを書いています。2010年にはカーリング女子のことを「カー娘」と呼ばれていたことも書いていますが、これはモーニング娘の「モー娘」をもじった愛称でした(笑)。

さて、そのカーリング女子チームの、鈴木夕湖(ゆうみ)選手のことです。

4年前の平昌大会のメンバーも、今回と全く同じだったのですが、当時、僕は鈴木夕湖選手のことを、日記に詳しく書いています。

なぜそれを日記に書いていたのかというと、理由がありまして

彼女は1991年に北海道の常呂町(現在は北見市)で誕生されたとのこと。ご自宅はサロマ湖の近くだそうです。そしてご両親は生まれて来た女の子に、サロマ湖に沈みゆく夕陽の美しさをイメージして「夕湖(ゆうみ)」と名付けた、と4年前の新聞に書かれていました。そのことに僕は強く引き付けられたのです。

その鈴木夕湖選手のお名前の由来を知って、僕自身の忘れられない思い出と重なりました。

夕湖さんが誕生されたその1991年に、僕は「サロマ湖100キロマラソン」に参加して、初めて100キロという長い距離を走りました。

その100キロマラソンの制限タイムは13時間でした。僕はサロマ湖畔のコースをヨタヨタと走り続け、何とか制限タイム内の12時間24分でゴールすることができました。男子の部で完走した選手は611人で、僕の順位は584位でした。つまり611人中、ビリから27番目でした(笑)。

 
  レース後にもらった完走記念メダルです。
  あれからもう30年も経ったのですね~


サロマ湖には、20歳の時の自転車旅行でも通りました。つまり、自転車旅行とマラソン大会で2回行っているわけで、それも含めて僕にとってはとても思い出深いサロマ湖なのです。

そのサロマ湖に沈む美しい夕陽から名付けられたのが鈴木夕湖さん。

今回の五輪で、日本のカーリング女子チームは11試合も行われました。テレビで、何度も何度も彼女の姿を見ながら、サロマ湖畔を走った100キロマラソンのことをず~っと思い浮かべていた僕でした。


  
   「セカンド」で活躍した鈴木選手。

鈴木夕湖選手は、いま30歳。まだまだ若い。
ぜひ次の冬季五輪にも出場してほしいです。

 

 

★おまけ

 
 20歳の時の自転車旅行。
 サロマ湖畔で撮った1枚です。
 まだ未舗装道路が多かった北海道でした。

 

 

 

 

 

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コインロック式ショッピングカートを見て!

2021年12月06日 | 思い出すこと

2000年(平成12年)、オーストリアのウィーンへ旅行した時のことですが

ウィーン市内の百貨店の地下食料品売り場へ行って買い物をしようと、入り口付近に並んでいたショッピングカートを引っぱり出そうとしたら、チェーンで他のカートとつながっている。つまりロックされていて、カートが引き出せない。
「えっ? なんで?」
と不思議に思い、よ~く見ると、お金(硬貨)を入れるとロックが解除されて引き出せる仕組みになっていた。そして、カートを返す時に元どおりにロックしたらそのお金が戻って来るという仕組みだった。
むろん、そんなの、これまで見たこともなかった。

「なんでこんな手間なこと、せなあかんの?」
と、妻にブツブツ言いながら、しぶしぶ10シリング硬貨を1枚、カートの手元にあるコイン入れに入れたら、チェーンロックが外れて使える状態になった(当時まだオーストリアの通貨はユーロではなくシリングだった)。

そして買い物をしてレジを済ませ、カートを戻そうとした時にまた予期せぬことが起きた。一人の男性が近づいてきて僕のカートに手をかけ「貸してくれ」とのジェスチャーをする。僕が一瞬ポカンとしたら、男性が10シリング硬貨を僕の手に握らせた。つまり男性は、カート置き場でお金を入れて取り出すのが面倒だったのか、僕に10シリングを渡してそのカートを使おうというわけだ。

まぁ、僕としてもカートを元に戻してロックすると10シリングが戻るのだから、同じことだし、むしろ面倒が省ける。ま、こういうことはこの国ではしょっちゅうあるんだろうな、と思いました。

そんなことを、かつてのウィーン旅行で経験したのですが、先日、そのことを久しぶりに思い出したのです。

先月から、僕らがいつも行く藤井寺駅前のイオンの前に、「サンディ」というスーパーがオープンしました。食料品がかなり安いお店です。そしてそこのカート置き場を見ると、鎖でつながれていました。100円を入れるとロックが解除されて使えるようになるという仕組みで、まさにあのウィーンでの出来事を思い出させるものでした。

  
  コインロック式のショッピングカート。
  (ネット写真から)


そんな時、今度はわが家から歩いて30分ぐらいのところにある「イズミヤ」というスーパーが、リニューアル・オープンしたというので、先週、妻と散歩がてら行ってみました。すると、なんとまぁ、そこも同じようにショッピングカートがチェーンでつながれ、100円入れなければ出せない仕組みになっていたので、またもやビックリしました。

ウィーンで目にして以来、20年以上も見たことがなかったスーパーのコインロック式カートを、つい最近、2度も続けて見るとはねぇ。

でも、なぜそんなことをするのだろうか?
お客さんに面倒くさいと思われるんじゃない?

理由を調べてみると、カートを元に戻さないお客さんが結構いるみたいです。駐車場のあちこちにそのまま置かれていたり、店内でもその辺に放置されていたり、というのが多いという。そしてこれらを所定の場所に戻す作業を、店員さんや警備員さんがされており、それが案外重労働であったりする、というようなことだそうです。人手不足のスーパーだと、散らばったカートをひとつひとつ回収するのも案外大変なことなのかも知れません。

それでこういう手段を取るようになったということ。

でもお客さんが100円硬貨を持ち合わせていなかったらどうするの?
と思ったら、「イズミヤ」では、カート置き場の隣に100円玉の両替機が置かれていました。なるほどねぇ。

僕らはまだ一度もコインロック式のカートは使っていませんが、そのうち、買い物を終えた人のカートを、その人に100円渡して「それ、もらいまっせ」とやっちゃおうかな、な~んてことを思ったりしています(笑)。

 

 

今日の1枚は、上の記事にちなんで、
ウィーンのシェーンブルン宮殿での写真です。
(2000年10月16日)

 

ここはマリー・アントワネットが少女時代を過ごした宮殿でもあります。

 

 

 

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米 同時多発テロから20年

2021年09月11日 | 思い出すこと

きょう9月11日は、アメリカの同時多発テロから20年、という日でした。

20年前の2001年9月11日。
あの日の夜のことは、今も忘れられない。

風呂から上がってリビングに行くと妻が青ざめた顔をしてテレビを見ていたので、「何かあったの?」」と聞くと、妻は「これ!」と言ってテレビを指差した。そのテレビを見たら

午後10時から放送されていた「ニュースステーション」(司会・久米宏)という番組だった。そのテレビ画面には、超高層ビルが破壊され、激しく煙を上げている映像が映し出されていたのだ。現地のニューヨークはこのとき、11日の朝だった。

「えっ? これは、なに?」
僕が息をのんでテレビの前に立ちつくしていると、次の瞬間、一機の飛行機がもうひとつのビルに突っ込んで爆発した。妻によると、最初の爆発も飛行機がビルに突っ込んだというから、これは2機目の飛行機だったことになる。ニューヨーク名物でもあったワールドトレードセンター、つまりあの有名なツインタワーの2棟が、飛行機によって破壊されたのだ。

やがて2つのビルは、粉塵の中で崩れ落ちて行った。
まさに衝撃の映像だった。

見たこともない光景であり、現実のものとは思えなかった。

 …………………………………………………………………………………

実は、僕たちは、その数週間後にニューヨークへ旅行する予定だった。旅行社に費用も払い終えていた。ところが、こんなとんでもない大事件が起こった。旅行に行くはずだったニューヨークで、何という恐ろしいことが起きたのだ。

翌日、旅行社にキャンセルの電話を入れた。
「そうですよね。今は行かれないほうがいいですよね」
と、電話に出た旅行社の人が、声を押し殺すように言った。
本来なら支払うべきキャンセル料も、この時は請求されなかった。

妻は初めてのニューヨークを楽しみにして毎日ガイドブックを眺めていたし、僕も、初めての海外旅行がニューヨークマラソンへの出場だったので、二度目のニューヨークを楽しみにしていた。その楽しみも、この大事件で吹き飛んでしまった。毎年、9月11日が来るたびに、これらのことを克明に思い出します。

さらに、東日本大震災は、それから10年後の2011年3月11日に起きた。

今日という日は、米同時多発テロから20年であると共に、東日本大震災から10年半という日でもあります。

痛ましい日です。

 

 

 

 

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いない、いない、ばぁ~

2021年07月08日 | 思い出すこと

町を歩いていて、小さい子供さんを見ると、可愛いですね。お母さんに手を引かれて飛び跳ねるように歩いている子供さんたち、ホント可愛い。さらにスーパーなんかで、静止しているベビーカーの中の子が、僕のほうをじ~っと見つめている時などは、その子に向けて手を振る。するとニコッと微笑み、こちら手を振ってくれたりしてくれたら、ぽよよーんとして、心が温まりますね。

当たり前の話ですが、人はみんなこんな時期があったんですよね。反抗期と言われる中学生あたりから大人に向かい、青春時代を送り、年月を経て中高年、そして高齢者へと年を重ねていっても、全ての人に可愛い幼児の時代があったことには違いありません。

時々瞑想するのですが、何か “術” のようなものを使って、ほんの数分間だけでもいいから、何歳の人でも幼年期の姿に戻る、というのが出来たら面白いでしょうね。80歳のお爺ちゃんが30歳の孫の前で呪文を唱え「エイ!」と宙に浮いてドサっと床に着いたとたん2歳の幼児になり、孫に「おじちゃん、アブアブ~」とすり寄って行く、というような感じです(笑)。
「ほかに考えることないのかい? ヒマな人やなぁ」
と言われそうですけど。

しかしまぁ人は成長するんですから、いつまでも可愛い幼児では困りますよね。たとえばうちのモミィにしても、もう高校生なのでそれなりの知恵もつき、外の世界に揉まれながら、話の内容も言葉づかいもどんどん進化しています。小さかったモミィの写真を本人に見せて「このころは可愛かったねぇ」と言ったりしたらムクれるでしょうね。だから昔の話はするけれど「可愛かったねぇ」という言葉は口に出しません。特に最近の彼女はおしゃれに夢中で、服装や髪型にとてもこだわっていますから「今は可愛くないん?」と言われるかも知れませんしね(笑)。

さて、今日は朝から断続的に大雨が降ったりしていて、1日中家にいました。
で、モミィがまだ1~2歳だった頃の写真を引っ張り出して眺めたりしていたのですが、やはりこの頃は可愛かったなぁ、という思いは変わりません。。なので、本人には内緒で、このブログでつぶやいておきます。

今日はこんな写真を見て、あの頃を懐かしみました。

          


  
   いない、いない

 
  

  ばぁ~!

 


  

 

 

 

 

 

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信楽鉄道事故から30年

2021年05月18日 | 思い出すこと

一昨日の16日の日曜日のこと。
4月からモミィが通い始めている高校からメールが来た。何かと思えば、
「教職員の方1名が新型コロナウイルスに感染していることが判明しました」
とのことでした。で、17日の月曜日から19日までの3日間は中間テストの予定だったのですが、とりあえず3日間は休校し、テストは20日からに延期します、という内容でした。そんなことで、昨日、今日、明日とモミィは「自宅待機」の状態です。
休校が延長されなければいいんですけどね~
ほんと、いつまでもコロナ、コロナで大変ですわ。

  ………………………………………………………………………………

さて話は変わり、また古い話になりますが、先日の14日は滋賀県の信楽鉄道事故から30年が経ったということでした。

信楽鉄道事故というのは、1991年(平成3年)の5月14日に、信楽鉄道の普通列車が赤信号を無視して出発し、JR西日本の快速電車と衝突して42人が死亡、600人以上の人が負傷した事故です。

この事故から30年が経ったと知り、「あぁ、あれから30年か」と、僕自身のあの日のことを思い出したのでした。


 
  5月
14日の朝日新聞夕刊

この1991年という年は、僕は16年間勤務していた市役所の議会事務局という部署を離れ、総務課文書法規係というところへ異動した年でした。4月1日に異動し、5月に文書法規係の全国職員研修会というのがあるので「出席すれば」と上司に勧められ、一人で研修会が開かれる福岡へ行きました(一人の出張って、何となくウキウキ)。

研修を受けたあと、夜は博多の屋台で一杯飲むことにしました。博多は屋台が有名ですもんね。せっかく来たんだから屋台にも行ってみなければ、と一人ブラブラ出かけました。

屋台でおいしいサカナをあてにお酒を飲んで、オヤジさんや隣に座っていた日経新聞社の記者の人らとおしゃべりを交わしたりしていい気持になり、夜の10時頃にホテルの部屋に戻りました。
そして部屋から自宅に電話をしたら

電話に出た妻が、
「きょう滋賀県で大変な大事故が起きたの。ニュースはずっとそればかりよ」
と興奮した口調で話したので、
「えっ? そんな大事故が」
僕は酔いも覚め、電話を切った後、すぐに部屋のテレビをつけた。
妻が言ったとおり、テレビではその事故のニュースを報じていた。
そこで初めて信楽鉄道事故の詳細を知ったのだった。

なので、今でも信楽鉄道事故と言えば福岡を思い出すのです。

ところで、
事故を報じるテレビを見ていたら、次のニュースがまた衝撃だった。相撲界に君臨していた大横綱の千代の富士が場所中、急に引退を表明したのだ。
「へぇ、千代の富士が引退!」
ニュースでは、千代の富士が会見で「体力の限界!」と涙ながらに振り絞った言葉が耳に焼き付きました。

  
 千代の富士の引退記者会見。

そうして一夜が明け、翌日、朝食を食べていると、テレビのニュースで、
「安倍晋太郎氏が死去されました」と報じられたのでまたビックリ。
安倍氏は当時、自民党の幹事長で、さらに元総理大臣の岸信介や佐藤栄作の親族で、次期総理候補として注目されていた著名な政治家だったので僕もよく知っていた。むろん、去年まで総理だった安倍晋三氏の父親としても知られていますよね。その安倍晋太郎氏が病気で亡くなったのがこの日でした。 

  
  安倍晋太郎氏。

1991年(平成3年)5月14日。
福岡へ研修に行った日。信楽鉄道事故があり、横綱千代の富士が引退し、翌朝には総理大臣候補だった安倍晋太郎氏の突然の訃報と、3つの大きな出来事があった。そのことを、僕は今でもよく覚えています。

あれから30年が経ったとは。
早いです。

 

 

 

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年度末、退職の日を思い出す

2021年03月31日 | 思い出すこと

きょうは3月31日。年度末ですね~
令和2年度も、今日で終わります。

さて3月31日といえば、必ず思い出します。
38年間勤めた職場を去った、あの日のことを。
懐かしいですね~。12年も前の話ですけどね。

12年前のその日のブログは、感無量の思いでつづりました。
きょうはその記事「仕事を終える日」を再掲載させていただきます。
ダラダラと長い話ですけど、まぁ、おヒマなら読んでください。

 ………………………………………………………………

  2009年3月31日のブログの記事です。

        
  

退職をすることって、結構骨の折れることなんですよね。

1ヶ月以上もいろんな人たちからご好意あふれる送別会をしていただいた。
だから、どうしても飲みすぎになる。贅沢な悩みですけど

毎月血液検査をしてもらっている徳洲会病院での、ガンマGTP(肝臓のアルコールによるダメージ度)の数値が、1月より2月、2月より3月と、グングン上がってきている。それでも、風邪気味の時はあったが、大幅に体調を崩すということはなく、昨晩、今月最後の送別会を楽しく終えることができて、本当によかった。

28日の土曜日は、休日出勤して荷物を片付けた。

制服(事務服、作業服、防災服、合羽)は貸与されているので返さなければならない。しかし、人事課は、僕のネームの入った古い服を返してもらっても使い道がないので困るだろう。「適当に処分してください。まあ、市のマークも入った服だから軽率に扱わないようにだけはお願いします」とのこと。つまり、しっかり処分しておくように、ということだ。

29日の日曜日は、家で葉書の挨拶礼状を作ってプリンターで印刷した。
在職中、お世話になった皆さんに、お礼の言葉を書き、それだけでは愛想がないので、昭和58年に出場したニューヨークシティマラソンでのフィニッシュの写真をつけた。僕がゴールしている上には大きく「 FINISH 」の幕が写真に写っている。写真の下に「今回は38年間の公務員生活の FINISHです」との文をつけた。

出すところは150枚ほどあった。
ところが、50枚ぐらい刷って行くと、だんだんと写真が赤みを帯びてきて、最後のほうは真っ赤に近い色になり、どうやってみても火事場のような写真になった。原因はわからない。仕方なく、途中から写真を大阪長居競技場でのマラソンのゴールの写真に変えて、「38年間の公務員生活のゴールです」と説明をつけた。そんなことで、29日は1日中、眼がかすむほどその作業に没頭した。

昨日の30日(月)は、市役所の7階から順番に下りて行って、下水道部、都市整備部、財政部、教育委員会、総務部、秘書室、市民生活部、保健福祉部へと、順番に回って、職員の皆さんに、お礼のあいさつに回った。
「長い間お世話になり、ありがとうございました」
「あ、ご丁寧に。長い間、ご苦労様でした」
これを、何10回と繰り返す。久しぶりに話す人もあって、全部回りきるのにかなりの時間がかかった。

職場に戻っても何人かの職員が訪ねて来て、餞別などをいただいたりした。

副市長は「長い間お疲れさま。これから退職しても、市の行事(たとえばハイキング大会や、美化キャンペーンなど)にはどしどし参加してや」と握手をしながら、言われた。市役所を辞めると二度と顔を見せない人もかなりいるが、僕はOB会の行事にもどんどん参加するつもりだし、役所へ顔を覗かせもしたいし、今回送別会などでいろいろお世話になった年下の人たちとは、今後も飲みに行ったりするつもりである。38年間在職すると、数多くの友人ができる。その付き合いは、これからも大切にしたい。

そんなことで、昨日は1日中、挨拶をしたり机を片付けたりしていると、なんとなく胸が熱くなってきた。退職なんてどうということはない、と思っていたのにね…。

夕方、職場を訪ねて来た一人の女子職員が、僕の前で涙を流した。

僕が役所に入ったときに同じ課だった女性で、ちょうど彼女は20歳の誕生日を迎えた頃だった。みんなでハッピーバースデーの歌を歌ったことを今でも懐かしく覚えているが、彼女もそういうことを僕の顔を見て思い出したようで、思わず涙をこぼしたのだった。こちらまで涙が出そうになった。
「あれから38年が経ったのですねぇ。早いですねぇ…」

夜、創作中華料理店で「山の会」(というグループ)の人たちが送別会をしてくれた。そのうちの2人は去年同じ役所を退職したばかりの人たちだった。その人たちとワイワイ話をしていると、昼間の、なんとなく感傷的になった気分も和らいできた。

でも、家に帰って、ベッドに入ると、やっぱり何かヘンだ。眠れない。退職をするということが、どういうことなのか、まだ、よくわからない。

もういくつ寝たら退職だろと指折り数えていたが
もういくつ寝てもずっと退職のままである。

スーツを着て、ネクタイを締めて出て行かなくてもいい。
どんな生活なんだ? と思う。
40年ほど前の学生生活みたいなものだろうか
あれはまあ、一応大学へ通っていた。
これからは、通うところもない。
どんなんだろう…?

そんなことを思うと、ほとんど眠れないまま日付が変わった。
午前3時には、もう起きた。起きて、このブログを書いている。

今日は9時10分頃に議長から「議会事務局出向を解く」という辞令をもらい、
9時半に市長室へ行き、市長から退職辞令をもらう。

健康保険証と職員証を人事課に返す。

そして職場に戻って、最後のあいさつをし、見送られて、そのまま帰る。
今日は議員さんたちが、僕を見送ってくれるそうである。

それで、38年間の役所生活のすべてが、終わる。

4月1日と2日は、モミィを連れて、妻と3人で和歌山県の白浜温泉へ。

3日は議会事務局の、新任の事務局長も含めての歓送迎会。

5日~9日は、妻と2人で「青春18切符」を使って、大阪から、東京~仙台~盛岡~青森~秋田と電車に揺られ、秋田から飛行機で帰って来る。


              

それでは、葉書の印刷は途中で失敗したNYマラソンの写真ですが、
ここでその写真を使わせていただき、皆様に退職のご挨拶を申し上げます。

明日から何の仕事も持たないフーテンおじさんになりますが、
ブログは続けますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

 

  

  1983年(昭和58年) ニューヨーク マラソンでの フィニッシュ。
  今日は、38年間の 公務員生活のフィニッシュで~す。 

  ………………………………………………………………………

以上、12年前の3月31日に退職をした時のブログを、
そのまま再掲載させていただきました。

あれから12年。
まだブログを続けられているのは良かった~

当時のブログをそのままここにコピーしたので、コメントも、
その時の方々からいただいたのが、そのまま入っています


懐かしいです~

 

 

 

 

 

 

 

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50回目の結婚記念日

2021年03月09日 | 思い出すこと

先日、50回目の結婚記念日を迎えました。いわゆる金婚式ですわ。
と言っても、特にお祝いごとは何もしていませんけど。

しかし、こう書いていても、
「ほんまにそんな年数が経ったの?」
とポカ~ンとするばかり。50年の歳月というものがピンときません。
何か自分のことではなく、他人事のように思えてしまうのです。

結婚したのが1971年(昭和46年)で、
僕は22歳になったばかりのころでした。

この年はどんなことがあったかと言うと
日本で初めてマクドナルドの店がオープンしたり、日清食品からカップ麺の第一号となる「カップヌードル」が発売されたり、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」 や五木ひろしの 「よこはま・たそがれ」などがヒットしたり、相撲界では大横綱の大鵬が引退したり、プロ野球界では長嶋、王が引っ張る巨人軍が7連覇を成し遂げて後の9連覇につなげたりというような年でした。
あ、そうそう。たまたま心斎橋のあるお店のくじ引きで一等賞が当たり、賞品のひとつは沖縄ペア旅行でした。しかし当時の沖縄はまだアメリカ領で、行くにはパスポートが必要でした。僕たちは「海外旅行なんてトンデモない」と、もうひとつの賞品だったガスオーブンにしたことを覚えています(沖縄はその翌年に日本に返還されました)。

そんな遠い遠い昔のことです。

結婚式を挙げ、近場への新婚旅行から帰って来た直後に大学の卒業式がありました。そして4月から就職するもそこの仕事が合わずに数ヵ月で退職。たまたま臨時募集があった松原市役所を、妻の勧めで応募し、8月から地方公務員としての生活が始まりました。

結婚した翌年に長男、次の年に次男が生まれ、結婚後20年ぐらいの時には2人とも大学生になって下宿生活を始めたので、それからはまた2人の生活に戻りました。そして結婚25年前後から、毎年のように2人で海外旅行に出かけるようになったのです。だからテレビで自分たちが行った国や街が映ると話が弾みます。あの時はあんなだったね、こんなだったね~なんて。やっぱり、あちこち旅行しておいて、本当によかったなぁと思います。

そして10年くらい前からモミィがわが家の一員となりました。そこで生活は一変。妻は二度目の「子育て」に追われることになり、モミィが15歳になった今でもそれは続いています。なにしろモミィは感情表現豊かでマイペースで、おまけに身の回りの整理整頓はまるでダメ。世話が焼けるのです(笑)。そばで見ていても、妻は振り回されっぱなしですもんね~。(それでもモミィのことを一番思っているのは妻ですけどね)。買い物、料理、洗濯の「主夫」をしている僕の方がず~っと楽ですわ。ハイ。

そんなことで、
結婚して50年経ちましたが、これまで大きな災禍にも遭わず、お互いに平凡ながら元気で楽しく過ごしてきました。

曽野綾子さんのエッセイにこんな一文があります。

今さらながら、多くの人に与えられている平凡という偉大な幸福に対して、改めて感謝しなければならない。

いま、これと同様の心境です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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天皇誕生日 ~あれから61年~

2021年02月23日 | 思い出すこと

今日、2月23日は天皇誕生日でした。
でも僕にとっての「天皇誕生日」といえば4月29日しかイメージが浮かんでこない。つまり昭和天皇ですよね。で、次の平成天皇(現・上皇さま)のお誕生日はいつだったっけ? と考えても、もう忘れちゃっている。調べると12月23日でしたが、そうなると今の陛下が2月23日なので、この二つの月日が頭の中でごちゃごちゃになります。う~ん、なかなか覚えられそうにありません。

しかし年月の流れの早さだけは、しみじみと実感せざるを得ませんね。

今の天皇陛下、つまり令和天皇は1960年(昭和35年)に誕生された。その当時僕は小学校5年生だったけれど、うちの両親や近所の人たちが、そのお誕生を心から喜んで、嬉しそうに語り合っていた。

「お名前は決まった?」
「浩宮(ひろのみや)・徳仁(なるひと)様とか」
「へぇ、なるちゃんねぇ」
みたいな会話が大人たちの間で交わされていたのを覚えています。

後にその「なるちゃん」の大きな写真が新聞屋さんによって各家庭に配られ、うちの両親はその写真を額に入れて部屋の上のほうに飾った。その横には、「なるちゃん」のご両親である皇太子殿下と美智子妃殿下のご婚礼の時の写真が飾られていたので、わが家に皇室の写真が2つ並んだわけです(当時はそういう家庭が多かった)。


  
  「なるちゃん」
です。
  こういう感じの写真でした。

 
  
  その前年の皇太子殿下・美智子妃殿下のご婚礼の写真。


僕はその可愛い赤ん坊の写真を毎日のように見上げながら、

「この子が天皇陛下の孫で、ほいで皇太子殿下の子供やから、いつかは天皇陛下にならはるんやろなぁ」な~んて思っていた(ような気がする)。

そして、歳月が流れ、時代が移り変わり

その「なるちゃん」が2年前の5月に、令和天皇に即位された。
そして今日、満61歳の誕生日を迎えられたのでした。
なんとまぁ、61歳!

きょうの朝、NHKで天皇の会見の様子がテレビに映っていたのを見ながら、あの可愛かった赤ちゃんがもう61歳にもなられたのかと思うと、じゃぁ僕はいま何歳なんだ? と、一瞬、自分の年齢がわからなくなりました。

というのはウソ。わからなくなるわけないじゃん(へへっ)。

でも、本当に月日の経つのは早いですねぇ。
このごろは何かあるたびに、心の中でそうつぶやくのが口癖になっていますが、今日もまた、天皇陛下の会見を見ながら、特にそのことを強く身にしみて感じた次第です。

 

 

 

 

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モミィの高校入試で思い出す 「あの日のこと」

2021年02月11日 | 思い出すこと

「女性蔑視」の発言で物議をかもした東京五輪組織委員会の会長・森喜朗センセイがやっと辞任するようです。あれだけ世間日本だけではなく海外からも激しく非難されたら、もう辞めるよりほかありませんよね。まったく今回の東京五輪はコロナやらこんな騒動やらと、ケチがつきまといますね。いったいどうなることやら。予定通りの開催は無理でしょうから、どこまで規模を縮小してやるのか?きっぱりと中止か延期にするのか? 僕は「きっぱり」のほうがいいんじゃないか、と思うんですけど。

さて、そんなことで世情が騒然としている中ですが

昨日の10日、大阪府では私立高校の入試が行われました。モミィも大阪市阿倍野区にある高校を受験しました。早いものですね~。このブログを始めた時はモミィは2歳でした。それが今では高校の受験生ですからね。

で、昨日モミィは元気に「行ってきま~す」と家を出たので僕も妻もホッと胸をなでおろしました。もしも風邪を引いたり体調を崩したりしたらどうしよう、という心配をしていたのです。それには忌まわしい思い出がありましたから。

私立高校の受験といえば
「あの日のこと」を思い出さずにはいられないのです。もう30年以上も前。長男(モミィのパパ)が私立高校を受験した時のことです。

長男は前夜から高熱を出し、妻が一晩中看病しました。しかし熱は下がらない。その日は大事な受験の日だからお医者さんにも行けない。受験する高校は大阪市天王寺区にある清風高校でした。かなり難しい高校で、体調万全で実力を発揮しても合格するかどうかわからない状況なのに、高熱に浮かされたまま、長男はフラフラの状態のままで家を出て行きました。

そして夕方に帰宅した時も熱は引いておらず、すぐに妻が布団に寝かせました。
「あんな心配だったことは、人生の中でもめったになかった」
と、今も妻は語り草にしています。

そんな状態だったのですが、信じられないことに合格しました。おかげで次に公立高校のほうは、当時の学区の中では難関校だった松原市にある生野高校にチャレンジすることができ、その結果も合格でした。松原市といえば僕は松原市役所に勤めていたので、生野高校はすぐ近くです。合格発表の日、職場の人たちが僕に「近くなんやから、息子さんの結果、見に行っておいで」と言ってくれたので、歩いて高校へ行き、合格発表の貼り紙を見て長男が合格をしたことを知り、思わずパチパチと手を叩きました。

まぁ、そんな悲喜こもごもの思い出がよみがえってきます。

それが、今度は長男の娘であるモミィが高校受験ですからね~。嫌でもあの時の長男の様子が目に浮かんできます。だからモミィも熱なんか出したら大変、と受験の日まで真剣に心配していたのです。

そういうわけで昨日の朝、モミィが元気に出て行ったのを見て、僕たちは心から安堵したわけです。正直なところ、結果はどうでもよろし。まずは元気に受験できたのだからそれで良し。と、そんな気持ちで満たされていました。

さて、その昨日の夕方ですが。
「だだいま~」と帰宅したモミィに、「試験、どうだった?」と聞いたら、「あぁ~」と大声でため息をつき、「あかんわ。むずかしかったぁ~」と言って、あとはわけのわからないことをワイワイとわめいていました。だいたいモミィはよくしゃべるのですが、起承転結がないので、内容はさっぱり理解できないのです(笑)。

でも、僕も妻も、むろん合格すれば嬉しいに決まっていますが、たとえ結果がダメだったとしても、さほどガッカリしないと思います。繰り返しますが、元気に試験を受けられたことが何よりだったんですからね~。もう、あの長男の時のような思いは二度としたくありませんので。

合否の通知は明後日の13日(土)、速達郵便で送られて来るそうです。

結果は、またご報告しますね。

 

 

 

 

 

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高校受験に失敗しても ~塞翁が馬~

2020年12月20日 | 思い出すこと

今日はモミィではなく、大昔の僕の高校受験に関する話です。

僕は小学生の頃は勉強が嫌いで漫画ばかり読んでいました。当時は「貸本屋」というのがあって、そこで多くの漫画の月刊誌を借りて読むのが一番の楽しみでした。一人っ子だったし、両親は家から離れた場所で商売をしていたので日中は誰も家にいない。だから学校から帰っても、一人で漫画を読む以外にこれといった楽しみはなかったんですね。

       
  こんな漫画雑誌に夢中になっていました。

中学生になると、勉強しないと先生に叱られるのが怖かったので少しは勉強もするようになった(少し、ですよ)。そして高校受験を迎えた。まぁ大学へ行くなんてことは思いもしなかったので商業高校を受けようと、大阪市中央区にある東商業高校を受験した。でも落ちてしまった。ガッカリ。

仕方なく併願で受けて合格していた私立の近大付属高校の商業科へ行くことになった。今では近大付属高も、モミィによると偏差値は高く、結構レベルが高いそうだけど、僕らの時代はそんなことはなかった(御同輩、失礼!)。

そして初めて登校した日のこと。担任の先生が、クラスの学級委員長を決めるということで「これから5名の候補の名前を呼ぶので、みんなの挙手の数で委員長と副委員長を決めるからね」と言ったあと「〇〇クン、〇〇クン」と5人の名前を読み上げた。なんとその「候補」の中に、僕も入っていた。

僕たち5人は教壇に上がって並んだ。あとから聞くと入試の成績の良かった上位5人だったそうだ(ウソみたいな話だ)。そして5人の名前が順番に一人ずつ呼ばれ、その都度、50名以上いるクラスの生徒何人かが「お気に入り」の候補に手を挙げる。みんな今日が初対面なのに、何を基準に誰に手を挙げるのか、意味わからん。そして

終わってみたら、僕の時に手を挙げた人数が一番多かった。げぇっ!

というわけで、いきなり学級委員長になった。これは恥をかいたらあかん、と、中間テストや期末テストは全力を上げて勉強し、自慢ではありませぬが、3年間ほとんどクラスで1位の成績でした(自慢してるやん)。いや、それだけみんな勉強ができなかったということですわ。えへへ。

高校生になると漫画ではなく小説にのめりこみ、世界文学全集なんかを買って、一心不乱に読み続けたことも懐かしい思い出です。

で、近大付属高は近大の構内の奥の方にあったので、僕らは駅から通称「大学通り」と呼ばれる通りをまっすぐ歩き、突き当りが近大。その構内を通って一番奥の付属高校まで行く、ということで大学の中も通学路の一部でした。

やがて、大学生たちが大学通りやキャンパス内を歩いている華やいだ姿にあこがれ始め、特に男女の学生が仲良く歩いている光景など見ると、男子校の僕は「あぁ、ええなぁ」と羨ましく思い、いつの間にか「大学へ行きたいわ~」と思い始めたわけです。ちなみに、近大付属高から近大に進むのは、形ばかりの試験を受けるだけで簡単にいけました。(今は知りませんで)。

大学生活では自由と冒険を謳歌しました。3年生の夏に北海道往復自転車旅行に行き、その時期に今の妻と知り合い、大学卒業式の直前に結婚し、妻の勧めで松原市役所に奉職。それから38年間、定年退職まで、多少の起伏はあったものの、概ね仕事のほうも楽しく有意義に勤めることができました。

また一方で30歳前後の頃、四国、九州、中国地方の自転車旅行をしたあと、ニューヨークマラソンをはじめ、50歳を過ぎるまで各地のフルマラソンや100キロマラソンに参加し、子どもたちが手を離れた40代半ばから妻らと毎年のように海外旅行へ出掛けることもできました。

そんなことを今、楽しく思い出しながら、ここまで生きてこられたことを幸せに思っています。

それもこれも、東商業高校の受験に失敗したのが始まりでした。もし、そこに合格していれば、卒業後に商業関係の仕事についていただろうし、さまざまな冒険もできなかったのではないか、と思います。

「塞翁が馬」という言葉を思い出します。不幸だと思っていたことが幸運につながったり、幸運だと思っていたことが後に不幸につながったりする、というその格言そのままですね~

僕の場合は、高校受験に失敗したことが幸運につながったわけですもんね。人の運命ってホント、わからないものです。

でもね。
そんな話を今の受験前のモミィにしてやっても、きっとモミィは、
「意味わからへん。志望校に合格することが絶対に大事やから」
と言うに決まっていますけどね(笑)。

ちなみに、
僕が受験して落ちた東商業高校をネットで調べて見ると、6年前の2014年に閉校となり、95年の歴史に幕を閉じたと書かれていました。

僕にとっての「幻の母校」だった学校が、
今では、本当に「幻」となったんですね。

 

 

 

 

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