僕のほそ道   ~ のん日記 ~

  
これと言ったテーマはなく、話はバラバラです。 つい昔の思い出話が多くなるのは年のせい? 

コインロック式ショッピングカートを見て!

2021年12月06日 | 思い出すこと

2000年(平成12年)、オーストリアのウィーンへ旅行した時のことですが

ウィーン市内の百貨店の地下食料品売り場へ行って買い物をしようと、入り口付近に並んでいたショッピングカートを引っぱり出そうとしたら、チェーンで他のカートとつながっている。つまりロックされていて、カートが引き出せない。
「えっ? なんで?」
と不思議に思い、よ~く見ると、お金(硬貨)を入れるとロックが解除されて引き出せる仕組みになっていた。そして、カートを返す時に元どおりにロックしたらそのお金が戻って来るという仕組みだった。
むろん、そんなの、これまで見たこともなかった。

「なんでこんな手間なこと、せなあかんの?」
と、妻にブツブツ言いながら、しぶしぶ10シリング硬貨を1枚、カートの手元にあるコイン入れに入れたら、チェーンロックが外れて使える状態になった(当時まだオーストリアの通貨はユーロではなくシリングだった)。

そして買い物をしてレジを済ませ、カートを戻そうとした時にまた予期せぬことが起きた。一人の男性が近づいてきて僕のカートに手をかけ「貸してくれ」とのジェスチャーをする。僕が一瞬ポカンとしたら、男性が10シリング硬貨を僕の手に握らせた。つまり男性は、カート置き場でお金を入れて取り出すのが面倒だったのか、僕に10シリングを渡してそのカートを使おうというわけだ。

まぁ、僕としてもカートを元に戻してロックすると10シリングが戻るのだから、同じことだし、むしろ面倒が省ける。ま、こういうことはこの国ではしょっちゅうあるんだろうな、と思いました。

そんなことを、かつてのウィーン旅行で経験したのですが、先日、そのことを久しぶりに思い出したのです。

先月から、僕らがいつも行く藤井寺駅前のイオンの前に、「サンディ」というスーパーがオープンしました。食料品がかなり安いお店です。そしてそこのカート置き場を見ると、鎖でつながれていました。100円を入れるとロックが解除されて使えるようになるという仕組みで、まさにあのウィーンでの出来事を思い出させるものでした。

  
  コインロック式のショッピングカート。
  (ネット写真から)


そんな時、今度はわが家から歩いて30分ぐらいのところにある「イズミヤ」というスーパーが、リニューアル・オープンしたというので、先週、妻と散歩がてら行ってみました。すると、なんとまぁ、そこも同じようにショッピングカートがチェーンでつながれ、100円入れなければ出せない仕組みになっていたので、またもやビックリしました。

ウィーンで目にして以来、20年以上も見たことがなかったスーパーのコインロック式カートを、つい最近、2度も続けて見るとはねぇ。

でも、なぜそんなことをするのだろうか?
お客さんに面倒くさいと思われるんじゃない?

理由を調べてみると、カートを元に戻さないお客さんが結構いるみたいです。駐車場のあちこちにそのまま置かれていたり、店内でもその辺に放置されていたり、というのが多いという。そしてこれらを所定の場所に戻す作業を、店員さんや警備員さんがされており、それが案外重労働であったりする、というようなことだそうです。人手不足のスーパーだと、散らばったカートをひとつひとつ回収するのも案外大変なことなのかも知れません。

それでこういう手段を取るようになったということ。

でもお客さんが100円硬貨を持ち合わせていなかったらどうするの?
と思ったら、「イズミヤ」では、カート置き場の隣に100円玉の両替機が置かれていました。なるほどねぇ。

僕らはまだ一度もコインロック式のカートは使っていませんが、そのうち、買い物を終えた人のカートを、その人に100円渡して「それ、もらいまっせ」とやっちゃおうかな、な~んてことを思ったりしています(笑)。

 

 

今日の1枚は、上の記事にちなんで、
ウィーンのシェーンブルン宮殿での写真です。
(2000年10月16日)

 

ここはマリー・アントワネットが少女時代を過ごした宮殿でもあります。

 

 

 

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米 同時多発テロから20年

2021年09月11日 | 思い出すこと

きょう9月11日は、アメリカの同時多発テロから20年、という日でした。

20年前の2001年9月11日。
あの日の夜のことは、今も忘れられない。

風呂から上がってリビングに行くと妻が青ざめた顔をしてテレビを見ていたので、「何かあったの?」」と聞くと、妻は「これ!」と言ってテレビを指差した。そのテレビを見たら

午後10時から放送されていた「ニュースステーション」(司会・久米宏)という番組だった。そのテレビ画面には、超高層ビルが破壊され、激しく煙を上げている映像が映し出されていたのだ。現地のニューヨークはこのとき、11日の朝だった。

「えっ? これは、なに?」
僕が息をのんでテレビの前に立ちつくしていると、次の瞬間、一機の飛行機がもうひとつのビルに突っ込んで爆発した。妻によると、最初の爆発も飛行機がビルに突っ込んだというから、これは2機目の飛行機だったことになる。ニューヨーク名物でもあったワールドトレードセンター、つまりあの有名なツインタワーの2棟が、飛行機によって破壊されたのだ。

やがて2つのビルは、粉塵の中で崩れ落ちて行った。
まさに衝撃の映像だった。

見たこともない光景であり、現実のものとは思えなかった。

 …………………………………………………………………………………

実は、僕たちは、その数週間後にニューヨークへ旅行する予定だった。旅行社に費用も払い終えていた。ところが、こんなとんでもない大事件が起こった。旅行に行くはずだったニューヨークで、何という恐ろしいことが起きたのだ。

翌日、旅行社にキャンセルの電話を入れた。
「そうですよね。今は行かれないほうがいいですよね」
と、電話に出た旅行社の人が、声を押し殺すように言った。
本来なら支払うべきキャンセル料も、この時は請求されなかった。

妻は初めてのニューヨークを楽しみにして毎日ガイドブックを眺めていたし、僕も、初めての海外旅行がニューヨークマラソンへの出場だったので、二度目のニューヨークを楽しみにしていた。その楽しみも、この大事件で吹き飛んでしまった。毎年、9月11日が来るたびに、これらのことを克明に思い出します。

さらに、東日本大震災は、それから10年後の2011年3月11日に起きた。

今日という日は、米同時多発テロから20年であると共に、東日本大震災から10年半という日でもあります。

痛ましい日です。

 

 

 

 

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いない、いない、ばぁ~

2021年07月08日 | 思い出すこと

町を歩いていて、小さい子供さんを見ると、可愛いですね。お母さんに手を引かれて飛び跳ねるように歩いている子供さんたち、ホント可愛い。さらにスーパーなんかで、静止しているベビーカーの中の子が、僕のほうをじ~っと見つめている時などは、その子に向けて手を振る。するとニコッと微笑み、こちら手を振ってくれたりしてくれたら、ぽよよーんとして、心が温まりますね。

当たり前の話ですが、人はみんなこんな時期があったんですよね。反抗期と言われる中学生あたりから大人に向かい、青春時代を送り、年月を経て中高年、そして高齢者へと年を重ねていっても、全ての人に可愛い幼児の時代があったことには違いありません。

時々瞑想するのですが、何か “術” のようなものを使って、ほんの数分間だけでもいいから、何歳の人でも幼年期の姿に戻る、というのが出来たら面白いでしょうね。80歳のお爺ちゃんが30歳の孫の前で呪文を唱え「エイ!」と宙に浮いてドサっと床に着いたとたん2歳の幼児になり、孫に「おじちゃん、アブアブ~」とすり寄って行く、というような感じです(笑)。
「ほかに考えることないのかい? ヒマな人やなぁ」
と言われそうですけど。

しかしまぁ人は成長するんですから、いつまでも可愛い幼児では困りますよね。たとえばうちのモミィにしても、もう高校生なのでそれなりの知恵もつき、外の世界に揉まれながら、話の内容も言葉づかいもどんどん進化しています。小さかったモミィの写真を本人に見せて「このころは可愛かったねぇ」と言ったりしたらムクれるでしょうね。だから昔の話はするけれど「可愛かったねぇ」という言葉は口に出しません。特に最近の彼女はおしゃれに夢中で、服装や髪型にとてもこだわっていますから「今は可愛くないん?」と言われるかも知れませんしね(笑)。

さて、今日は朝から断続的に大雨が降ったりしていて、1日中家にいました。
で、モミィがまだ1~2歳だった頃の写真を引っ張り出して眺めたりしていたのですが、やはりこの頃は可愛かったなぁ、という思いは変わりません。。なので、本人には内緒で、このブログでつぶやいておきます。

今日はこんな写真を見て、あの頃を懐かしみました。

          


  
   いない、いない

 
  

  ばぁ~!

 


  

 

 

 

 

 

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信楽鉄道事故から30年

2021年05月18日 | 思い出すこと

一昨日の16日の日曜日のこと。
4月からモミィが通い始めている高校からメールが来た。何かと思えば、
「教職員の方1名が新型コロナウイルスに感染していることが判明しました」
とのことでした。で、17日の月曜日から19日までの3日間は中間テストの予定だったのですが、とりあえず3日間は休校し、テストは20日からに延期します、という内容でした。そんなことで、昨日、今日、明日とモミィは「自宅待機」の状態です。
休校が延長されなければいいんですけどね~
ほんと、いつまでもコロナ、コロナで大変ですわ。

  ………………………………………………………………………………

さて話は変わり、また古い話になりますが、先日の14日は滋賀県の信楽鉄道事故から30年が経ったということでした。

信楽鉄道事故というのは、1991年(平成3年)の5月14日に、信楽鉄道の普通列車が赤信号を無視して出発し、JR西日本の快速電車と衝突して42人が死亡、600人以上の人が負傷した事故です。

この事故から30年が経ったと知り、「あぁ、あれから30年か」と、僕自身のあの日のことを思い出したのでした。


 
  5月
14日の朝日新聞夕刊

この1991年という年は、僕は16年間勤務していた市役所の議会事務局という部署を離れ、総務課文書法規係というところへ異動した年でした。4月1日に異動し、5月に文書法規係の全国職員研修会というのがあるので「出席すれば」と上司に勧められ、一人で研修会が開かれる福岡へ行きました(一人の出張って、何となくウキウキ)。

研修を受けたあと、夜は博多の屋台で一杯飲むことにしました。博多は屋台が有名ですもんね。せっかく来たんだから屋台にも行ってみなければ、と一人ブラブラ出かけました。

屋台でおいしいサカナをあてにお酒を飲んで、オヤジさんや隣に座っていた日経新聞社の記者の人らとおしゃべりを交わしたりしていい気持になり、夜の10時頃にホテルの部屋に戻りました。
そして部屋から自宅に電話をしたら

電話に出た妻が、
「きょう滋賀県で大変な大事故が起きたの。ニュースはずっとそればかりよ」
と興奮した口調で話したので、
「えっ? そんな大事故が」
僕は酔いも覚め、電話を切った後、すぐに部屋のテレビをつけた。
妻が言ったとおり、テレビではその事故のニュースを報じていた。
そこで初めて信楽鉄道事故の詳細を知ったのだった。

なので、今でも信楽鉄道事故と言えば福岡を思い出すのです。

ところで、
事故を報じるテレビを見ていたら、次のニュースがまた衝撃だった。相撲界に君臨していた大横綱の千代の富士が場所中、急に引退を表明したのだ。
「へぇ、千代の富士が引退!」
ニュースでは、千代の富士が会見で「体力の限界!」と涙ながらに振り絞った言葉が耳に焼き付きました。

  
 千代の富士の引退記者会見。

そうして一夜が明け、翌日、朝食を食べていると、テレビのニュースで、
「安倍晋太郎氏が死去されました」と報じられたのでまたビックリ。
安倍氏は当時、自民党の幹事長で、さらに元総理大臣の岸信介や佐藤栄作の親族で、次期総理候補として注目されていた著名な政治家だったので僕もよく知っていた。むろん、去年まで総理だった安倍晋三氏の父親としても知られていますよね。その安倍晋太郎氏が病気で亡くなったのがこの日でした。 

  
  安倍晋太郎氏。

1991年(平成3年)5月14日。
福岡へ研修に行った日。信楽鉄道事故があり、横綱千代の富士が引退し、翌朝には総理大臣候補だった安倍晋太郎氏の突然の訃報と、3つの大きな出来事があった。そのことを、僕は今でもよく覚えています。

あれから30年が経ったとは。
早いです。

 

 

 

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年度末、退職の日を思い出す

2021年03月31日 | 思い出すこと

きょうは3月31日。年度末ですね~
令和2年度も、今日で終わります。

さて3月31日といえば、必ず思い出します。
38年間勤めた職場を去った、あの日のことを。
懐かしいですね~。12年も前の話ですけどね。

12年前のその日のブログは、感無量の思いでつづりました。
きょうはその記事「仕事を終える日」を再掲載させていただきます。
ダラダラと長い話ですけど、まぁ、おヒマなら読んでください。

 ………………………………………………………………

  2009年3月31日のブログの記事です。

        
  

退職をすることって、結構骨の折れることなんですよね。

1ヶ月以上もいろんな人たちからご好意あふれる送別会をしていただいた。
だから、どうしても飲みすぎになる。贅沢な悩みですけど

毎月血液検査をしてもらっている徳洲会病院での、ガンマGTP(肝臓のアルコールによるダメージ度)の数値が、1月より2月、2月より3月と、グングン上がってきている。それでも、風邪気味の時はあったが、大幅に体調を崩すということはなく、昨晩、今月最後の送別会を楽しく終えることができて、本当によかった。

28日の土曜日は、休日出勤して荷物を片付けた。

制服(事務服、作業服、防災服、合羽)は貸与されているので返さなければならない。しかし、人事課は、僕のネームの入った古い服を返してもらっても使い道がないので困るだろう。「適当に処分してください。まあ、市のマークも入った服だから軽率に扱わないようにだけはお願いします」とのこと。つまり、しっかり処分しておくように、ということだ。

29日の日曜日は、家で葉書の挨拶礼状を作ってプリンターで印刷した。
在職中、お世話になった皆さんに、お礼の言葉を書き、それだけでは愛想がないので、昭和58年に出場したニューヨークシティマラソンでのフィニッシュの写真をつけた。僕がゴールしている上には大きく「 FINISH 」の幕が写真に写っている。写真の下に「今回は38年間の公務員生活の FINISHです」との文をつけた。

出すところは150枚ほどあった。
ところが、50枚ぐらい刷って行くと、だんだんと写真が赤みを帯びてきて、最後のほうは真っ赤に近い色になり、どうやってみても火事場のような写真になった。原因はわからない。仕方なく、途中から写真を大阪長居競技場でのマラソンのゴールの写真に変えて、「38年間の公務員生活のゴールです」と説明をつけた。そんなことで、29日は1日中、眼がかすむほどその作業に没頭した。

昨日の30日(月)は、市役所の7階から順番に下りて行って、下水道部、都市整備部、財政部、教育委員会、総務部、秘書室、市民生活部、保健福祉部へと、順番に回って、職員の皆さんに、お礼のあいさつに回った。
「長い間お世話になり、ありがとうございました」
「あ、ご丁寧に。長い間、ご苦労様でした」
これを、何10回と繰り返す。久しぶりに話す人もあって、全部回りきるのにかなりの時間がかかった。

職場に戻っても何人かの職員が訪ねて来て、餞別などをいただいたりした。

副市長は「長い間お疲れさま。これから退職しても、市の行事(たとえばハイキング大会や、美化キャンペーンなど)にはどしどし参加してや」と握手をしながら、言われた。市役所を辞めると二度と顔を見せない人もかなりいるが、僕はOB会の行事にもどんどん参加するつもりだし、役所へ顔を覗かせもしたいし、今回送別会などでいろいろお世話になった年下の人たちとは、今後も飲みに行ったりするつもりである。38年間在職すると、数多くの友人ができる。その付き合いは、これからも大切にしたい。

そんなことで、昨日は1日中、挨拶をしたり机を片付けたりしていると、なんとなく胸が熱くなってきた。退職なんてどうということはない、と思っていたのにね…。

夕方、職場を訪ねて来た一人の女子職員が、僕の前で涙を流した。

僕が役所に入ったときに同じ課だった女性で、ちょうど彼女は20歳の誕生日を迎えた頃だった。みんなでハッピーバースデーの歌を歌ったことを今でも懐かしく覚えているが、彼女もそういうことを僕の顔を見て思い出したようで、思わず涙をこぼしたのだった。こちらまで涙が出そうになった。
「あれから38年が経ったのですねぇ。早いですねぇ…」

夜、創作中華料理店で「山の会」(というグループ)の人たちが送別会をしてくれた。そのうちの2人は去年同じ役所を退職したばかりの人たちだった。その人たちとワイワイ話をしていると、昼間の、なんとなく感傷的になった気分も和らいできた。

でも、家に帰って、ベッドに入ると、やっぱり何かヘンだ。眠れない。退職をするということが、どういうことなのか、まだ、よくわからない。

もういくつ寝たら退職だろと指折り数えていたが
もういくつ寝てもずっと退職のままである。

スーツを着て、ネクタイを締めて出て行かなくてもいい。
どんな生活なんだ? と思う。
40年ほど前の学生生活みたいなものだろうか
あれはまあ、一応大学へ通っていた。
これからは、通うところもない。
どんなんだろう…?

そんなことを思うと、ほとんど眠れないまま日付が変わった。
午前3時には、もう起きた。起きて、このブログを書いている。

今日は9時10分頃に議長から「議会事務局出向を解く」という辞令をもらい、
9時半に市長室へ行き、市長から退職辞令をもらう。

健康保険証と職員証を人事課に返す。

そして職場に戻って、最後のあいさつをし、見送られて、そのまま帰る。
今日は議員さんたちが、僕を見送ってくれるそうである。

それで、38年間の役所生活のすべてが、終わる。

4月1日と2日は、モミィを連れて、妻と3人で和歌山県の白浜温泉へ。

3日は議会事務局の、新任の事務局長も含めての歓送迎会。

5日~9日は、妻と2人で「青春18切符」を使って、大阪から、東京~仙台~盛岡~青森~秋田と電車に揺られ、秋田から飛行機で帰って来る。


              

それでは、葉書の印刷は途中で失敗したNYマラソンの写真ですが、
ここでその写真を使わせていただき、皆様に退職のご挨拶を申し上げます。

明日から何の仕事も持たないフーテンおじさんになりますが、
ブログは続けますので、今後とも、よろしくお願いいたします。

 

  

  1983年(昭和58年) ニューヨーク マラソンでの フィニッシュ。
  今日は、38年間の 公務員生活のフィニッシュで~す。 

  ………………………………………………………………………

以上、12年前の3月31日に退職をした時のブログを、
そのまま再掲載させていただきました。

あれから12年。
まだブログを続けられているのは良かった~

当時のブログをそのままここにコピーしたので、コメントも、
その時の方々からいただいたのが、そのまま入っています


懐かしいです~

 

 

 

 

 

 

 

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50回目の結婚記念日

2021年03月09日 | 思い出すこと

先日、50回目の結婚記念日を迎えました。いわゆる金婚式ですわ。
と言っても、特にお祝いごとは何もしていませんけど。

しかし、こう書いていても、
「ほんまにそんな年数が経ったの?」
とポカ~ンとするばかり。50年の歳月というものがピンときません。
何か自分のことではなく、他人事のように思えてしまうのです。

結婚したのが1971年(昭和46年)で、
僕は22歳になったばかりのころでした。

この年はどんなことがあったかと言うと
日本で初めてマクドナルドの店がオープンしたり、日清食品からカップ麺の第一号となる「カップヌードル」が発売されたり、尾崎紀世彦の「また逢う日まで」 や五木ひろしの 「よこはま・たそがれ」などがヒットしたり、相撲界では大横綱の大鵬が引退したり、プロ野球界では長嶋、王が引っ張る巨人軍が7連覇を成し遂げて後の9連覇につなげたりというような年でした。
あ、そうそう。たまたま心斎橋のあるお店のくじ引きで一等賞が当たり、賞品のひとつは沖縄ペア旅行でした。しかし当時の沖縄はまだアメリカ領で、行くにはパスポートが必要でした。僕たちは「海外旅行なんてトンデモない」と、もうひとつの賞品だったガスオーブンにしたことを覚えています(沖縄はその翌年に日本に返還されました)。

そんな遠い遠い昔のことです。

結婚式を挙げ、近場への新婚旅行から帰って来た直後に大学の卒業式がありました。そして4月から就職するもそこの仕事が合わずに数ヵ月で退職。たまたま臨時募集があった松原市役所を、妻の勧めで応募し、8月から地方公務員としての生活が始まりました。

結婚した翌年に長男、次の年に次男が生まれ、結婚後20年ぐらいの時には2人とも大学生になって下宿生活を始めたので、それからはまた2人の生活に戻りました。そして結婚25年前後から、毎年のように2人で海外旅行に出かけるようになったのです。だからテレビで自分たちが行った国や街が映ると話が弾みます。あの時はあんなだったね、こんなだったね~なんて。やっぱり、あちこち旅行しておいて、本当によかったなぁと思います。

そして10年くらい前からモミィがわが家の一員となりました。そこで生活は一変。妻は二度目の「子育て」に追われることになり、モミィが15歳になった今でもそれは続いています。なにしろモミィは感情表現豊かでマイペースで、おまけに身の回りの整理整頓はまるでダメ。世話が焼けるのです(笑)。そばで見ていても、妻は振り回されっぱなしですもんね~。(それでもモミィのことを一番思っているのは妻ですけどね)。買い物、料理、洗濯の「主夫」をしている僕の方がず~っと楽ですわ。ハイ。

そんなことで、
結婚して50年経ちましたが、これまで大きな災禍にも遭わず、お互いに平凡ながら元気で楽しく過ごしてきました。

曽野綾子さんのエッセイにこんな一文があります。

今さらながら、多くの人に与えられている平凡という偉大な幸福に対して、改めて感謝しなければならない。

いま、これと同様の心境です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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天皇誕生日 ~あれから61年~

2021年02月23日 | 思い出すこと

今日、2月23日は天皇誕生日でした。
でも僕にとっての「天皇誕生日」といえば4月29日しかイメージが浮かんでこない。つまり昭和天皇ですよね。で、次の平成天皇(現・上皇さま)のお誕生日はいつだったっけ? と考えても、もう忘れちゃっている。調べると12月23日でしたが、そうなると今の陛下が2月23日なので、この二つの月日が頭の中でごちゃごちゃになります。う~ん、なかなか覚えられそうにありません。

しかし年月の流れの早さだけは、しみじみと実感せざるを得ませんね。

今の天皇陛下、つまり令和天皇は1960年(昭和35年)に誕生された。その当時僕は小学校5年生だったけれど、うちの両親や近所の人たちが、そのお誕生を心から喜んで、嬉しそうに語り合っていた。

「お名前は決まった?」
「浩宮(ひろのみや)・徳仁(なるひと)様とか」
「へぇ、なるちゃんねぇ」
みたいな会話が大人たちの間で交わされていたのを覚えています。

後にその「なるちゃん」の大きな写真が新聞屋さんによって各家庭に配られ、うちの両親はその写真を額に入れて部屋の上のほうに飾った。その横には、「なるちゃん」のご両親である皇太子殿下と美智子妃殿下のご婚礼の時の写真が飾られていたので、わが家に皇室の写真が2つ並んだわけです(当時はそういう家庭が多かった)。


  
  「なるちゃん」
です。
  こういう感じの写真でした。

 
  
  その前年の皇太子殿下・美智子妃殿下のご婚礼の写真。


僕はその可愛い赤ん坊の写真を毎日のように見上げながら、

「この子が天皇陛下の孫で、ほいで皇太子殿下の子供やから、いつかは天皇陛下にならはるんやろなぁ」な~んて思っていた(ような気がする)。

そして、歳月が流れ、時代が移り変わり

その「なるちゃん」が2年前の5月に、令和天皇に即位された。
そして今日、満61歳の誕生日を迎えられたのでした。
なんとまぁ、61歳!

きょうの朝、NHKで天皇の会見の様子がテレビに映っていたのを見ながら、あの可愛かった赤ちゃんがもう61歳にもなられたのかと思うと、じゃぁ僕はいま何歳なんだ? と、一瞬、自分の年齢がわからなくなりました。

というのはウソ。わからなくなるわけないじゃん(へへっ)。

でも、本当に月日の経つのは早いですねぇ。
このごろは何かあるたびに、心の中でそうつぶやくのが口癖になっていますが、今日もまた、天皇陛下の会見を見ながら、特にそのことを強く身にしみて感じた次第です。

 

 

 

 

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モミィの高校入試で思い出す 「あの日のこと」

2021年02月11日 | 思い出すこと

「女性蔑視」の発言で物議をかもした東京五輪組織委員会の会長・森喜朗センセイがやっと辞任するようです。あれだけ世間日本だけではなく海外からも激しく非難されたら、もう辞めるよりほかありませんよね。まったく今回の東京五輪はコロナやらこんな騒動やらと、ケチがつきまといますね。いったいどうなることやら。予定通りの開催は無理でしょうから、どこまで規模を縮小してやるのか?きっぱりと中止か延期にするのか? 僕は「きっぱり」のほうがいいんじゃないか、と思うんですけど。

さて、そんなことで世情が騒然としている中ですが

昨日の10日、大阪府では私立高校の入試が行われました。モミィも大阪市阿倍野区にある高校を受験しました。早いものですね~。このブログを始めた時はモミィは2歳でした。それが今では高校の受験生ですからね。

で、昨日モミィは元気に「行ってきま~す」と家を出たので僕も妻もホッと胸をなでおろしました。もしも風邪を引いたり体調を崩したりしたらどうしよう、という心配をしていたのです。それには忌まわしい思い出がありましたから。

私立高校の受験といえば
「あの日のこと」を思い出さずにはいられないのです。もう30年以上も前。長男(モミィのパパ)が私立高校を受験した時のことです。

長男は前夜から高熱を出し、妻が一晩中看病しました。しかし熱は下がらない。その日は大事な受験の日だからお医者さんにも行けない。受験する高校は大阪市天王寺区にある清風高校でした。かなり難しい高校で、体調万全で実力を発揮しても合格するかどうかわからない状況なのに、高熱に浮かされたまま、長男はフラフラの状態のままで家を出て行きました。

そして夕方に帰宅した時も熱は引いておらず、すぐに妻が布団に寝かせました。
「あんな心配だったことは、人生の中でもめったになかった」
と、今も妻は語り草にしています。

そんな状態だったのですが、信じられないことに合格しました。おかげで次に公立高校のほうは、当時の学区の中では難関校だった松原市にある生野高校にチャレンジすることができ、その結果も合格でした。松原市といえば僕は松原市役所に勤めていたので、生野高校はすぐ近くです。合格発表の日、職場の人たちが僕に「近くなんやから、息子さんの結果、見に行っておいで」と言ってくれたので、歩いて高校へ行き、合格発表の貼り紙を見て長男が合格をしたことを知り、思わずパチパチと手を叩きました。

まぁ、そんな悲喜こもごもの思い出がよみがえってきます。

それが、今度は長男の娘であるモミィが高校受験ですからね~。嫌でもあの時の長男の様子が目に浮かんできます。だからモミィも熱なんか出したら大変、と受験の日まで真剣に心配していたのです。

そういうわけで昨日の朝、モミィが元気に出て行ったのを見て、僕たちは心から安堵したわけです。正直なところ、結果はどうでもよろし。まずは元気に受験できたのだからそれで良し。と、そんな気持ちで満たされていました。

さて、その昨日の夕方ですが。
「だだいま~」と帰宅したモミィに、「試験、どうだった?」と聞いたら、「あぁ~」と大声でため息をつき、「あかんわ。むずかしかったぁ~」と言って、あとはわけのわからないことをワイワイとわめいていました。だいたいモミィはよくしゃべるのですが、起承転結がないので、内容はさっぱり理解できないのです(笑)。

でも、僕も妻も、むろん合格すれば嬉しいに決まっていますが、たとえ結果がダメだったとしても、さほどガッカリしないと思います。繰り返しますが、元気に試験を受けられたことが何よりだったんですからね~。もう、あの長男の時のような思いは二度としたくありませんので。

合否の通知は明後日の13日(土)、速達郵便で送られて来るそうです。

結果は、またご報告しますね。

 

 

 

 

 

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高校受験に失敗しても ~塞翁が馬~

2020年12月20日 | 思い出すこと

今日はモミィではなく、大昔の僕の高校受験に関する話です。

僕は小学生の頃は勉強が嫌いで漫画ばかり読んでいました。当時は「貸本屋」というのがあって、そこで多くの漫画の月刊誌を借りて読むのが一番の楽しみでした。一人っ子だったし、両親は家から離れた場所で商売をしていたので日中は誰も家にいない。だから学校から帰っても、一人で漫画を読む以外にこれといった楽しみはなかったんですね。

       
  こんな漫画雑誌に夢中になっていました。

中学生になると、勉強しないと先生に叱られるのが怖かったので少しは勉強もするようになった(少し、ですよ)。そして高校受験を迎えた。まぁ大学へ行くなんてことは思いもしなかったので商業高校を受けようと、大阪市中央区にある東商業高校を受験した。でも落ちてしまった。ガッカリ。

仕方なく併願で受けて合格していた私立の近大付属高校の商業科へ行くことになった。今では近大付属高も、モミィによると偏差値は高く、結構レベルが高いそうだけど、僕らの時代はそんなことはなかった(御同輩、失礼!)。

そして初めて登校した日のこと。担任の先生が、クラスの学級委員長を決めるということで「これから5名の候補の名前を呼ぶので、みんなの挙手の数で委員長と副委員長を決めるからね」と言ったあと「〇〇クン、〇〇クン」と5人の名前を読み上げた。なんとその「候補」の中に、僕も入っていた。

僕たち5人は教壇に上がって並んだ。あとから聞くと入試の成績の良かった上位5人だったそうだ(ウソみたいな話だ)。そして5人の名前が順番に一人ずつ呼ばれ、その都度、50名以上いるクラスの生徒何人かが「お気に入り」の候補に手を挙げる。みんな今日が初対面なのに、何を基準に誰に手を挙げるのか、意味わからん。そして

終わってみたら、僕の時に手を挙げた人数が一番多かった。げぇっ!

というわけで、いきなり学級委員長になった。これは恥をかいたらあかん、と、中間テストや期末テストは全力を上げて勉強し、自慢ではありませぬが、3年間ほとんどクラスで1位の成績でした(自慢してるやん)。いや、それだけみんな勉強ができなかったということですわ。えへへ。

高校生になると漫画ではなく小説にのめりこみ、世界文学全集なんかを買って、一心不乱に読み続けたことも懐かしい思い出です。

で、近大付属高は近大の構内の奥の方にあったので、僕らは駅から通称「大学通り」と呼ばれる通りをまっすぐ歩き、突き当りが近大。その構内を通って一番奥の付属高校まで行く、ということで大学の中も通学路の一部でした。

やがて、大学生たちが大学通りやキャンパス内を歩いている華やいだ姿にあこがれ始め、特に男女の学生が仲良く歩いている光景など見ると、男子校の僕は「あぁ、ええなぁ」と羨ましく思い、いつの間にか「大学へ行きたいわ~」と思い始めたわけです。ちなみに、近大付属高から近大に進むのは、形ばかりの試験を受けるだけで簡単にいけました。(今は知りませんで)。

大学生活では自由と冒険を謳歌しました。3年生の夏に北海道往復自転車旅行に行き、その時期に今の妻と知り合い、大学卒業式の直前に結婚し、妻の勧めで松原市役所に奉職。それから38年間、定年退職まで、多少の起伏はあったものの、概ね仕事のほうも楽しく有意義に勤めることができました。

また一方で30歳前後の頃、四国、九州、中国地方の自転車旅行をしたあと、ニューヨークマラソンをはじめ、50歳を過ぎるまで各地のフルマラソンや100キロマラソンに参加し、子どもたちが手を離れた40代半ばから妻らと毎年のように海外旅行へ出掛けることもできました。

そんなことを今、楽しく思い出しながら、ここまで生きてこられたことを幸せに思っています。

それもこれも、東商業高校の受験に失敗したのが始まりでした。もし、そこに合格していれば、卒業後に商業関係の仕事についていただろうし、さまざまな冒険もできなかったのではないか、と思います。

「塞翁が馬」という言葉を思い出します。不幸だと思っていたことが幸運につながったり、幸運だと思っていたことが後に不幸につながったりする、というその格言そのままですね~

僕の場合は、高校受験に失敗したことが幸運につながったわけですもんね。人の運命ってホント、わからないものです。

でもね。
そんな話を今の受験前のモミィにしてやっても、きっとモミィは、
「意味わからへん。志望校に合格することが絶対に大事やから」
と言うに決まっていますけどね(笑)。

ちなみに、
僕が受験して落ちた東商業高校をネットで調べて見ると、6年前の2014年に閉校となり、95年の歴史に幕を閉じたと書かれていました。

僕にとっての「幻の母校」だった学校が、
今では、本当に「幻」となったんですね。

 

 

 

 

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「また逢う日まで」 で思い出すのは

2020年10月17日 | 思い出すこと

このたび亡くなられた筒美京平さんの曲の中で、最も有名なものの一つに尾崎紀世彦さんの「また逢う日まで」がありますね。
この曲に、僕はいつも心を揺り動かされます。
きょうはその理由を書いてみたいと思います。        

  ………………………………………………………………………………

「また逢う日まで」が大ヒットしたのは1971年(昭和46年)だった。この前も書いたように、当時22歳で大学4年だった僕は3月初旬に結婚し、1週間後に卒業した。就職先に関しては、今でいう就活には不熱心で「どこでもええわ」っていうノリで決めた小さな和楽器店に勤めることになった。

あえて言えば、大学1年生の時、琴や尺八を演奏する「邦楽部」という、いささか風変わりなクラブに所属していたことがあるので、和楽器を扱うところだったら少しは馴染めるだろうと思ってそこに決めた、とも言える。

そこで僕が命じられたのは、アベノ近鉄百貨店の和楽器売り場への出向だった。百貨店の店頭に立つとはねぇ。思いも寄らなかったけど。

和楽器の売り場は、僕ともう一人アルバイトの女子学生の子とでやっていたけれど、ヒマだった。琴や尺八や三味線がそれほど売れるわけないしね。お客さんというのは、和楽器の付属の小物とか、琴を弾くときの爪とか、謡曲の冊子などを求める人が大半だったが、それでもヒマなのでほぼ立ちんぼのまま。

当時近鉄百貨店は木曜日が休みで、もちろん日祝日は出勤日。勤めていた妻ともゆっくり過ごせる時間がない。新婚なのに休みの日が合わないのは寂しい。家に帰ると幸福感に満たされるが、売り場に来て立っていると、虚しさがこみ上げてくる。また、僕は出向社員なので、楽曲関係の売り場の責任者も、百貨店の正社員とは扱いも違い、時にはみじめな思いもさせられた。社会人の厳しさを身をもって知らされたわけですね。

結局、そこは3ヵ月で退職して、夏に松原市役所の入所試験を受け、8月から地方公務員としての生活が始まったことは先日も書きました。

ところで、僕がいた近鉄百貨店の和楽器売り場のすぐ横にレコード売り場があった。そこで開店から閉店までず~っと流れていた曲が「また逢う日まで」だった。

ほかにもキャンペーン曲は流れるのだけれど、ほぼ2、3曲に一度の割合でこの曲が流れた。それも大音響だ。そのすぐそばに立っている僕は、それがイヤでも耳に入って来る。来る日も来る日も「また逢う日まで」を全身に浴びながら、僕は売り場に立っていたのだ。

   タッタン タタンタタッ
  タッタン タタンタタッ
  チャッチャ~ン チャンチャンチャ~ン 
  チャ~ン タタンタタ~ン 
  また逢う 日まで~ 逢えるときまで~ 
  別れのそのわけは~ 話し~たくな~い 

開店から閉店まで、1日で何十回聴いたことだろう。なにせヒマなものだから、ボンヤリとその曲が聴こえるまま、歌も全部覚えてしまい、頭の中に刻み込まれてしまった。おそらくこれまでの自分の人生の中で、最も多く聴いた歌は、この歌だろうな、と思います。

それが、ここを辞めるまで、3カ月間続いたのでした。

「また逢う日まで」が耳に響く中で、僕は売り場に立ったまま、今のままでいいのか? 早くここを辞めて他の仕事に就いたほうがいいのか? そんなことを毎日考え続けていました。そして最後に「辞めよう」と決心した時も、この曲が流れていたと思います。

百貨店に最後に出勤した6月30日も、相変わらず一日中「また逢う日まで」が流れており、そして、僕はその歌に見送られるようにして仕事を終えたのでした。

あれから49年が経ちました。

地方公務員への転職後、60歳の定年退職までの約38年間の職場生活は、部署や上司にも恵まれ、とても楽しく仕事をさせてもらいました。

筒美京平さんの代表曲「また逢う日まで」が、今またテレビで何度も繰り返し流されているのを見て、あの百貨店の和楽器売り場に立っていた3ヵ月間を鮮明に思い出しました。

あまりの懐かしさに体が熱くなってきます。

 

 

 

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「魅せられて」 の筒美京平さんが死去

2020年10月14日 | 思い出すこと

前回ブログで「東京オリンピックマーチ」をテーマに、作曲家・古関裕而さんのことに触れました。

「えっ? この曲も、あの曲も、あの人の作曲だったの?」
と驚いたのですけど、今日もまた同様に驚いた話です。
というか、もっともっと驚いた話です、ハイ。

先日、作曲家の筒美京平さんが80歳で亡くなられました。それで、昨日はテレビ各局で筒美京平さんを偲ぶ映像が流されていました。ご覧になった方も多いと思います。

もともと昭和の歌謡曲は大好きだった僕なのですが、筒美京平さんという作曲家はあまり記憶に残っていません。よく知っていたのは、吉田正、船村徹、古賀政男、遠藤実、服部良一、中村八大などの人たちでした。しかし

昨日の朝、羽鳥慎一さんの「モーニングショー」で筒美京平さんの曲が次々と流れているのを見てびっくりしたのです。どれもこれもよ~く知っている懐かしい曲ばかり。いや、自分の人生にかかわる曲まであった。へぇ、あれもこれも、この人の作品だったのか! という驚きの連続でした。

さて、その番組で流された映像と曲を順番に書いていきますと

近藤真彦の「スニーカーブルース」「ギンギラギンにさりげなく」
庄野真代の「飛んでイスタンブール」
C-C-Bの「ロマンチックが止まらない」
いしだあゆみの「ブルーライト横浜」
太田裕美の「木綿のハンカチーフ」(今日の「天声人語)で絶賛してました)
ジュディ・オングの「魅せられて」
少年隊の「仮面舞踏会」
堺正章の「さらば恋人」
尾崎紀世彦の「また逢う日まで」
斉藤由貴の「卒業」
岩崎宏美の「シンデレラハネムーン」
郷ひろみの「男の子女の子」
麻丘めぐみの「私の彼は左きき」

などなど、です。

いやまぁ、すごいですね~。
特に、1971年から1987年までに多くのヒット曲を量産されたとのこと。僕の年齢で言えば22歳から38歳まで。なので僕らの世代の人たちは知らない歌はないんじゃない? と思いますね。

さて、これらの中でも、じゃぁ僕が一番好きな歌はどれ?
と聞かれると、もちろん全部、と答えたいところです。しかし、どうしても一曲だけを選びなさいと言われたら

ジュディ・オングの「魅せられて」でしょうね。

僕が30歳の時(1979年)に大ヒットした曲です。
この年には八代亜紀の「舟歌」、小林幸子の「思い出酒」などもヒットしましたが、そんな強力なライバルを押しのけて、この「魅せられて」がレコード大賞に輝きました。

この歌を聞くと、今でも身も心も舞い上がるような心地がします。

むかし、職場の人達や仲の良いグループでよくカラオケに行きましたが、女性の人にはいつも「魅せられて」をリクエストしたものです。その歌を聞くともう夢心地。そのうち、いつの間にかリクエストもしていないのに「魅せられて」を歌ってくれる女性も出てきてくれました。よかったなぁ(遠い目)。

その昨日の「モーニングショー」で流された「魅せられて」の映像を写真に撮りました。


 

 

ところで、5年前のある日のこと。

当時9歳で小学4年生だったモミィの前でこの歌を歌った。

 ♪  好きな男の腕の中でも
  違う男の夢を見る
  ウ~ウ~ ウ~ウ~
  私の中でお眠りなさい

すると、それを聞いていたモミィが突如、
「それ、あかんやろ。さんかくかんけいやんか」
と、叫んだのだ。

いやまぁ、あの時はビックリしました。
「三角関係」なんていう言葉を知っていたのにもビックリ。

まあ、「好きな男の腕の中でも 違う男の夢を見る」
というのは確かに道徳的にはモンダイあり、なんでしょうけどネ

「ほんまやで。あかんで、三角関係は」
と、何度も繰り返したモミィでした。

それ以来、モミィのいる前では、うっかり歌も歌えませんわ(笑)。

その時のことは、5年前のこのブログに書いています。

  「魅せられて」 (2015年05月23日) 


★次回は筒美京平さんの曲で、先ほど「自分の人生にかかわる曲」と書いた曲について触れてみたいと思います。

では皆さま、また逢う日まで!

 

 

 

 

 

 

 

 

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56年前 10月10日の思い出

2020年10月11日 | 思い出すこと

昨日、10月10日に関する記事をアップしましたが、書き足らないところがあったので、書き直して掲載します。

さて、
昨日の10月10日は、56年前に東京オリンピックの開会式が行われた日でした。

そしてその日が「体育の日」に定められたのですが、いつの間にか「10月の第二月曜日」に変更され、さらに今年は「体育の日」が消え「スポーツの日」という祝日ができて、その日も10月から7月24日に変わっている。理由は、今年開催されるはずだった「2020東京五輪」の開会式に合わせてのことだったそうだけど、これでもう10月10日という僕にとって一生忘れられない日は、世間では徐々に忘れられていくのでしょうね。

 …………………………………………………………………………

56年前→1964年(昭和39年)10月10日は土曜日でした。僕はその時、近畿大学付属高校の1年生で15歳だったのですが、土曜日なので授業は4時間でした。

しかしその日の朝礼で、校長先生から、

「今日はお昼に東京オリンピックの開会式があります。ですから本日の授業は3時間目で切り上げます。諸君、早く家に帰ってテレビで開会式を見なさい」
との嬉しい言葉がありました。

もちろん、僕もまっすぐ帰宅してテレビにかじりつきました。

開会式の画面では、
天皇陛下が席に着かれ、国歌が演奏されたあと、「オリンピックマーチ」が高らかに鳴り響き、各国の選手団の入場が始まりました。オリンピック発祥の地であるギリシャを先頭に英語のアルファベット順に入場し、最後に開催国の日本選手団が入場。その時の僕の興奮は、絶頂に達しました。

それから閉会までの15日間、学校から帰るとすぐにテレビをつけてオリンピックを見て、休みの日となると、ず~っと見ていまでした。

そんなことで、毎年10月10日になると、そのことを思い出します。そのたびに、開会式の入場行進の時に流れた「オリンピックマーチ」のメロディーが思い浮かび、時には口ずさんだりしてきました。ホント、あのマーチは最高でしたね。

以上は、過去の懐かしい思い出ですが、今年の春から始まった、朝ドラの「エール」を見てビックリ仰天したのです。

あの「オリンピックマーチ」を作曲したのがこのドラマの主人公のモデルとなっている古関裕而さんだったということです。ドラマの第一回目が、東京五輪のシーンから始まったので、そのことを知りました。

ちなみに古関裕而さんはそれだけでなく、阪神タイガースの応援歌「六甲おろし」も、僕が好きな巨人軍の「闘魂込めて」も作曲されており、それは全然知らなかった。巨人も阪神も応援歌は同じ人の作曲によるものだったとはねぇ

ほかにも高校野球の入場式に流れる曲も、NHKのスポーツ番組が放送される際に流れる曲も、その他、有名な曲がヤマほどあるという偉大な作曲家だったのですね、古関さんは。
知らなかった~

で、あの東京五輪の開会式から56年。

早いですねぇ。
15歳という多感な時期と重なったのも、何かの因縁かも。

その15歳からの10年間というものは、
読書に狂い、年に100冊以上の本を読んだ。大学に進んで和楽器のクラブに入ったけれど1年足らずで挫折。19歳の時に夜間の速記学校に通って今の妻と知り合い、20歳の時に自転車で北海道往復の放浪の旅に出て、22歳の卒業式直前に結婚した。そして4月から勤めた和楽器店を約3カ月で退職し、夏に松原市役所の職員の臨時募集に応募して再就職。翌年23歳で長男(モミィのパパ)、24歳で次男が誕生。25歳の時に今の藤井寺市に引っ越してきた

というふうに、僕としては激動の10年間でした。

では、僕の最近のこの10年間はどうだったか? と言うと
市役所を退職してから「毎日が日曜日」で、これと言って特筆すべき出来事はありません。同じ10年間でも、若い時の10年間と今とでは、えらい違いですわ(笑)。ま、それが普通なのかも知れませんけど。

僕は一人っ子だったせいか、高校生になるまでは、これと言った感激や刺激もなく、たいした苦労もせず、ただぼんやりと過ごしてきた感じがします。でも、この東京オリンピックの頃から「熱中」と言う感覚を知り、自分と向き合い、自分らしい人生がやっと始まったのかな、と今となっては思います。

昨日の10月10日は、56年前の「オリンピックマーチ」を口ずさみながら、そんなことを考えていました。


★おまけ

ちなみに、56年前の東京オリンピックの担当大臣は、河野一郎さんという方でした。この人の孫が、今、ハンコを廃止するなどと何かと話題になっている河野太郎行政改革担当相です。
ま、別にどうってことない話ですけど(笑)。

 

 

 

 

 

 

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中国の 「食べ残し禁止令」 で思い出すこと

2020年08月24日 | 思い出すこと

いま中国では「食べ残し禁止令」というようなことが、国家主席の習近平によって強く打ち出されているようです。「食べ物を大切に!」という当たり前のことを、なんで今ごろ言うのかと、日本人なら不思議に思うところですが、中国というのは独特の習慣が数多くありますからね。

それで思い出すのは、25年ほど前に北京へ旅行した時のこと。当時長男が大学生で、高校時代に同級生でガールフレンドだった子が北京の大学に留学していたので、彼女を訪ねて僕と妻と長男の3人で行った旅だった。

そんなことで、北京では彼女がずっと案内してくれた。

食堂に入ったとき、僕がふと気づいたのが、他の客(むろん中国人)が食べ終えて帰ったあと、そのテーブルには、必ず皿に料理が残っていたのだ。あちらの食堂でも、こちらのレストランでも、例外なく。

不思議に思って彼女に尋ねると、
「こちらの人は食べ物を残すのがマナーなんです」
と言うので、「なんのために残すの?」と聞き返した。

すると彼女は、こう説明してくれた。

全部食べてしまうと、「この量では足らんじゃないか」という意味にとられてしまうからだという。料理を出してくれた人に失礼だ、ということですね(日本だったら残すほうが失礼に当たりそうだけど)。

ということで、全部食べず、ある程度の量を残して店を出て行く。
「たっぷりいただいたので、もう満腹です」
そういう意思表示らしい。

へぇ~。国が違えばマナーも違うんだ。僕らは子供の頃から、食べ物を残してはいけないと教えられてきたのにねぇ。

だから僕たちも「郷に入っては郷に従え」ということで、北京では、どこの食堂に入っても一定の量を残して店を出た。全部食べたかったですけどね。

まあ、それも25年も前のことだから、今は中国でも変わってきているのでは、と思っていたけど、最近テレビで、日本へ来る中国人観光客のマナーの悪さの一つとして、バイキングでもお皿に沢山残したまま出てゆくと報じられていた。ふ~む、やっぱり今も続いているのか、と思いましたね。

そして今回の「食べ残し禁止令」のニュースがあったので、「中国でもやっと食べ物の大切さがわかったか」と思った僕でした。

テレビでは、中国の若い女性がカップ麺12個を次々と平らげていく様子や、鍋料理をひとりで20人分食べている人などの「爆食い」の動画が紹介されていた。こういう爆食いや、食べきれないほど多くの量を注文し、沢山残して帰る客に対して、今回「食べ物のムダだからやめろ」となったわけですね。爆食いの動画も全部削除されたそうだし。

そして、食堂で食事を残さず全部食べた人には、店から日本円にして100円程度のクーポン券を進呈する、ということも始めたそうです。

中国では最近、食料輸入が厳しくなってきているそうで、それが今回の「食べ残し禁止令」の大きな理由の一つだと言われていますけど、何がどうあれ、食べ物を粗末にしてはいけませんよね。

今回の習近平の号令で、中国人の食習慣も変わるんでしょうね。次、また北京へ行ったとしたら、今度は食堂で残さず全部食べられますね~
まあ、行くことはないと思いますけど。

 

 

 

 

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横田めぐみさんの拉致現場を見て

2020年06月07日 | 思い出すこと

北朝鮮に拉致された横田めぐみさんのお父さんの横田滋(しげる)さんが老衰で亡くなられたと、昨日のニュースで報じられました。奥様と共に、僕らには想像もできないほどの辛い人生を送ってこられたものと思います。

この横田めぐみさんの拉致事件に関する話を聞くと、必ず思い出すことがあります。今から12年前になりますが、2008年(平成20年)の10月。新潟へ出張に行った時のことです。

仕事を終えて大阪に帰ろうと、空港までタクシーに乗ったけれど、まだ時間に余裕があったので、新潟市内を適当にめぐってもらうことにした。しばらくして、タクシーは海に近づいて行き、人通りのない細い坂道を上がって行くと、右手に学校のような建物が見えてきた。

「この、右に見えるのは中学校なのですが」とタクシーの運転手さん。
「二葉中学校と言います」
「えっ? フタバ中学校?」と僕は聞き返した。
この中学校に、何か由来があるのだろうか
すると運転手さんは驚くべきことを言ったのです。

「二葉中学校は、拉致された横田めぐみさんが通っていた中学校なんです」
「えぇっ、何ですって?」と僕は聞き返した。
ここが? 横田めぐみさんが通っていた学校? 
いきなりのことだったので、本当に驚いた。

事件が起きたのは1977年(昭和52年)11月15日のこと。一人の少女が忽然と姿を消したのは、この中学校からの帰り道だったというのです。当時めぐみさんは中学1年生で13歳。まだあどけない年頃です。

「そうですか。ここがめぐみさんの通っていた中学校だったんですか
僕は身を乗り出して右手の窓から校舎を眺めながら、もう、それ以上の言葉は出てこなかった。

タクシーはめぐみさんの通学路だった海岸に沿った道を走り始めましたが、整備の行き届いた道路と公園の木々の緑は美しかった。しばらく行ったところで運転手さんが車を止め、再び口を開きました。

「このあたりでめぐみさんが拉致されたのだろう、と言われています」

ごく普通の道路と、ごく普通の歩道があり、海辺の方は木々が生い茂り、何とも穏やかな風景だった。こんなところで

この辺のどこかに悪魔が潜み、何の罪もない一人の純真無垢な少女を肉親から引き裂き、少女が育んできたすべてのものを奪い去ったのだ。その時、めぐみさんがどんな思いだったか。想像しただけでも身震いがする。

そんな思いを巡らすと、だんだんと気が重くなってきた。

運転手さんは前方を見つめながら、淡々とこう言いました。
「めぐみさんは絶対に生きていますよ。でももうこちらには戻って来ないんじゃないかと、思いますね。ご本人の意思としてもですね」

そんなことを途切れ途切れに、噛み締めるような口調で言ったのです。

そしてさらに運転手さんは、こう続けました。
「めぐみさんは結婚して、子どもさんもいるし。それに、あちら(北朝鮮)ではかなり優遇されているんだと思いますよ。もう何十年もあちらで暮らしているんですからね。もちろん、お父さんやお母さんに会いたいでしょうけど、今の自分の生活や家族も捨てられないのではないでしょうか」

地元の人たちはみんなそう言っている、とのことでした。
「それは、めぐみさんは元気で暮らしているんだという願いを込めた思いでもありますが」
と運転手さんは自分自身に言い聞かせるようにつぶやいた。

この言葉は、今も忘れられません。

「では、お時間ですから、このまま新潟空港に向かわせてもらいます」
車が動き始める。
「ええ、お願いします」
と返事をしたあとのことはほとんど覚えていない。視界から遠ざかる海辺の光景だけが、今も強烈にこの目の奥に焼き付いています。

 ………………………………………………………………………………………

めぐみさんが行方不明になったのが1977年。その後20年経った1997年に北朝鮮の拉致疑惑が表面化して、横田滋さんはその時結成された「拉致被害者家族の会」の代表に就任しました。それ以来、僕たちは20年以上、横田さんご夫妻の活動をニュースで見てきました。

滋さんのお人柄の良さそうな笑顔と、奥様である早紀江さんの優しくてかつ凛々しい表情に、逆に僕たちが勇気づけられることも多々あったほどです。

滋さんのご逝去を悼み、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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八戸市のT先生のこと ~10年前のブログです~ 

2019年09月10日 | 思い出すこと

前回、八戸高校の短歌部の皆さんが高校日本一になったことを書きました。その指導をされているのがT先生なんですが、そのTさんから、初めてメールをいただいた時のことを思い起こしました。そして、今からちょうど10年前に、このブログで詳しく書いていたことを思い出しました。

初めてTさんという方から、驚くべきメールをいただいたことに、当時、僕も一言で言い表せないほどの感激をしたことは、今も忘れられません。

今回のことがあって、改めて当時のブログを読み返し、懐かしさに浸っています。で、もう一度、当時の2本のブログをここに紹介させていただきたいと思います。僕にとって、とても記憶に残る記事だったし、それを記録として再度ここにご紹介したいと思う次第です。

いずれも2009年8月のブログですが、初めてT先生からメールをいただいたのは、その何年か前のことでした。

まずこのブログから。

 八戸の奇跡

 

そして、それから数日後の、これもTさんに関するブログです。

啄木歌碑を巡る冒険

 

懐かしいです。
当時、yukariさんもコメントをくださっているのも、懐かしいですね~
 

 

 

 

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