めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

アクシデントは不幸でなく、人生のスパイス

2017-03-25 14:11:27 | 社会

私たちは、出来る事なら、一生、アクシデントに見舞われず、
辛い思いをしないで生きたいと思うものです。
この事は、誰もが思う事と思われますが、アクシデントと
言う様に、その時は、突然にやって来ます。
ほとんどの場合、思いがけない時、予測をしていない時に訪れ
心の準備がないままに、気持ちが翻弄されたり、何をすべきか
混乱してしまったりしがちです。

普段の生活に於いて、その日の自分の行動は、少なからず
予測をしていて、毎日同じような繰り返しである事が多いです。
時に、単調で、つまらなく思う事も有るのですが、何もない事が
幸せで在るとも言えます。

しかしながら、人は、常に止まらないで、先に進もうとするものです。
今の生活に満足せず、新たなる喜びを求め、努力を重ねるのですが、
次に何を求めるかで、アクシデントの時のショックも違ってきます。

特に、前向きな、長期にわたる夢を描いている時、突然の中断は
精神的にも肉体的にも大きなストレスを生みます。
何かに耐えて頑張っている時は、例え逆風が吹いても、頑張ろうと
反射的に考えるのですが、順風満帆の状態で、何の準備もなく
大きなアクシデントに見舞われると、次への道を見失う程大きな
衝撃を感じるものです。

生きていると、誰もが、一度ならず、何度もその突然の出来事に
大きなストレスを受け、中には、余りの大きさに、自らの未来を
考えられなくなってしまう事もあるのです。
しかし、人は、このアクシデントを他人に見ると、逆に、楽しんだり
幸せに感じてしまう事も有ります。

俗に言う、他人の不幸は蜜の味、という言葉に見られる様に、
誰かが不幸になる事で、自分の幸せや安全を感じると言う、
人間の厄介な感情が有ります。
テレビでお笑いタレントが辛くだらしない役割をして演ずるのを見て、
自らの心を幸せとするのは知られていて、自分が見舞われたくない
出来事を俳優が演じることで、蜜の味を味わっているのです。

とは言え、画面の中で作られている様々なアクシデントを自らが
体験する場合も有るのです。
その時は、その不幸の主人公となるのですが、テレビの中の様に
直ぐに立ち直れれるとは限らず、更なる追い打ちを食らう事も有り
現実の世界は、小説やドラマの様にはいかないのです。

しかし、どんなに厳しい状態にあっても、時が経つと、新たなる
展開が生まれて行くのも人生なのです。
もう生きて行けないと思っても、自殺しなければ、その先ずっと
生きて行けると言うのも人生なのです。

ラマ以上に、大逆転劇が待っている事もあり、最悪と思える状況を
更に超える劣悪な環境に陥る事も有ります。
つまり、生きている限り、あらゆる出来事が用意されていて、
それらの出来事を体験しながら生きて行くのが、人の一生でもあり
テレビや映画の様に、時間が来れば終わるのではなく、死ぬまで、
続く、長編連続テレビ小説のようなものです。

誰もが、様々な個性を持っている様に、一人一人には、それぞれ
全く異なたドラマが用意されているのが人生と言えるのです。
そもそも、その人生の中で、何事もない幸せな事だけを望むのは
全く面白くないテレビや映画を見る様なものなのです。

自分だけに与えられた、自らが主演として演じられる、最も
ドラマチックな長編映画に出ている様の物なのです。
どんなに悲惨な映画でも、恐ろしい映画でも、私たちは、
ジュース片手に最後まで見てしまいます。
自分の人生の映画も、そんな気持ちでいていいのです。

たまたま自分に与えられた出来事であり、それは、自分が
決めたことではなく、人生と言う映画の一場面に過ぎません。
たまたまアクシデントで、人生を終える事も有りますが、
人並みに生きるのであるならば、それ相応のアクシデントは
用意されていると言って良いのです。

大切な事は、自分が思う様に生きられる様に人生は出来ていて、
諦めなければ、殆どの場合、それぞれの努力相応の夢は
実現するのです。
人は常に進化して生きて行くものですが、それを阻む物は
決してアクシデントでは有りません。
アクシデントやトラブルで、自分の生き方を変えてしまう事が
自分の道を閉ざす原因となっているのです。

同じ出来事であっても、人によって幸せに感じたり不幸に感じたり
人間は、本当に面倒な生き物です。
しかし、どの様に感じようと、人生は成るように成り、思ったように
進んでいくものです。
ならば、何事も、楽しい人生の一部と思い、時が経つのを
待っていれば、また、道が見えてくるものです。