めぐろのめばる

目黒川近辺で日本の四季を楽しみ、未来の日本を憂う。
かつての美しい日本と日本人がいかに素晴らしかったかを思う。

アクシデントは不幸でなく、人生のスパイス

2017-03-25 14:11:27 | 社会

私たちは、出来る事なら、一生、アクシデントに見舞われず、
辛い思いをしないで生きたいと思うものです。
この事は、誰もが思う事と思われますが、アクシデントと
言う様に、その時は、突然にやって来ます。
ほとんどの場合、思いがけない時、予測をしていない時に訪れ
心の準備がないままに、気持ちが翻弄されたり、何をすべきか
混乱してしまったりしがちです。

普段の生活に於いて、その日の自分の行動は、少なからず
予測をしていて、毎日同じような繰り返しである事が多いです。
時に、単調で、つまらなく思う事も有るのですが、何もない事が
幸せで在るとも言えます。

しかしながら、人は、常に止まらないで、先に進もうとするものです。
今の生活に満足せず、新たなる喜びを求め、努力を重ねるのですが、
次に何を求めるかで、アクシデントの時のショックも違ってきます。

特に、前向きな、長期にわたる夢を描いている時、突然の中断は
精神的にも肉体的にも大きなストレスを生みます。
何かに耐えて頑張っている時は、例え逆風が吹いても、頑張ろうと
反射的に考えるのですが、順風満帆の状態で、何の準備もなく
大きなアクシデントに見舞われると、次への道を見失う程大きな
衝撃を感じるものです。

生きていると、誰もが、一度ならず、何度もその突然の出来事に
大きなストレスを受け、中には、余りの大きさに、自らの未来を
考えられなくなってしまう事もあるのです。
しかし、人は、このアクシデントを他人に見ると、逆に、楽しんだり
幸せに感じてしまう事も有ります。

俗に言う、他人の不幸は蜜の味、という言葉に見られる様に、
誰かが不幸になる事で、自分の幸せや安全を感じると言う、
人間の厄介な感情が有ります。
テレビでお笑いタレントが辛くだらしない役割をして演ずるのを見て、
自らの心を幸せとするのは知られていて、自分が見舞われたくない
出来事を俳優が演じることで、蜜の味を味わっているのです。

とは言え、画面の中で作られている様々なアクシデントを自らが
体験する場合も有るのです。
その時は、その不幸の主人公となるのですが、テレビの中の様に
直ぐに立ち直れれるとは限らず、更なる追い打ちを食らう事も有り
現実の世界は、小説やドラマの様にはいかないのです。

しかし、どんなに厳しい状態にあっても、時が経つと、新たなる
展開が生まれて行くのも人生なのです。
もう生きて行けないと思っても、自殺しなければ、その先ずっと
生きて行けると言うのも人生なのです。

ラマ以上に、大逆転劇が待っている事もあり、最悪と思える状況を
更に超える劣悪な環境に陥る事も有ります。
つまり、生きている限り、あらゆる出来事が用意されていて、
それらの出来事を体験しながら生きて行くのが、人の一生でもあり
テレビや映画の様に、時間が来れば終わるのではなく、死ぬまで、
続く、長編連続テレビ小説のようなものです。

誰もが、様々な個性を持っている様に、一人一人には、それぞれ
全く異なたドラマが用意されているのが人生と言えるのです。
そもそも、その人生の中で、何事もない幸せな事だけを望むのは
全く面白くないテレビや映画を見る様なものなのです。

自分だけに与えられた、自らが主演として演じられる、最も
ドラマチックな長編映画に出ている様の物なのです。
どんなに悲惨な映画でも、恐ろしい映画でも、私たちは、
ジュース片手に最後まで見てしまいます。
自分の人生の映画も、そんな気持ちでいていいのです。

たまたま自分に与えられた出来事であり、それは、自分が
決めたことではなく、人生と言う映画の一場面に過ぎません。
たまたまアクシデントで、人生を終える事も有りますが、
人並みに生きるのであるならば、それ相応のアクシデントは
用意されていると言って良いのです。

大切な事は、自分が思う様に生きられる様に人生は出来ていて、
諦めなければ、殆どの場合、それぞれの努力相応の夢は
実現するのです。
人は常に進化して生きて行くものですが、それを阻む物は
決してアクシデントでは有りません。
アクシデントやトラブルで、自分の生き方を変えてしまう事が
自分の道を閉ざす原因となっているのです。

同じ出来事であっても、人によって幸せに感じたり不幸に感じたり
人間は、本当に面倒な生き物です。
しかし、どの様に感じようと、人生は成るように成り、思ったように
進んでいくものです。
ならば、何事も、楽しい人生の一部と思い、時が経つのを
待っていれば、また、道が見えてくるものです。

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


誰が成っても同じとされるリーダーの価値

2017-03-24 16:26:44 | 日本人

日本の社会を動かしている方々の失態が、どれ程、国民の
期待も夢も裏切っている事でしょう。
どちらの立場にせよ、利権に裏打ちされた醜い言い争いは
日本社会が今だ成熟せず、我儘な人たちによって動かされている
情けない状態と言えます。

子供の頃から他人より秀でて、社会を担って行く立場になった人も
所詮、我欲から逃れることは出きず、自分の地位や名誉、経済力によって
より私欲を肥やす事しか考えていない結果、様々な問題が噴出し
同じ仲間同士で、相手のアラを探し合っている姿は、余りにも幼稚で
とても日本を代表する人達とは言えません。

外見や肩書でしか人を判断できない日本社会の恥部は、如何に利益を得るか
と言う事に常に論点が集まり、社会常識も、法律も、人としてのマナーも
全く関係なく、自分の欲求を満たす事のみが、個人的にも法人としても
生きるための目的となって、いつまで経っても、醜い論争が無くなる事は
無いのです。

しかも、これらの問題の多くが、国民とは関係なく、私達を導くべく
地位に在る方々の所業である事が、非常に腹立たしく思えます。
政界財界を騒がす事件は、いつの世も、庶民とは程遠いお金が動いていて
如何に陰で多くのお金が動き、数知れずのタヌキどもが私欲を満たし
ほくそ笑んでいるかと思うと、国民が幸せにならないはずだと
諦めの境地と成ってしまいます。

とはいっても、これが日本の現実であり、日本社会の象徴とも言え
日本国民が、如何に、人間的に進歩していないかが解ります。
バブル以降、人々の暮らしは益々苦しくなっているだけでなく、
相変わらず、国民の心は、殺伐としたものがあり、ただ私欲のみが
強くなって、自分だけの利益を求める様は、キツネやタヌキと
何だ変わりないのです。

ただ、外見だけは取り繕って、中身は、虎視眈々と我欲を求める
そんな国民は、日本人とは言えないのです。
経済的に便利で豊かな生活をを幸せと思わせる社会構造は
日本人そのものの資質を著しく低下させ、例え、経済的に豊かな
先進国になったとは言え、人間的には、本当に貧しい人が増え
ただ、殺伐とした事件が増えたり、人々の悲しい生活が
浮き彫りにされるだけなのです。

私たち日本人は、一体何を求めて生きているのでしょう。
より豊かな生活を与えられる事を幸せと思っているのでしょうか。
ならば、経済的に豊かな人たちは皆、幸せなのかと思いきや、
実際は、どんなに豊かな生活をしていても、心が満たされず、
より、経済性に救いを求めることで、苦しみを増している人が
非常に多いのです。

問題は、子供たちの未来です。
マスコミの影響からも、経済的に豊かな生活が、人の道である
かの様な、自分の置かれた環境、経済的裕福度によって
自分の価値を決めている子供たちがとても多いのです。

この事は、多分に親の影響もあり、家庭に於いても、
親子の関係すら、親の経済力で変わってしまっている事も有り
如何に子供たちは教育されていくべきかと言う点に於いて
多くの親が、人としての教えが出来ていないのが問題です。

世の中の規律、家庭での親子の在り方が、子供の我儘に左右され
ただ仲良くするだけで、本当に子供の心を育てる方法が解らない
教育を放棄した親が多いのです。
親も子供も、更に、教育者も、お互いに嫌われたくないと言う
自己防衛の感覚が優先し、どの立場に於いても保身が働き
お互いに我儘に成ってしまっているのが目に付きます。

感情のままに怒る親はいても、叱る親や大人が減ってしまった事は
子供たちの心の成長を阻害し、単なる我儘な子供を育てるだけと
成っているのです。
この事は、社会人においても、叱られたことのない大人が増えて、
我儘を通しながら社会に出たことで、自分の思い通りにならないと
仕事が出来なかったり、直ぐに、仕事を辞めてしまったりと、
しっかりと問題に対処する力が無い、成熟できない大人を多く
育てる結果となっているのです。

しかしながら、こんな大人が経済力や権力を持ったのが、現実の
トラブルを生み出す方々と言えるのです。
誰かに常に守られ、自分の欲を満たす事だけで成長し、世の中の
リーダーシップと取る職種に付いたときから、人々の不幸が
始まるのです。

もちろん彼らにと言うより、その部下であり、国民であるのです。
人の気持ち国民の気持ちが理解できない、知識だけの堅い頭が
私欲を肥やそうとすると暴走し、更には、国民を苦しめるのです。

現実に苦しんでいる人たちを助けようとしないで、自分達をより
経済的に豊かにする方策を取る事に依って、国民が豊かになるとする
いつまで経っても結果が出ない嘘で固める政策を続けるのです。
裕福な人々をより裕福にする政策を、国民を幸せにするものと
すり替えたとて、しょせん結果が出ないのですから、如何に愚策としか
考えられないのです。

大災害が起こると、すぐに対処するのですが、その被害よりも遥かに
多くの被害が国民全体を苦しめている現状を解っていないのです。
膨大な資金をすぐさま出せる準備が有るのなら、それを、国民の
幸せの為に使う事も出来るのです。

災害と違って、悲しみや苦しみが伴ってはいないはずです。
本当に経済を活性したいと思うなら、国民が本当に豊かになる為に
莫大なる国費を使う英断を行ったとしても、国民はその行為に
拍手を送るはずです。

こそこそと陰で私欲を肥やす事を考えるより、より進歩的で
自分達の地位や名誉が人々により一層支持されるはずです。
巨大な資本も、国家予算も、世の中の現状を理解できない
自分の欲望しか考えられない人たちの間で動いているのです。

国民は、国に取り立てられる血税が、全て国民の為に役立てられ
我々の代表は、国民の方に向いていると信じていますが、
残念ながら、多くの偉い方々は、お互いに頭を向け合って
国民には尻を向けて、自分達の生活を中心に考えているのです。

自分達を守るための弁舌の上手さは天下一品ですが、
国民を本当に癒すための言葉は、めったに聞けず、私達に
首を向け、頭を垂れるのは、選挙の時だけなのです。

政治家に成ろうが、企業家に成ろうが、どんな職種であっても
経済主義国家として、自分達の仕事に於いてより豊かな生活を
創り上げようとするのですが、その生活を支えているのが
経済的に豊かでない国民の多くであることが解っていません。

彼らの多くは、国民がどれ程苦しい生活をしようと、殆ど
気にも留めません。その事で、自分達の生活に影響が無い限り。
全く国民の事を考えないで暴走したのが、諸外国との戦争です。
何故、戦争をしなければならなかったのか。

それは、国民の幸せの為では、決してなかったのです。
一部の人達の欲望を満たすために、多くの国民が犠牲になり
いまだに、我が国のみならず、諸外国の多くの方々を苦しめ
対外的な問題と成っているのです。

今や日本は、リーダー達と国民が分断されつつあるのです。
一部の富裕層の欲望を満たすために国民は苦しんでいるのです。
しかし、この欲望が、私達国民から得られなくなったとき、
また新たなる争いが生まれるのです。
彼らは、国民の為にと言った、もっともらしい口実を並べますが、
所詮戦争は、一部の人達の欲望が生む物であり、多くの人達が
不幸のどん底に落とされるのです。

挑発的な近隣の国々、世界的な日本バッシング、経済低迷社会、
この事にしびれを切らし、暴発するのは、いつの世も、その国の
富裕層であり、彼らに操られる政治家なのです。
近年、この方々のお家騒動が頻発していますが、お互いに我欲が
優先している事から、醜い争いとなっているのです。

こんな茶番を、海の向こうから薄ら笑いで見ているのが、他ならぬ
商売人そのもののアメリカ大統領です。
経済至上主義とも言えるこの大統領は、政治家と企業家が合体した
史上最強の我欲の持ち主と言っても良いでしょう。

利益になる事かならない事かで、すべての懸案を、バッサリと切れる
日本にとっては、今までにない最強の商人です。
日本の立場とか、これまでの友好関係とか、今後の利益とならなければ
簡単に断ち切る事が出来る人間です。
当然、今の日本の状態は、内輪もめであり、その事の良し悪しよりも
今後の自国の利益にどの様に影響するかしか関心が有りません。
事が進んで、体制が変われば、これまでと違った対応となる為、
新たなる利益戦略を構想していると思われます。

日本の政界がどの様に成ろうと、列強の対応は変わらないのです。
近隣諸国は相変わらず圧力を強め、アメリカは、日本を盾として
考えている事に変わりはないのです。
つまり、今のリーダー達の価値は、それ程重要とは言えないのです。
諸外国に対して、何の影響も与えられず、親方のご機嫌を伺い
日米安保体制を維持していくだけしか出来ないのです。

では、彼らが出来る事、それは、国民の生活を、英断を持って
本当に豊かにする政策を提示し実行する事です。
いつ来るかもわからない大災害に備えること以上に、
今困っている国民を幸せにする具体的行動に出る事です。
周囲の人達と仲良く政治ごっこをしていても、決して
政治家としての価値は上がらず、いずれ、選挙戦で奔走するだけの
器となってしまうだけなのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


次なる利益の為に、傷は最小限に

2017-03-23 15:16:31 | 日本人

今や日本の政界は、狐と狸の化かし合いと言ってもいいです。
お互いに自分の主張はするも、決して自分の非は認めず、
欲にまみれた大人たちの、我儘な言い訳の様にも思えます。

私たちは、子供の頃、悪い事をして諭されたら、その非を認め

素直に反省する様に教えられたものです。
家族の間で学校においても、生きて行くには、常に周囲の事を考え
お互いに、助け合い、間違った事は正し、誰もが幸せになる様に
人生の道を教えられて育ったものです。

しかしながら、現実の社会は、欲望が渦巻き、利権を求めて、

様々な悪事が横行しているのです。
少しでも人より秀でて、より豊かな生活をする為には、周囲の事など
構っていられれません。
何とか策を練って、周囲の他人が苦しもうが悲しもうが関係なく
己れの欲望に邁進している人がいかに多い事か。

その為、社会的には、その様な悪行を防止し制圧する為に、法律と言う

司法判断が設けられれているのですが、それとて、何とか言い逃れしたり
罪を如何に軽くするかと言う考えが先に立ち、反省するどころか、
上手く逃れて、更なる私欲を肥やそうとする人が絶えません。

今や、日本社会は、言ったもん勝ち、やったもんがちと言った、

先に目的を達成した人が正義であるかのような風潮が見られます。
その為、何事においても自己主張できる人が優遇され、周囲の事を考え
お互いの幸せを考える様な、極めて日本的な考えは、無駄であるかのような
横暴な考えを持つ人が増えています。

ストーカー、クレーマーと言った自分の事しか考えられない人が増えて、

陰湿な犯罪が増えています。
この事は、日本人の生活が、豊かな生活と言うのを、我儘な生活と
勘違いしてしまい、節度の無い、自己主張ばかりする人が増えている
事にも依ると言えます。


法的に許されない行為であれば、誰もが反発するのですが、経済的に

人々を利用する分には何のおとがめも有りません。
つまり、経済的に独占的な経営をする事で、多くの人から莫大な収益を
確保する事に依って、自分達のテリトリーを広げ、自分の要求する
我儘な生活を創り上げて行く人達が目立ちます。

自分で努力して成長したのだから、何の問題は無いと言う方もいるかも

知りませんが、一般庶民にとっては、必要でないものに出費をさせられ
様々な所で支出する様に作られた社会は、目に見えない蜘蛛の糸が
張られていて、定期的に命を吸い取られている様なものです。

様々なメディアを使い、消費を促す事で利益を得るのは、商業の基本と

言えるのではあるのですが、自分達の利益を上げる為には、消費者の生活も
思考も関係なく、全て、自分達のペースに合わせる様に仕組んでいることが
気に入りません。


購買意欲を増し消費を促進すれば、世の中は景気が良くなり、人々は

幸せになると言うのは、豊かな生活をしている人達の勝手な言い草で、
多くの人達は、どんなに働いても生活は豊かにならないだけでなく、
より多くの出費を強いられて、更なる苦しみを感じているのです。

国会答弁であろうが、諮問委員会であろうが、百条委員会であろうが、

国民の手の届かない所で、お互いの傷を最小限に済まし、次なる
利権への道を作る為の段取りにしか感じられません。
先の見えない政治家の愚案と企業家たちの策略が日本社会を混乱させ
一部の人のみが潤う、未来社会を作ろうとしている様に感じます。

日本人の多くが、過去からの苦しみを引きづり、新たなる道を見いだせず

現状の生活を送るだけで精一杯であるのに、そんな人たちの考える対策は
一向に国民を豊かにはしていないのです。
豊かな生活と言っても、消費する為の資金が足りないのです。
収入が減っているのに、消費を増せと言っても、しょせん絵に描いた餅であり
欲しいものが有っても、手に入れられないのが一般庶民なのです。

しかしながら、テレビから流れる豊かな生活、幸せの生活を保障する品、

少し無理をしても欲しくなるのが人情です。
誰もがそんな生活をして居るかのような洗脳は、どんな生活レベルの人も
同じレベルになる様に仕向けます。

所が、経済的に裕福な方はまだしも、多くの人達が、無理をして、

外見だけでも似せる様に頑張っているのです。
街を歩けば、誰もが幸せで在るかのような表情ですが、実際の生活は
非常に苦しい場合が多い事をリーダーたちは知らないのです。

大人だけでなく子供たちに於ける生活格差も年々酷くなり、

友達と同じオモチャが持てなかったり、同じ様なレジャーを楽しめず
話題の中に入れず、イジメの対象と成ってる場合も多いです。
子供たちにとって、親の経済的問題は、直接子供の間での、大きな
ハンディと成っている場合が増えていいるのです。
年々出費がかさむのに、一向に所得が増えず、しかし生活レベルは
変えられず、むしろ、上げて行かなければならないと言う現状で
多くの国民が苦しんでいるのです。

そんな中、自分達の不備や不肖、欲望のほころびをお互いに突つき合い

国民にとって何の利益にもならない事に時間を使っている姿は、
ただ、与えられた仕事、ノルマを果たしていると言うだけであって、
自分達の決着をつけて次なる利益を考える事しかないのです。

政治家は、自分たちの与えられた仕事をこなしているだけでな

仕事をしているとは言えないのです。
何故なら、国民の代表として国政に関わっているからです。
国民の不平不満を解消し、国民がより豊かに幸せになる努力をし
更なる名案を国民に提議していかなければならないのです。

任期の間、与えられた案件を片付けているだけでは、単に

政治屋の仕事をしているに過ぎないのです。
また、多くの企業は、私達の生活に直接かかわる物を提供し
膨大なる利益を得ているのですから、本当に国民の将来の為に
役になる物を提供する義務があります。

単に、消費を促して、私欲を肥やすだけでは、かつての高度成長期と

同じ蹉跌を踏み、人々も環境も傷つけてしまうのです。
国民をリードしたり育てて行く地位にある人達は、多くの人達を
幸せにする義務があるのです。

国民が幸せになって初めて、政治家も企業家も存在価値が有るのです。

自分達の私欲を肥やすために国民を利用している様では、国民が
本当に認める地位も名誉も無いのです。
人の上に立つ人と言うのは、人としての資質に富み、人間的に
人々から崇められる存在で無くてはなりません。

しかし、今の日本は、子供の時から、人と言うより、地位や名誉、財産

と言った付加価値を人の価値とする生活を送ってきた人が多いのです。
しかも、リーダーとなる人たちに、その傾向が強い事が問題です。
より多くの付加価値を持った人をリーダーとして考える傾向から、
誰が政治を行っても同じと言う暗黙の心理が働き、政治に関心を持つ
国民が非常に少ないのです。

その為、メディアで有名であったりするだけで簡単に政治家としたり、

人気があるだけで、人の上に立てる人と思ってしまう人が多く、
一発屋的なタレント政治家、企業家がやたらと目立つのです。
また、政党としても、少しでも国民の支持を得るために、あえて
知名度の高い人材を選んだりと、一体政治は誰の為にするのか、
理解に苦しむ事が多いです。

現在、国会や、都議会で行われてる、時の議論は、毎度のことながら

お互いの落とし所を見つけ、はっきりとした結論が出ることなく、
曖昧な玉虫色の決着となる事は明らかです。
しかし、この事が、戦後日本の政治の本質であり、国民不在の
選ばれた人たちのお家騒動に他ならないのです。

もうすぐ、近い将来、天変地異や争いが起こる事は、間違いなく、

平和な時が終わります。
歴史を見ても、争いの合間を平和と言います。
平和とは、争いが無く、人々が幸せに暮らしているのを言うのでなく、
力関係のバランスが取れている状態であり、一時の休戦と言えます。

また、天変地異は、私達人間が勝手に言っているのであって、

地球の歴史からすると、当たり前に起こる自然現象と言えます。
つまり、私たちは、争いの合間に生きる活路を見出し、天変地異の
合間に、自分達の生活を広げているのです。

天変地異は、時に、私達の力ではとても及ばない程の巨大な自然の

力を見せつけるのですが、人が作り出す争いは、何とかできるものです。
様々な話し合いを常に行い、お互いの主張を調整しながら、争いに依る
自己主張に陥らない様にすれば、次の争いまでの期間を長引かせ
平和な期間を長くすることが出来るのです。

この事は、国内のおけるリーダー達と国民の関係も同じと言えます。

お互いが、しっかりと意思の疎通を行い、お互いの利益を考え
相手の思いを受け取る事が出来ていれば、変わらない関係が築け
トラブルが生じる可能性が低いのです。

しかし、現在の日本国内における状況は、リーダー達の一方的な考えと

偏った利益配分と言えます。
国民の財産は、すべからく、一部の裕福な人たちに流れる様に作られていて
人々を幸せにするようには出来ていないのです。
国民が豊かな生活をする事で、多くの収入が得られる様に企業体制は作られ
一人一人が幸せを感じられる社会とはなっていないのです。

国民がどんなに苦しもうが、自分達の生活が豊かに確保されれば良いのです。

その最たるものが、前回の世界大戦です。
一部の人達の思惑で、アジア諸国の資源を確保しようとした甘い考えで
数百万人の国民が殺されたのです。
資源が不足し、企業は生産中止を余儀なくされたり、資産確保が難しくなって
侵略と言う暴挙に出たのです。

ほんの一部の企業家たちと政治家たちの暴走が、国民を地獄に陥れ、

近隣諸国の人々をも不幸にしてしまったのです。
一見豊かに見える日本社会は、豊かである人達の社会であり、国民の
豊かさでは有りません。
そして、この豊かな日本を支えているのが、日夜苦しむ国民なのです。

証人喚問をし、お互いのボロを探り合っている場合ではないのです。

一日も早く問題を解決して、差し迫ったオリンピックに向けて、
あらゆる策を練って行かねばならないのですが、このオリンピックは
国民の為にある事を前提に進められていかなければなりません。

目の上のたん瘤を取ったら、潔白が証明されて、何でもできると

思っていると、またもや私欲を肥やす事しか考えなくなります。
世紀の祭典には、どれ程膨大なる資本がつぎ込まれ、どれ程莫大なる
利益が得られるかと、いまや、狐と狸の目は、らんらんと輝いています。
国民置き去りの政治や企業活動が続けられる限り、多くの一般庶民は、
犠牲になる事は有っても、幸せを得ることは出来ないのです。

 

 


 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


自由な若者の心は、桜の様に美しい

2017-03-22 16:09:52 | 東京

靖国神社の標準木の桜が咲き、遂に東京に開花宣言が成されました。
一月二月の寒さに震える日が、遠い昔であるかのように、街中は
春の明るい出で立ちで軽やかに散歩する人たちで一杯です。
一体どこからやってくるのだろうと思う程、渋谷の街は、人で溢れ
地方から初めてやって来た人は、毎日お祭りの様だと驚きます。

東京に住んで30年以上に成りますが、それでも、この人の多さには
圧倒されてしまいます。
東京の巨大なビル群や街中に並ぶ数えきれない魅力的なショップは、
この絶え間なく訪れる人に合わせているとはいえ、如何に東京が
人々にとって魅力的な街であるかが解ります。

しかし、これ程に多くの人がいても、殆ど知り合いに出会うことは無く
毎回、誰か知らない人ばかりであると言うのは、田舎にない魅力であり
恐ろしさでも有ります。
今や、日本人だけでなく、すれ違う人の5人1人は海外の方と言っても
過言ではない程、東京は国際的な街と成っています。

特に、若者たちにとっては、東京は巨大なアミューズメントシティと
言ってもよく、自分達の心を捉えて離さない魅力を感じる様です。
特に、原宿、六本木と言った、若者たちが集まりやすい地域は、
様々な個性を持った若者達で溢れています。
田舎では、決して出来ないと思われるファッションやメイクで
人混みの中を練り歩く気持ちは、遠い昔の自分を思わせます。

とは言え、街中で、若者たちが自由奔放に伸び伸びと
歩いている姿は、とても気持ちがよく嬉しいものです。
ただでさえ高齢化が進んだ我が国では、日本中どこに行っても
目に付くのは、爺と婆ばかりです。
そして、街中を歩くと、シャッターがやたらと目に付く
人通りの少ない商店街と空き地です。

実は、東京は、日本に於いて、非常に特殊な街であり
東京を持って、日本の位置づけをする事は出来ないのです。
当然、大阪や京都、横浜と言った大都市も同じことであり、
日本社会に於ける人々の一極集中が問題と言えるのです。

東京は、日本中から、人だけでなく資本も集中し、未来に向けて
益々進化していくと言えるのですが、日本中の殆どの都市が、
中でも人口流出の市町村の弱体化が顕著と言えます。
残された高齢者と朽ちて行く街並みは、大都市の歩みとは
全く逆行するものであり、人々の生活と同じく、生活環境の
二極化が起っていると言えるのです。

とは言え、この事は、人類の進化の過程で、歴史上に於いても
文化や技術の発展と共に見られたものであり、決して特殊ではなく
人々の生活も、それぞれの生活圏で問題となるものでは
有りませんでした。

しかし、現代に於ける、この二極化は、かつての、都会と田舎
と言った生活圏の違いではなく、もっと深刻な問題なのです。
問題を生んだ原因ともいえる物とは、ネット社会の発達です。
世界中がネットで繋がり、居ながらにして、世界の全ての情報が
簡単に手に入る様に成った事は、便利な社会になって素晴らしいと
言いたい所ですが、その反面、弊害として数々の問題が生じて
便利なはずが、人々を悩ませる原因とも成っているのです。

ネットが発達して、一番の進歩は、管理システムと言えます。
膨大な資料をあっと言う間に片付け、瞬時に情報を伝達でき、
物品のみならず人々を管理するには打って付けなのです。
当然、国民総ナンバー制度は、このネットによる管理の典型であり
私たちは、様々な目に見えない人たちから管理監視されている
と言ってもいいのです。

生活の全てがのぞき見れれている社会は、個人のプライバシーも
いつの間にか盗み見られている可能性もあり、国家間においても
ネットを使ったサイバー攻撃が問題となっています。
当然、東京に多くの人々が集中するのも、このネットに依る情報操作が
人々を集めているとも言え、いまや、日本の一部の富裕層が大多数の
国民をネットで管理する事で、より豊かな生活を手に入れているとも
言えるのです。


このネットは、世界中どこに居ても、情報を得られる事から、
それを利用し、人々を集める事も自由に出来るのです。
地方に居る人たちに、ネットを通じ、より豊かで便利な生活を
紹介する事で、都会に居る人と同じ物を手に入れたいと思わせ
購買意欲を誘発します。

若者達だけでなく、高齢者まで、自分達の幸福基準が都会となり

メディアに紹介される経済的に豊かな生活が幸せと思わせます。
都会に居る人と同じ生活用品を持ち同じ消費を行う事を幸せと
洗脳する事で、日本中の人達から収益を得る事が出来るのです。

しかし、所得が高い都市部の人達は、その生活が出来るかも

知れませんが、所得が低い地方の消費者は、同じ生活をすれば、
当然出費がかさみ、生活が苦しくなります。
当然高齢者は、残された生活費を食いつぶし、若者たちは、
そんな地方を棄てて、益々都会に向かって行きます。

日本社会は、国民に、より一層消費を促す事は有っても、

本当に人々に安定した幸せな生活を提供する事がないのです。
多くの人々は、より消費を増す為に、日々苦しい労働に明け暮れ
一部の人達は、より豊かな生活を保障されて行くのです。

東京の街に溢れる若者達の多くが、地方から遊びに来た人達です。

華やかな大都会の中で、見るもの聞くもの食べるもの全てが
彼らの心を刺激して、多くの若者は、東京に住む事を決意します。
しかし、殆どの若者は、夢を実現する事無く、田舎に居た時以上に
都会の厳しさ、現実の苦しさを体験します。

ネットの発達は、人々を幸せにしなければならないのですが、

ネットを利用して金儲けを目論む人たちの助けと成っているのです。
テレビを見ていると、次から次に魅力的なコマーシャルが流れ、
日本中の人々を洗脳していきます。

あらゆる同じ会社の生活用品が日本中に溢れ、ネットやメディアで

繰り返し流れれる場所や店は、連日、日本中から訪れる人たちで
ごった返します。
その反面、ネットやメディアに取り上げられない所は、いつの間にか
寂れたり消えて行ったりしているのです。
今や、人々は、情報によって振り回され、ネットによって管理され
自らの行動や嗜好は、誰か利益を目論む人によって操られている
と言えるのです。

原宿や渋谷で、様々な奇抜な衣装に身を包む若者たちの姿は

彼らの自由を求める象徴と言えます。
誰一人同じものは無く、それぞれが自分の考えで身をまとい
自由気ままに街中を歩いています。
彼らを見て、奇異と思われる人もいるかもしれませんが、
人の心は、それ程にも自由であり、それが認められていると
本当に幸せを感じることが出来るのです。

経済的で便利な社会で、誰もが自由に生きている様に思っても

実際は、誰かに管理されて、自由に動かされているかも
知れないのです。
若者たちの屈託のない笑顔をいつの間にか忘れて、情報管理され
いつも、より経済的に豊かな生活をしている人の物を欲しがり、
自分の本当の気持ちに気づいていな日本人が多いのです。
幸せは、身近に在るものです。
自分の心を本当に満たしてくれて、幸せにしてくれるものは何か
見つけられた時初めて、自分自身の価値と生き方が解るのです。

 

 

 

 

 

 

 

 
















 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


内輪もめをしている間に忍び寄る危機

2017-03-21 15:48:03 | 日本人

他人と比較して、自分の価値を決める生き方を行っていると、
自分の存在が、人より上なのか下なのかが、常に気になって
いつまで経っても、心の安定も、自信も生まれず、常に、
他人から下に見られる事を恐れます。

まさに、日本は、この比較社会で作られていると言っても

過言では有りません。
小さい頃から、他人よりも秀でる事を基準として、学校の成績を
重要視し、人よりも上であるならば、安心でき、自分の行為は
許される様な風潮が生まれます。

学校でも家庭においても、子供の評価は、学業の成績で表され

その数字を持って、子供の価値が決まると言っても良いのです。
その為、数字を上げられない子供は、親からも学校からも
低く評価されがちであり、自分の存在価値が数字である事に
大きな抵抗を感じるのです。

また、人よりも高い数字を挙げられる子供は、誰からも好かれ

あらゆる行いに対して、高く評価される事が多く、数字の力が
自分の価値を上げると子供ながらに思ってしまうのです。

しかしながら、子供たちは、数字を持って生まれて来たのでは無く

誰もが、人として、高く評価されこの世に生まれて来たのです。
しかし、周囲の大人は、社会的に評価される数字を上げるための
教育を行います。

その為、周囲の期待に沿える子供は、自分の行いに自信を持ち

更なる能力を広げて行くのですが、大人が思う様に育たない、
数字を上げられない子供は、小さい頃から大人たちから、
暖かい愛情を受け辛くなってしまうのです。

人は、誰しも、同じ能力ではなく、それぞれが持っている価値は、

同等では有りません。
社会に於いて、様々な職種がある様に、人々の個性は、千差万別で
誰しも、様々な能力を伸ばす可能性が秘められているのです。

所が、この能力を、大人が評価しやすい数字として表したことで

人の持つ可能性を著しく狭めてしまったのです。
いわゆる、社会で役に立つ人材を育てる為の教育であり、
この、役に立つとは、今の社会を動かしている人たちに都合の良い
人間を排出すると言う事です。

つまり、この数字の評価で多くの支持や価値を得た人たちが創り上げた

経済的に豊かと言われる社会に相応しい人材を作ろうとしているのです。
大人達に評価される数字を上げられた人達が作り上げた社会は、
豊かな社会と言えど、多くの人々を下に従えた社会とも言えます。
いわゆる経済的な独占社会のリーダーと成れば、誰もが評価し、
自分達を称えてくれると思っている傾向があります。

しかしながら、この社会システムは、あくまで数字が基準となっていて

人としての豊かな人間性が伴っているとは限らないのが大きな問題です。
経済的に豊かであり、人の上に立つ人材は、誰もが憧れる優れた人と
考えがちですが、昨今の不祥事や悪行は、その上に立つ人が常に
話題となって取り上げられているのです。

この現実は、職種に限らず、世の中の中心的存在となっている方々の

醜い私欲の現状が暴露されているのです。
学校成績であっても、会社の成績であっても、同じく、数字を上げ
自分達の存在価値を上げようとする事で、多くの人達を傷つけたり
騙したりする結果となっているのです。

人の上に立てば、その地位や財産に応じて、人間性も進歩していると

思いがちですが、上に立つ人たちの不祥事や事件が後を絶ちません。
この日本社会に於いて、これらの不徳が、珍しい事であるならまだしも
次々に発覚し、一向に無くならないのは、潜在的に多くの人達が、
見えない所で悪行を働いていると言わざるを得ないのです。

豊洲市場から検出される化学物質は、ほんの一例に過ぎず、

東京の干拓地は、全てその可能性がある事からも、私たちは
そんな危険な土地で生きているのに愕然としてしまうのです。

しかしながら、今の社会は、この様な大人を育てやすい環境で

子供たちを教育しているのです。
人の気持ちが解らない子供は珍しくなく、大人も子供も、人の心を
平気で踏みにじる事に何とも思わない社会が生まれているのです。

人口が増えて食料が不足する事も、高齢者が増えて若者が減り

経済的に豊かと言えない社会がやって来たとしても、それが、
人々にとって不幸とは言えないのです。
私たちは、太古の昔から気象異変で多くの飢饉を体験し、様々な
天変地異に苦しめられてきました。

しかし、そんな苦しい時代を経ても、人類が進化してきたのは、

経済の進歩が有ったからと言うのではなく、人々がより幸せに
生きるために経済が進歩したと言えるのです。
つまり、人間の幸せを得るために、生活を便利に豊かにしたのです。
その事が、人々の生活だけでなく人々の心も豊かにしてきたのです。

所が、戦後、日本社会は、豊かな経済が人々を幸せにするとして、

経済的に豊かな社会を作れる人間を育てる様に成ったのです。
その結果、子供の頃から、成績がその人の価値を決め、経済力が
人々の幸せとした風潮が生まれてしまったのです。

この事は、日本人の心から潤いを奪い、自己を満足させるだけの

我儘な人間を多く搬出する結果ともなったのです。
自分の利益優先で指導者になった為、当然部下の気持ちは解りません。
営業成績の数字を挙げる事のみが目的となり、人は、ただ数字を生む
歯車の一つに過ぎなくなってしまうのです。

日本中の会社が、お互いにただ数字を挙げる事のみに焦点を絞り、

そこで働く人たちの事を考えなくなってしまうのです。
数字を出す事で何とか頑張って地位が上がったとしても、その様な
苦しい仕事を強いられた人は、当然、また、自分も部下たちに
同じ苦しみを与えます。

この、悪循環が日本社会に、不況以前に、国民の心を苦しめる結果を

生んでいると言えるのです。
小さい頃から、他人の気持ちが解らず育った大人が作る社会は、
どんなに地位のある人であっても、我儘が先行します。
人として半人前のリーダーや社会人が作っている日本社会は、
どんなに経済的に豊かになろうと、人々を幸せには出来ないのです。

しかし、社会的に大きな問題だけでなく、人々の身近な人間関係も

殺伐としたものと成っている事が更なる大きな問題です。
親子間、友達間に於ける人間的な繋がりの希薄さは、人と人の情を無くし
ただ利害関係で繋がっているだけの場合も増えているのです。

物やお金が介在しているだけで、無くなれば、他人に成ってしまうのです。

お金の数字の額が増えることが、幸せで在り信頼であるとする人達が
お互いの心の苦しみや喜びが解るはずが有りません。
となると、自分の心を本当に理解して癒してくれる人が居なくなるのです。

実は、この事が、全世代に於いて、最も心配される事なのです。

上層部の、利害のやり取りや狐と狸の化かし合いよりもはるかに深刻で
日本国民の古くから培われた豊かな人間性にヒビが生じているのです。
特に、子供達にとって、友と言えるのは、自分の欲求を満足させてくれる
自分の思い通りになる人であり、大人になれば、経済的に満たしてくれる
豊かな生活を与えてくれる人が自分を幸せにすると思っています。

この事は、自分の欲求が満たされなく成れば、その関係は無くなり、

いつも、自分が持っていないものを求め続ける、欲求不満の貧しい心が
育っていくだけの、悲しくも不幸な人生が待っているのです。
どんなに豊かな生活をしていても、心が満たされず、常に誰かの物を
欲しがる貧しい心が、益々自分を不幸にしていくのです。
しかし、日本人の生活は、大かれ少なかれ、この様な苦しみが付きまとい
本当に心豊かな生活を送っている人が非常に少ないのです。

心の闇を表す数字で、日本人の自殺者が実に多いのが懸念されます。

経済成長を遂げた国であり、諸外国から見れば、幸せな国と思いがちですが、
自殺を考えたことのある人の多さも、先進国の中で異常に多いのです。
若者だけでなく、高齢者、さらには働き盛りの人まで、多くの方々が
一人心の苦しみに耐えかね、この世を去っているのです。

自殺と言う選択をした人達が多い事にも驚かされますが、この死を選んだ

多くの人達の周囲に居る人が、どれ程の数いたかが気になります。
全く人と接する事無く、人知れず死んでいった人よりも、多くの人に関わり
ごく普通な社会生活や学校生活を送っていた人が断然多いのです。

つまり、彼らの周囲との関わりがいかに希薄であったかと言う事です。

死ぬまでもなく、心の底から苦しみながら生活している人が実に多いか
逆に、そんな人を生み出しているのを全く感じない人たちを育てている
今の日本社会は、如何に、生きる事に苦しく、幸せを得られない社会か
と言う事が解るのです。

死んでいった人たちに、経済的に豊かになれば死ぬことが無かったと

思うのは、おそらく狐やタヌキの類でしょう。
お互いに人の心を感じられず、ただ番号を与えられ、上層部の人たちに
扱いやすい国民に成っているだけでは、本当の幸せは得られません。

海の魚を釣って来て、餌を与えて育てていても、魚たちは、けっして

幸せとは言えません。
大海原に帰し、自分達の生きる場を与えてあげる事が一番の幸せと
言えるのです。しかし、その海を生きにくく汚染して来たのが
他ならない、負の遺産を多く生んだ方々なのです。
まずは、人として生きて行く環境をしっかりと作り上げる事が
リーダー達の役割なのです。
それは、リーダー達が思う幸せではなく、国民一人一人が
感じる固有の幸せで在る事は、言うまでもありません。