ベラルーシの部屋ブログ

東欧の国ベラルーシでボランティアを行っているチロ基金の活動や、現地からの情報を日本語で紹介しています

戦勝70年 3

2015-05-09 | ベラルーシ生活
 「戦勝70年 1」でも少し触れましたが、ベラルーシの農村地域では、ナチスによる「住民皆殺し」という作戦が展開されていました。
 そのような村が国内で628箇所あったのですが、これらの村で亡くなった人の慰霊の場を国で1ヵ所つくろうということになり、被害の状況や首都からのアクセスがよいかどうかなどを考慮して、ハティニ村が選ばれました。

 住民が全員殺害され、地図から消えた村もあるので、同じ被害にあった村をまとめてハティニで慰霊するという形です。

(もちろん生き残った人たちがその後、自分たちの村の中に独自の慰霊碑を建てているケースもあります。
 ちなみにハティニ村襲撃を指令したのはウクライナ人で、実際に実行したのはナチス軍。兄弟民族であるベラルーシ人の殺戮を指令したのがウクライナ人であることは戦後長い間ひみつにされてきました。)

 そのハティニでどんなことが起きたのか、取材したベラルーシの作家アレーシ・アダモビッチが「ハティニの物語」という作品を書きました。
 それを元にして、映画が1985年に製作されました。ベラルーシとロシアの合作映画で、原作、ロケ地、エキストラはベラルーシが担当で、監督、主要役者はロシアが担当、というソ連映画です。

 映画のタイトルは聖書に出てくるフレーズ「来たりて見よ」なのですが、なぜか邦題が「炎628」なんですよー。  

 ナチスによって焼き払われたベラルーシの村が628だから、このタイトルなんですが、私の中での「がっかり映画邦題第1位」ですよ。

 とにかく内容は悲惨です。最初見たとき、最後まで見られずビデオのストップを押してしまった・・・。
 
 この映画は日本でもたびたび上映されていますし、DVDも発売されていますので、戦時下におけるベラルーシの農村でナチスがどんなことをしていたのか、知りたい方はぜひご覧ください。
 ただし気の弱い方、妊娠中の方で胎教など気にされる方にはお勧めしません・・・。

 この映画、去年イギリスで第二次世界大戦を扱った映画ベスト50のうち、堂々の1位に選ばれています。
 選考した1人は、クエンティン・タランティーノ監督。この人が1位に選んだ戦争映画が、ベラルーシが舞台の映画ですよ。

 ニュースサイトはこちらです。

英誌&タランティーノ監督が選んだ「第2次世界大戦映画ベスト50」

(記事から一部抜粋)

第1位に選ばれたのは、1985年のロシア映画「炎628」(エレム・クリモフ監督)。ドイツ占領下のベラルーシ(旧白ロシア)の村におけるナチス親衛隊の凶行を、“感動的なヒューマンドラマ”や“派手なアクション”などの要素を一切排してリアルに描いた戦争映画。本作に比べたら、ハリウッド映画としては凄惨な描写で知られる「プライベート・ライアン」(20位にランクイン)の冒頭のオマハ・ビーチのシーンなど、「日曜の午後の浜辺の散歩のようなものだ」と同サイトは評している。


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 もう1つご紹介したい映画があります。それは「ブレスト要塞大攻防戦」という映画です。
 ベラルーシフィルムが2010年に制作した映画です。これもロシアとの合作でロシア人俳優が多く出演しています。(アレクサンドル・コット監督)

 ベラルーシフィルムはですねえ、戦後作った映画の70%が第二次世界大戦を扱った物と言われていて、私もいろいろ見たことがあるのですが、どうしても技術的にリアルさが欠けていて、感情移入できなかったりすることがありました。

 しかし2011年にこの「ブレスト要塞大攻防戦」を見て、
「ついにベラルーシの映画もリアルなのが作られるようになったか・・・!」
と驚いたものです。
 専門家が見たら、「これ違うよ。」と言う細かい部分もあるかもしれませんが、とにかく「戦争中、ブレスト要塞は本当にこんな感じだったんだろうなあ。」と見ている側を納得させるだけの臨場感があるのです。
 
 ブレスト要塞って何?と言う方はこちらをご覧ください。
 また私がブレスト要塞を訪れたときの記事はこちらで読めます。

 何と言っても抵抗の象徴でもあるブレスト要塞なのだから、国の威信をかけて、絶対すばらしい映画を作るぞ!というベラルーシフィルムの気合が感じられます。
 
 この映画をぜひ日本人にも見てもらいたいけど、ベラルーシの映画ということで、相手にされないんじゃないかと思っていたら、今年の冬に日本で上映されていました。
 日本語版もDVD化されているみたいですね。
 (YouTubeで英語字幕付きのが見られますが。)(^^;)

 ベラルーシの映画をご紹介しましたが、戦争中ベラルーシでこんなことが、いや実際にはもっとひどいことが起きていたのだろうと思いながら見てほしいです。

 ベラルーシ(ソ連)は70年前に戦争に勝ちました。周囲のベラルーシ人と話していると、やっぱり戦争は負けるより勝つほうがまだまし、と日本人である私は思うのですが、実際には戦争は勝った負けたの二つに単純に分けられるものではなく、もっと状況は複雑で一言では言い表されないものだと思います。
 今までの常識が非常識になり、信じていたモラルも引っくり返ってしまう、仲のよかった隣人が敵になるかもしれないし、逆に一面識もなかったもの同士が助け合ったり、来るはずの明日が突然来なくなるかもしれない日々。

 ああ、やっぱり戦争には反対だ、と改めて思います。一方でベラルーシの隣国ウクライナで内戦のような状態になり、すでに多くの人がこの1年ほどの間に死んでしまったかと思うと本当に悲しいし、戦争がすぐ近くにあることを感じずにいられません。


 

戦勝70年 2

2015-05-09 | ベラルーシ生活
 ナチスが戦時中に建設した強制収容所といえば、アウシュビッツが有名ですよね。
 しかしこのような収容所はヨーロッパ各地にあり、ベラルーシにもありました。

 ミンスク郊外のマールィ・トロステネツがそれです。1941年に作られ、規模はヨーロッパで3番目に大きかったそうです。
 ここにはユダヤ系以外にも、ベラルーシ人やロシア人、ポーランド人、チェコ人などが収容されていました。
 
 マールィ・トロステネツのすぐそばにある二つの村でも、住民の大量虐殺があり、この三つの場所で犠牲になったのは2万1500人になります。

 収容所は1944年に解放されましたが、ドイツ軍が逃走するときに施設を全て破壊していったため、アウシュビッツのように建物などが残っていません。
 更地のようになっており、慰霊碑が建っているだけなので、私も行ったことがないのです。
(だからアウシュビッツのように世界的に有名な場所にはならないんですね。)

 ミンスクからすぐ近くなので、行こうと思えばいつでも行けるのですが、更地の収容所跡を見てもねえ、というのが本音です。

 それよりも貴重なのは収容されていた人の中には運よく生き延びた人もあり、その話を聞くことです。

 ベラルーシには強制収容所に入れられていた人たちが会を作っており、さらに合唱団もあります。

 その合唱団(メンバーのほとんどが女性)が70代後半の年齢とは思えない声で合唱をしています。
 歌の合間に自分の体験談を何人かのメンバーが話してくれますが、聞くだけでつらくなります。

 母親と5人兄弟全員が収容され、生き残ったのは私と姉だけ。
 母は生き延びたが、発狂した。
 幼かった弟は負傷したドイツ兵の献血のために血液を注射器で吸い取られ、死亡。
 
 ・・・などなど。話している途中で泣き出して、「これ以上話せません。」と言い出す人もいます。

 子ども時代を収容所で生きたとは想像を絶する体験だと思います。

 ドイツは戦後、謝罪をし収容されていたベラルーシ人で、生存した人全員に賠償金を払うことにしました。
 毎月(ベラルーシの水準から言うと)かなりいい金額の賠償金を受け取っています。

 毎日、いや今死ぬか生きるかという生活を強いられた代償なのだから、当然と言えば当然です。

 ところでこの合唱団は戦後70年を記念して、今年の4月ポーランド、チェコ、ドイツへ公演へ行くことになりました。  
 
 各地のやはりナチス軍による大量虐殺があった場所で歌ったり、収容されていた生存者たちと交流したりしたそうです。
 
 各地で歌声は絶賛されたそうです。

 ところが・・・ドイツでは
「悪いが公演はしないでほしい。」
と言われたそうです。
 ちゃんとした理由はなく、挙句には
「歌ったことにしてほしい。ギャラはあげる。」
とまで言われ、公演を中止したそうです。

 ドイツからしたら、過去の汚点を現在見たくないのか、それを知らない世代に知ってほしくないのか・・・

 合唱団のメンバーはがっかりしたそうですが、双方の協力あっての海外公演ですから、あきらめたそうです。

 この話を聞いて私は、お金さえ出せば補償したことになるからいいだろうと、とドイツ側が思っているのでは、と感じました。

 確かに強制収容所にベラルーシ人を入れましたよ。でも賠償金を払っているんだから、そして謝罪もしているんだから、もう過去のことは蒸し返さないでほしい。
 合唱なんか今更しに来なくていい。ギャラ(賠償金)をあげるから、黙っておいてほしい。

 ・・・こういう考えをドイツ側が持っているのかなあ。と私は思いました。

 謝罪した、賠償金も払った、戦争責任は取った、だからもう「なし」にしよう。
 という考えは合理的で論理的である意味将来を前向きに捉えているのかもしれません。

 でも、過去から学ぶことを避けている感じがするし、せっかく平和になったのだから、かつての敵同士の民族が今は仲良くしましょうよ・・・という考えを否定しているようにも思えます。

 日本の場合、韓国や中国が日本政府に謝罪せよとか、賠償もちゃんとせよと求めており、日本政府はもう謝罪はしたし、賠償についても決着済みなのに・・・とこういう状況が戦後70年経っても、ずっと変わっていません。

 日本政府の対応を批判するときにドイツ政府がよく引き合いに出されます。ドイツは賠償金を払ってるのに日本政府はねえ、という批判です。

 しかしですよ、もし日本がドイツと同じようにすでに謝罪もして賠償金も払って、さらに賠償金を払ってるからもういいでしょ、もう文句言わないで、戦中の汚点を思い出させないで、という態度を取ったら、どうなんでしょうか。

 金は出す、だからもう何も言わないでと言われて、納得するでしょうか。

 戦争被害に対する賠償金を払え払えと言う人たちの気持ちも分かりますが、賠償金を受け取った時点で、もう文句や批判は言えなくなってしまう可能性も実はあることを分かって請求しているでしょうか。

 謝罪もした、賠償もした。そしてその後に生まれる国同士の関係が、もっと友好的で建設的になるとは限らないことを、この合唱団の一件から感じました。

 合唱団の後援がドイツの特に戦後世代に、収容所を生き伸びた人たちの存在を教え、さらには歌声を聞きながら、戦争とは平和とは何か考えるよいきっかけになればよかったのに、と私は思います。
 
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 画像は写真雑誌「ソビエツコエ・フォト」(ソ連ジャーナリスト連盟編集)1982年3月号の表紙を飾った写真です。
 撮影者はモスクワのカメラマン、Pavel Krivtsovで作品名は「女の子同士」。
 戦争中従軍していた女性3人が戦後、再び集まって戦中撮ったときのように記念撮影したんですね。
 
 表紙に選ばれるだけあって、とてもいい写真だと思います。戦後の時間、戦中の彼女らはどうだったのだろうと想像がめぐります。

 そして戦争を生き延びた人は本当に運がよかったと思います。


 


戦勝70年 1

2015-05-09 | ベラルーシ生活
 5月9日ベラルーシ(だけではなく旧ソ連の国)は第二次世界大戦の戦勝から70年目を迎えます。
 節目の年ということで、テレビは特番を流し、街中はどこを向いても「70」の数字が目に入り、先月から関連する記念イベントが続いています。
 今月に入ってからは毎日どこかで何かやっているという状態です。

 日本人にとって戦後というのは1945年8月15日を境にして考えるのですが、ベラルーシ人にとってはドイツとの戦争に勝った5月9日が境です。

 ベラルーシは旧ソ連の国の中でも犠牲者が多く出た地域で、当時の国民の4人1人、あるいは3人に1人が死亡したと言われています。

 どうしてベラルーシ(当時は白ロシア・ソビエト社会主義共和国)は被害が大きかったのか・・・

 理由1 地理的にドイツからの距離が近く、モスクワを目指すナチス軍からするとまず陥落しないといけない場所にあった。

 理由2 もともとユダヤ系住民が多く、真っ先に殺害されたり収容所送りになったりした人が多かった。

 理由3 ソ連中枢部はソ連の首都モスクワを守るためにベラルーシを防衛拠点を考えていたが、その結果分かりやすく言えば、ドイツ軍の銃先にベラルーシ人を出して、ロシア人のほうをできるだけ守ろうとした。

 理由4 ソ連はベラルーシ人を分かりやすく言えば差別しており、ロシアに比べれば少数民族だし、ロシアに取り込んでしまえというる同化政策を水面下で行っていた。そのためベラルーシ人が今まで作ってきたベラルーシ文化らしいもの(教会などの文化遺産)を破壊したが、戦争中は「ナチスドイツの仕業である。」とした。
 そんな状況だったので、戦争中ベラルーシ人に対する大量殺戮が起き、これもナチスドイツが全て実行犯とされているが、中にはソ連政府(ソ連軍)が行ったものもある。
 
 さらにあまり知られていませんが、かつてベラルーシと同じく旧ソ連を構成していたウクライナはユダヤ人をそもそも差別していました。
 そこへユダヤ人嫌いのヒットラーが登場したとき、喜んだウクライナ人もいたのです。
 ドイツと戦争をしているソ連の中で、密かにドイツを応援したウクライナ人・・・
 ドイツの戦闘の手伝いをし、ベラルーシの農村地帯での掃討作戦(民間人を皆殺し)を提案したケースもありました。

 つまり戦争中は目の前には敵が迫り来る状態、背後からからは味方からも殺されるかもしれない、という板ばさみの状態だったベラルーシ。
 さらに(場所にもよりますが)ベラルーシはドイツ軍に占領されてしまい、占領下における市民生活も悲惨で、反占領軍活動をした人を逮捕して拷問したり、見せしめの公開処刑などが行われていた。

 当然戦争被害は甚大です。
 70年前の5月9日、戦争に勝ったときベラルーシ人は歓喜の涙を流し、今でも盛大にお祝いするのはよく分かりますね。

 1980年代に発行された写真雑誌「ソビエツコエ・フォト」(ソ連ジャーナリスト連盟編集)が今私の手元にあるのですが、その中にも戦勝記念日にミンスクで撮影した写真がありましたので、ご紹介します。
 1982年3月号掲載なので、戦後36年目に当たる前年1981年5月9日にミンスク中心部で撮影されたものです。
 撮影者はベラルーシ人のカメラマン、A.Kushnerで作品名は「彼らがベラルーシを解放した」です。ここでの解放はナチスの占領からの解放となります。
 後ろに写っているのはミンスクのメインストリート沿いにある紳士服店なのですが、看板は変わったものの今でもこの店はあります。