今年はゴシケーヴィチ生誕200年の年で、日本文化情報センターとしてもゴシケーヴィチのことを調べていたのですが、多くの方々のご協力により、ゴシケーヴィチが撮影のため使っていた感光板が同志社大学で保管されていたことが分かりました。
写っているのは同志社大学創立者である新島襄(当時21歳)です。
以前「ゴシケーヴィチ関連情報をありがとうございました!感光板について」という投稿記事で、新島襄をゴシケーヴィチが撮影した写真が、同志社大学に保存されており、その感光板は北海道の写真家、桑島洋一さんからロシアの作家グザノフの手に渡り、さらにロシアの博物館に寄贈されたらしい、とご報告しました。
その後同志社大学社史センターに問い合わせたところ、紙焼きした写真はないという回答でした。
保存されていたのは感光板そのものだったのです!
当時の感光板はガラス板(ガラス湿版)を使用していましたから、割れないようにしっかりした木枠にはまっていますが、そのとおりの保存状況でした。
このことはベラルーシでは知られていませんので、ベラルーシの新聞紙上で発表されることになりました。同社社社史センターは感光板そのものをデジタルカメラで撮影したカラー画像の使用許可を出してくれました。
この画像とともに新聞に記事が載ります。掲載されましたら、このブログ上でもお知らせしますね。
さて、ここで気になるのは、ロシアへ渡ってしまったという感光板のほうです。
同社社社史センターが保管している感光板と、グザノフ著「白ロシアのオデッセイ」の中で桑島さんが手にしている「新島襄が写っている感光板」なのですが、形や入っている木枠の形状が異なります。
新島襄が写っている、しかも全く同一の写真をそこから起こすことのできる感光板が2枚存在するのはおかしいです。
他に分かったのは、新島襄が父宛に送った手紙の内容などから推測すると、1864年6月11日に函館のロシア領事館で写真撮影会が行われ、写真を撮ったのは、ゴシケーヴィチ本人だった。しかし当時の日本では印画紙などもなかったので、写真を紙焼きすることが困難だった。なので、ゴシケーヴィチは撮影会終了後、感光板そのものを被写体になった人々に手渡した。
3日後の6月14日に新島襄はもらった感光板に手紙を添えて、江戸の父宛に郵送した。
父は大切に保管。死後同志社大学で保管されることとなる。そして現在に至る。
・・・と考えるのが常識的だと思います。
なのに、どうして1枚しかないはずの感光板がもう1枚存在し、北海道在住の写真家、桑島さんが所有していたのでしょう???
このあたりのいきさつをおききしたかったのですが、ご本人がご高齢で回答は得られませんでした。
桑島さんには申し訳ないし、あくまで私の予想ですが・・・桑島さんが手にしていた感光板には新島襄ではない人が写っていたのではないでしょうか。
そして同志社大学で保管されていた感光板は本物のゴシケーヴィチ撮影の新島襄だと思います。
ともかくゴシケーヴィチゆかりの物が日本で大切に保存されていたこと、ベラルーシ人にとっては大変うれしいニュースだと思います。
ベラルーシの新聞紙上で紹介されること、今から楽しみにしています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
以上は8月7日の投稿内容ですが、ここからは8月23日投稿の追加情報です。
ゴシケーヴィチ撮影の写真について同志社大学社史センターから、詳しい情報を教えてもらいました。
カメラマンの桑島さんはご高齢で、「白ロシアのオデッセイ」の著者はグザノフは亡くなっていますので、確認が難しいため、あくまで私の仮説なのですが、真相はこういうことだったのだと思います。
やはり、ゴシケーヴィチが新島襄を撮影した感光板は1枚しか存在しない、と考えるのが妥当です。
1864年6月、このガラス湿版である感光板を新島襄は手紙とともに父親に郵送しましたた。
その後やがて同志社大学社史センターで手紙とともに感光板は保管されることになり、現在に至ります。
1980年代、北海道の写真家桑島洋一さんがこのセンターを訪れ、ガラス湿板そのもののカラー写真を撮影を希望し、撮影許可を得てその場で撮影したことが、社史センターの記録に残っています。
そのカラー写真を紙焼きして、ゴシケーヴィッチ関連の講演会で、手に持って紹介した桑島さん。
さらにその様子が撮影され、「白ロシアのオデッセイ」に白黒写真で掲載されました。
こちらを参照してください。
これが白黒の写真であるため、手に持っている写真がカラー写真であることが私は分からなかったのです。
この写真を自分の著作でグザノフ氏は説明を正しくは
「ゴシケーヴィチが撮影に使ったガラス湿板をさらにカラー写真で撮影し、紙焼きしたものを手にして語る写真家の桑島洋一氏」
と記述しないといけないところを、
「ゴシケーヴィチが撮影に使った湿板を見せている写真家の桑島洋一氏」としたために、今回のような誤解が起こったのです。
グザノフは桑島さんから感光板ではなく、カラー写真をもらい受け、ロシアへ持って帰りました。
桑島さんの手元にはこのカラー写真のネガが残っているので、いくらでも焼き増しができますから、ロシアへ写真を持っていかれても、困らなかったのです。
グザノフはさらにそれをロシアの博物館に寄贈した・・・と桑島さんは私に言いました。
一応私のほうからこの博物館に管轄である役場を通して問い合わせをしましたが、今のところ返事がありません。
問い合わせの内容が「ガラス湿板はありますか?」だったので、「湿板? そんなのない。」と学芸員に思われているのかもしれません。
「ガラス湿板を撮影したカラー写真はありませんか?」だったらより正確だったと思います。
今から質問し直してもいいですが、桑島さんが1980年代に撮影したカラー写真がロシアの博物館で見つかってもニュースにはならないですし、保存状態がどうなっているのか疑問です。
以上が私の仮説ですが、たぶんこのような経緯があって、誤解していたのだと思います。
真相は100%解明されたわけではありませんが、ともかくゴシケーヴィチが撮影に使った感光板、しかも新島襄が写っているものが日本で保管されていたのは、ベラルーシにとって大きなニュースです。
ご丁寧に回答してくださった同志社大学社史センターの担当者様、日本国内で情報収集してくださった皆様に深く感謝申し上げます。
(私はすごくすっきりしました!)
写っているのは同志社大学創立者である新島襄(当時21歳)です。
以前「ゴシケーヴィチ関連情報をありがとうございました!感光板について」という投稿記事で、新島襄をゴシケーヴィチが撮影した写真が、同志社大学に保存されており、その感光板は北海道の写真家、桑島洋一さんからロシアの作家グザノフの手に渡り、さらにロシアの博物館に寄贈されたらしい、とご報告しました。
その後同志社大学社史センターに問い合わせたところ、紙焼きした写真はないという回答でした。
保存されていたのは感光板そのものだったのです!
当時の感光板はガラス板(ガラス湿版)を使用していましたから、割れないようにしっかりした木枠にはまっていますが、そのとおりの保存状況でした。
このことはベラルーシでは知られていませんので、ベラルーシの新聞紙上で発表されることになりました。同社社社史センターは感光板そのものをデジタルカメラで撮影したカラー画像の使用許可を出してくれました。
この画像とともに新聞に記事が載ります。掲載されましたら、このブログ上でもお知らせしますね。
さて、ここで気になるのは、ロシアへ渡ってしまったという感光板のほうです。
同社社社史センターが保管している感光板と、グザノフ著「白ロシアのオデッセイ」の中で桑島さんが手にしている「新島襄が写っている感光板」なのですが、形や入っている木枠の形状が異なります。
新島襄が写っている、しかも全く同一の写真をそこから起こすことのできる感光板が2枚存在するのはおかしいです。
他に分かったのは、新島襄が父宛に送った手紙の内容などから推測すると、1864年6月11日に函館のロシア領事館で写真撮影会が行われ、写真を撮ったのは、ゴシケーヴィチ本人だった。しかし当時の日本では印画紙などもなかったので、写真を紙焼きすることが困難だった。なので、ゴシケーヴィチは撮影会終了後、感光板そのものを被写体になった人々に手渡した。
3日後の6月14日に新島襄はもらった感光板に手紙を添えて、江戸の父宛に郵送した。
父は大切に保管。死後同志社大学で保管されることとなる。そして現在に至る。
・・・と考えるのが常識的だと思います。
なのに、どうして1枚しかないはずの感光板がもう1枚存在し、北海道在住の写真家、桑島さんが所有していたのでしょう???
このあたりのいきさつをおききしたかったのですが、ご本人がご高齢で回答は得られませんでした。
桑島さんには申し訳ないし、あくまで私の予想ですが・・・桑島さんが手にしていた感光板には新島襄ではない人が写っていたのではないでしょうか。
そして同志社大学で保管されていた感光板は本物のゴシケーヴィチ撮影の新島襄だと思います。
ともかくゴシケーヴィチゆかりの物が日本で大切に保存されていたこと、ベラルーシ人にとっては大変うれしいニュースだと思います。
ベラルーシの新聞紙上で紹介されること、今から楽しみにしています。
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以上は8月7日の投稿内容ですが、ここからは8月23日投稿の追加情報です。
ゴシケーヴィチ撮影の写真について同志社大学社史センターから、詳しい情報を教えてもらいました。
カメラマンの桑島さんはご高齢で、「白ロシアのオデッセイ」の著者はグザノフは亡くなっていますので、確認が難しいため、あくまで私の仮説なのですが、真相はこういうことだったのだと思います。
やはり、ゴシケーヴィチが新島襄を撮影した感光板は1枚しか存在しない、と考えるのが妥当です。
1864年6月、このガラス湿版である感光板を新島襄は手紙とともに父親に郵送しましたた。
その後やがて同志社大学社史センターで手紙とともに感光板は保管されることになり、現在に至ります。
1980年代、北海道の写真家桑島洋一さんがこのセンターを訪れ、ガラス湿板そのもののカラー写真を撮影を希望し、撮影許可を得てその場で撮影したことが、社史センターの記録に残っています。
そのカラー写真を紙焼きして、ゴシケーヴィッチ関連の講演会で、手に持って紹介した桑島さん。
さらにその様子が撮影され、「白ロシアのオデッセイ」に白黒写真で掲載されました。
こちらを参照してください。
これが白黒の写真であるため、手に持っている写真がカラー写真であることが私は分からなかったのです。
この写真を自分の著作でグザノフ氏は説明を正しくは
「ゴシケーヴィチが撮影に使ったガラス湿板をさらにカラー写真で撮影し、紙焼きしたものを手にして語る写真家の桑島洋一氏」
と記述しないといけないところを、
「ゴシケーヴィチが撮影に使った湿板を見せている写真家の桑島洋一氏」としたために、今回のような誤解が起こったのです。
グザノフは桑島さんから感光板ではなく、カラー写真をもらい受け、ロシアへ持って帰りました。
桑島さんの手元にはこのカラー写真のネガが残っているので、いくらでも焼き増しができますから、ロシアへ写真を持っていかれても、困らなかったのです。
グザノフはさらにそれをロシアの博物館に寄贈した・・・と桑島さんは私に言いました。
一応私のほうからこの博物館に管轄である役場を通して問い合わせをしましたが、今のところ返事がありません。
問い合わせの内容が「ガラス湿板はありますか?」だったので、「湿板? そんなのない。」と学芸員に思われているのかもしれません。
「ガラス湿板を撮影したカラー写真はありませんか?」だったらより正確だったと思います。
今から質問し直してもいいですが、桑島さんが1980年代に撮影したカラー写真がロシアの博物館で見つかってもニュースにはならないですし、保存状態がどうなっているのか疑問です。
以上が私の仮説ですが、たぶんこのような経緯があって、誤解していたのだと思います。
真相は100%解明されたわけではありませんが、ともかくゴシケーヴィチが撮影に使った感光板、しかも新島襄が写っているものが日本で保管されていたのは、ベラルーシにとって大きなニュースです。
ご丁寧に回答してくださった同志社大学社史センターの担当者様、日本国内で情報収集してくださった皆様に深く感謝申し上げます。
(私はすごくすっきりしました!)