ベラルーシの部屋ブログ

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ゴシケーヴィチ情報をありがとうございました! 弁天崎、亀田丸について

2014-07-27 |   イオシフ・ゴシケーヴィチ
 先ほどの「ゴシケーヴィチが撮影した新島襄の写真」という記事に引き続き、ご報告です。
 感光板のこと以外にも調べていたことがありました
 ゴシケーヴィチが寄贈した球状の明かりのことと、バロメーターをプレゼントした亀田丸についてです。
 この明かりは常夜灯、バロメーターは晴雨計のようです。

 これについても詳しく調べて教えてくださった方がいて、本当に助かりました。メールをいただいたときは大変うれしかったです!

 まず明かりが設置されていたという「ベンテンザキ」ですが、弁天崎のことで函館市にあった弁天台または弁天台場のことだろうと思われます。ここには19世紀、砲台の台場が建設されており、プチャーチンが日本に寄贈した大砲の一部も設置されていました。詳しくはこちらをご覧ください。

 函館戦争のとき戦場にもなった弁天台ですが、1899年に解体され消失し、現在は函館市弁天町になっています。
 つまり弁天岬はもうないということです。
 ここに砲台があったのははっきりしており、写真も残っているのですが、これを見た限りでは、明かりのようなものはぶら下がっていません。
 足元に置いて使うようなものだったのかもしれませんが・・・

 この写真は明かりがその後「シンケイマル」という船に移された後に撮影されたものであるかもしれません。だから写っていないのかも。
 弁天台場が完成したのは1854年ですから、これも時間的にはゴシケーヴィチが函館にいた時期に当たります。明かりを寄贈しても不思議はありません。

 シンケイマルについてはまだ分かりません。ロシア人にとって日本語の名前や名称は聞き取りづらいものですから、船の名前も誤表記してしまった可能性もあります。
 もともとベンテンザキとシンケイマルの明かりのことはロシア側の文献はこの情報を日本の文献、阿部正己著「歴史地理」(1920年発行)の141-146ページにある「函館駐剳露国領事ゴスケウィッチ」から引用しています。
 このときに漢字を読み間違えて、ロシア語表記にしているので、そのとき誤記してしまい、現在になってもともとの船の名前が分からなくなってしまっている可能性があります。

 またカメダマルのバロメータのことは元木省吾著「北方渡来」(1961年発行)の59-61ページに記述かあるとして、論文の参考文献に記しているのです。 次にゴシケーヴィチがバロメータを寄贈した船「カメダマル」は亀田丸と考えると、同じ名前の船があったことが分かりました。
 こちらをご覧ください。
 同じ名前で別の船、という可能性もありますが・・・。もっともバロメーターの行方は分かりませんし、これだけでは本当にゴシケーヴィチがバロメーターを寄贈したのかどうかも確証はありません。
 安政6年に完成したそうですが、これは西暦で言うと1859年です。ゴシケーヴィチは1858年から1865年まで函館領事を務めていましたから、やはり時間的には不自然なことはありません。

 それにしてもここまで詳しく知ることができるとは思いませんでした。
 調べてくださった方、本当にありがとうございました。

 ゴシケーヴィチの謎はいろいろありますが、また少し解明されたと思います。
 生誕200年の年に不確かな部分ははっきりさせるほうがいいと私は思っているので、これからもできるだけ分かったことをまとめて、ベラルーシ側に伝えようと思っています。

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 追記です。
 シンケイ丸、晴雨計、常夜灯について詳しく分かりました。
 こちらをご覧ください。

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